第43話 小寒 前編

 正月気分が抜けきらないうちに、新年の営業が始まった。午前十一時、店を開けてすぐに春菜がやってきた。百貨店の紙袋から焼き菓子で有名な店の包みをちらりと見せ、「開けましておめでとう」とカウンターに声を投げかけた。

「あら、あとから行こうと思ってたのに」しゃがんで食器の整理をしていた佳奈子が立ち上がり、春菜に笑顔を向けた。


 去年の十一月に倒れた佳奈子は、退院してからずっと自宅療養を続けていたが、今日から仕事に復帰した。昨日は佳奈子を除く結衣と修平と真弓の三人でデザートの仕込みや正月飾りの整理をしていた。例年なら三日から営業なのだが、今年は佳奈子の体調を見て今日からということになっていた。都合カフェのホールに立つのは一週間ぶりだった。思い返してもそれだけの期間この場所を離れたことはなかった。異例ずくめのスタートとも言えたが、かといってそれで何かが変わるということはない。こうして全員がこの場所に揃い、そして新年の挨拶を交わすのは、日付が違っていても関係なかった。


「もう大丈夫なの?」春菜がカウンターに座り、佳奈子と向かい合った。「大丈夫よ」そう返す佳奈子の表情を見て、春菜は目尻にしわを寄せた。

「せっかくうちの売り上げが少し増えてたのに、これじゃあまたお客さんの取り合いね」

 春菜がそうやって冗談を言えるほどに、佳奈子の顔色はよく、調子もよさそうだった。

「お手柔らかに」


 佳奈子も引かない。この二人は相変わらず仲がいい、そう思いながら、結衣は春菜の前に水の入ったグラスを置いた。

「結衣ちゃんも、去年は誰かさんの所為で大変だったよね」

 首を傾げて同意を求める春菜に、結衣は満面の笑みで頷いた。

「そうだったの?」

 とぼける佳奈子を尻目に、隣では修平がお湯を沸かし、コーヒーを淹れる準備をしていた。

「半分は自分で勝手にやったことですけどね」


 佳奈子抜きで店を再開させたことは、今思えばかなり無茶なことだった。営業時間を短縮したとはいえ、営業するとなれば材料の調達や準備の手間は同じなのだ。普段なら佳奈子と修平が分担していたことを、あの一ヶ月は全て修平がやってくれた。結衣のわがままに付き合ってくれた修平のことを考えると、こうして笑って話すのも憚れる気がした。何も言わない修平のことが気になり、さっきからチラチラとそちらを伺っているが、修平は涼しい顔をしてじっとドリッパーと向き合っていた。

「でも本当、佳奈子さんが復帰してくれてよかったです」奥のテーブルを片付けていた真弓がそう言って近づいてくる。


「大変だったよね。ごめんね、本当に無理させちゃって」結衣は胸の前で手を合わせた。佳奈子のいない間、一番奮闘していたのは真弓だったかもしれない。もうダメだと結衣がへこたれそうになった時、何度真弓に励まされ、勇気付けられたことだろう。

「そんなことないです」真弓が首を横に振る。すると間髪を入れず修平が「真弓ちゃん、ちゃんと言ったほうがいいよ」と小声で茶々を入れた。

「修平さん、やっぱり怒ってますよね?」


 佳奈子と春菜が揃って笑った。この二人が笑顔になれば、それで全てはうやむやになる。それがいいこともあればそうでないこともあるだろうか、今日に限って言えば、決して悪いことではないだろうとも思う。ここにいる全員が、このカフェを大切に想っている。それだけは変わらないのだ。考え方の違いからぶつかり合うことはあっても、その気持ちがあればそれは建設的な議論になる。大学では味わえない不確実性を、結衣は最近心地よく思う。

「いや、でも大変だった。俺にとってもいい経験だったよ」


 修平はしばし手を休め、ドリッパーの中を窺っていた。細かな泡を浮かべて膨らむ粉の具合とサーバーに滴り落ちるコーヒーを交互に見て、お湯の量を調整しているのだ。修平の手首が再び傾き、お湯が細い筋となってドリッパーに降りていく。攪拌と抽出を繰り返し、ただの水が魔法の液体に変わる。その光景は何度見ても不思議だった。

 修平が小さく頷き、ポットを作業台に置いてドリッパーを持ち上げた。それをシンクに片付けながらサーバーを持ち上げてカップに注ぐ。湯気がふわりと沸き立ち、結衣は思わず目を閉じてその香りの行方を探した。


「これ、今日から新しく出すブレンドです。春菜さんが最初のお客さん」

 修平の手からカップが離れる。真っ白なソーサーとカップは、今日のために佳奈子が調達してきたものだった。普段の丸みを帯びたシンプルなカップでなく、ヒダのような湾曲と繊細な装飾が施された高級そうなカップだった。持ち手の部分にまでツルのような模様がついていて、それだけでも何かの作品のように見える。


「ていのいい毒味役?」

「みんなで作ったブレンドなんだから、心して飲んでね」佳奈子が追い打ちをかける。そのブレンドは、佳奈子が倒れる直前まで試行錯誤をしていたレシピを元に、修平と結衣と真弓が合間をみて作り上げた、いわば四人の共同作品だった。

 春菜が静かに口をつける。コーヒーの液面がふわふわと揺れる。試作段階で何度も飲んだ味には自信があった。それでも他の人の評価が気になってしまうのは、やはり自分に不安な気持ちがあるからだろうか。固唾を飲む、そんな言葉が不意に脳裏をよぎり、結衣は思わず喉を鳴らしてしまう。

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