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私は当時、人が怖かった。
私の心は他人に読まれてしまうのに彼らの心は全く分らない。どういう気持ちで私を化け物扱いするのか、どういう気持ちで私を蔑むのか・・・・・・どういう気持ちで私を叩くのか……その全てが分からず、その存在は私にとって恐怖でしかなかったのです。
だから私は、裏路地にいました。
それは怖い人間から逃れる為に自然とそれを学んだ事。
【まっとうな人間は裏路地に足を運ばない】
そしてその日、彼女は私の潜む裏路地をその無知故に訪れてしまったのです。
薄汚れた白のワンピースに裸足、誰が見てもまっとうでない彼女は私を見て酷く驚いていました。私はといえば年下、それも痩せこけた体躯の女性とあり、普段の様な人間への恐怖はなく、しかし、特段興味もありませんでした。
とはいえ、それもその日だけの話です。
彼女は翌日も、翌々日も現れました。そしてある雨の日、傘もささずに私を観察している彼女に私は初めて声を上げて怒ったのです。
「お前、なんなんだよ!?」『気色の悪い奴だな!!』
「……!!…!!・・・・・・」
その言葉に彼女は大きく目を見開き大げさに驚いた様な仕草を見せるとその瞳に大粒の涙を見せました。
「なっ!!」
『な……泣くなよ。俺はそういうのどうしていいか分んないんだよ』
言葉で驚き、心の声は戸惑いました。
未熟にも、私は女性の涙の止め方を知りませんでしたから。彼女は、そんな私の心の声を感じて今度は全身で笑って見せたました。
「……♪……♪♪」
「くそ・・・・・・なんなんだよ・・・・・・お前といると調子狂うな・・・・・・」
今思えば、彼女の笑顔に安堵し、彼女に泣かれるということを避けたいと感じたその時から私と彼女の位置関係は定まっていたのでしょう。
そして、声を出さず表情だけで笑う彼女を見て、当時の私はようやく気付きました。
「お……お前もしかして……」『喋れないのか?』「……」
彼女は何か思いつめたような表情で小さく頷きました。
そして、それが私達の初めての“会話”となったのです。
当時の彼女は話す事はおろか字を書く事も出来ず、しかし、その言動からはそれらを学びたいという意思が強く感じ取れました。
そして、彼女はその計画の為に私の力を喜んだのです。
耳を通す事なく声を脳に送る力である伝心、なんの役に立つこともなかったこの伝心を彼女は必要としてくれました。
今から思えばそれは彼女にとっての救いであると同時に、こんな味気のない能力を持ってしまった私にとっての救済だったのかもしれません。
・・・・・・
数日を経て私は彼女の本気と才能に驚愕しました。
彼女はとてつもない努力家でもあったのです。私の話しを口で真似て、その意味を伝心で読み取る。毎日路地に来てはそれを飽きずに続けていた彼女は私の想像を遥かに超える速さで言葉を認識していったのです。
いつしか私も、初めて感じる人に必要とされる喜びを感じ、彼女を妹の様に愛でる様になりました。
そして、彼女もまた、私を兄の様に慕ってくれたましたが......
『「なぁ、そろそろ声、聞かせてくれよ?」』
「……」
この問いに対してだけはツンとそっぽを向き答えてはくれなかったのです。
でも、私は知っているます。
彼女にとって一番話したいのは姉なのです。ジェスチャーを使って私に覚えたい言葉を伝える彼女が最初に指をさしたのが通りを歩く姉妹の姉だった事もありますが、以外でも彼女の覚えたい言葉の趣向は姉との会話に向いている様に感じました。
『まぁ、本物の姉貴には敵わないか...…』
「!?……♪」
私がふとそんな事を思うとそれに反応した彼女が愉快そうに私の顔を見ます。
『なっ!?今の聞こえたのか!?あーもう!言っとくけど嫉妬とかじゃないからな!!』
「……♪♪」
『分かってるか?もー……絶対分かってない態度だろそれっ』
私はこの妹にいつもこんな調子でからかわれていた様に思いますが、それは私にとって輝かしい思い出でもあります。
なぜなら、当時の私は彼女の上辺しか知らず、表情の軽やかな彼女を通してその家庭が幸福に溢れていると誤認し、あまつさえ彼女に妹として接することでその夢の様な家庭に加わった気にさえなっていたのです。
それ故の勇み足でしょう。
それから更に数日、私は彼女に言いました。
『もうお前の言葉は姉貴にも届くぞ』
それは嘘ではありません。
彼女の常識はずれな努力は彼女の言語力を不自由ないほどに高めたと確信出来ていました。
事実、初めは私の伝心を聞いてもその意味にそぐわない表情をしていた彼女が今では私の心に合わせて笑い、怒り、泣いているのです。
一か月にも満たない期間でしたが、それに相応しい努力も熱意も知る私は驚きもなくそう言えました。そして、私自身、彼女の声が聞きたいという気持ちが高まり、もう我慢は限界だったのでしょう。
「♪♪~♪」
『嬉しそうだな……まぁ、めいいっぱい脅かしてやるんだな!』
「♪」『あはははは』「♪♪」
翌日、私はヘレンの後をつけて歩きました。
私の伝心が届かない距離を意識した長距離尾行は思いの外上手く事が運びました。私にとって恐ろしい人間のいる裏路地の外に出る事を躊躇わずにです。私はそこまでしてでも彼女の声が聞きたかったのです。彼女の声を聞き、姉との美しいやり取りを見る事でその義理の兄である私の心を満たす為にです。
しかし、そこで私は彼女が話せない事以前の問題を初めて知るのです。
耳の聞こえない彼女自身が気付いていない、あの問題にです。
「なによっ!!私の顔を見ないで気色の悪い子!!」
「なっ!?」
そこで私が見たものは思いの外に険しい彼女の家庭事情でした。
しかし、彼女にその言葉は聞こえていませんし、口の動きから読み取るにも、私は彼女に向けてそんな言葉を教えていませんでした。
だから彼女は練習したあの言葉を変更なく言うはずでした。
私の中に小さな希望がありました。
きっと、もしかしたら、あの言葉は彼女と彼女の家庭環境さえも救ってくれるかもしれないと、私にはそんな淡い期待があったのです。
しかし、彼女がすぅと口を開いた時でした。
私の背後からその声は聞こえました。
「見つけたぞ……小僧!!」「なっ!?」
私の背後には当時私の窃盗の対象だった男の一人が肩がちぎれるかと思うほどの力で肩を握りしめていました。
やはり、私にとって裏路地の外は危険でした。
お陰でヘレンのその後を見届ける事は叶わず、二人分の盗みを繰り返された窃盗の被害者である男は今までになく憎らし気でした。
「っ……こんな時に……」
当時の私は弱く、弱いと思っていました。
私のする事は周りの誰もに見抜かれてしまうのです。そんなハンデを背負って彼らに喧嘩で勝つことなんて出来ないと決めつけていました。だから、私はその瞬間覚悟を決めました。
『失敗した。まず間違いなく殺される……』
「へっ!よく分かってんじゃねぇか」
男は憤怒の表情に口元だけの笑みを浮かべると握り拳をつくりました。
しかし......その時、ヘレンの姉の声が私の耳に届いたのです。
「だからアンタは気持ち悪いのよっ!!!」
「……!?……!!」
姉の怒声が聞こえ、振り向くと声の主が走り去る姿が見えました。
そして、それを追う彼女の姿もそこにはあります。
「なっ……ちょっと待てよ!!」
私は思わず肩を掴む手を振りほどいて彼女を追いかけようとしますが、当然、男が私の前に立ちはだかりました。
「いい度胸じゃねえか。それぐらいでなきゃ鬱憤が醒めないんだよ」
「邪魔するな!!」
「なっっ!?」
『っ!?』
私の拳が男の顎を打ち、尻もちをつかせた時、私が自信を過小評価している事にまつわる齟齬を覚えましたが、今はそれを気にする余裕がありませんでした。私は急いでヘレンの後を追う事にしました。
結論から言えば、彼女を追うまでにそう時間は費やしませんでしたが、それでも彼女を追うには遅すぎました。或いは、私はその場で彼女が帰るのを待っていれば良かったのだと、後にそれは悔やみきれない後悔になるのです。
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