第35話 立冬 前編

 朝の大学は静かだった。もちろん学生の姿はそこここにあったが、話し声はどこか遠くから聞こえるようで、ただ風が木立を揺らすさざ波のような音だけがキャンパスを包んでいた。昨日まで学園祭で盛り上がっていた痕跡は、ほとんどなかった。

 後期は、月曜日の授業は午後からだった。今日は誰にも会いたくなかった。アルバイトも休みだ。けれど、部屋に一人でいるのも耐えられる気がしなかった。雑踏の中で自分の存在を消してしまわないといけない。そうでもしないとせっかく飼い慣らした獣が暴れてしまいそうだった。そう思いキャンパスまで来たのに、正門を入ってすぐ、大学こそ用事もないのに来ても仕方がない場所だということに思い至った。


 正門からしばらく歩いた結衣は、掲示板の前で立ち止まった。大学からの通知が一方的に張り出されるそこには、休講となる授業の名前と時間がずらずらと掲示してあった。今日は休講が多い。一時限目などことごとく授業がないようだ。学園祭の翌日で朝は辛いだろうから休みにします、そんなところだろう。生徒のことを考えているのかいないのか、結衣には判断がつかない。

 大学の授業はおおらかだ。教授陣は何かと理由をつけて講義を休む。大学に入りたての頃は、先生が授業を休めば休講で自分たちが休めばただの欠席扱いなのも納得いかない気がしていたが、だからと言って自分が休む理由などろくなものではないのだから、それも止むなしと思えるようになった。幸い、午後の休講情報は出ていないようだ。


「結衣?」

 ぼんやりとどうでもいいことを考えていると、後ろから声をかけられた。果帆の声だ。「電話したのに、気づかなかった?」

「おはよ」

 戸惑いが見え隠れする声に振り向く。そんな結衣を見て、果帆は少しだけ息を飲んだように見えた。

「一限、休講だってさ」


 なかなか現れない講師を訝しみ、誰ともなく休講情報を検索したのだろう。果帆もそれを聞き、教室を出てきたらしい。自分の目で確かめようと、掲示板までやってきたようだ。

「そうみたいだね」

「休講情報は授業始まってからじゃ遅いってのに」果帆は不満げに唇を尖らす。それはその通りだと結衣は頷いた。「どうしよっか。午後の授業まで」すぐには話題に触れないのが果帆のいいところだ。果帆は二時限目の時間は空き時間で、いつもならその時間から落ち合って《café the Isle of Wight》に向かうのだが、九時を過ぎたばかりでは、まだ誠も店を開けていないだろう。


「馬場まで行こう」

 結衣はそう提案した。大学の周りで知っている店は誠の店くらいだった。選択肢を広げるには、一度戻るしかない。果帆が頷き、先頭を切って歩き始めた。高田馬場までは地下鉄で一駅だが、果帆は門の前で立ち止まると、地下鉄の駅のある右ではなく、高田馬場のある左に舵を切った。

 二人で並んで歩く。上り坂に差し掛かった頃、果帆が「ねえ」と言って、さも今気づきましたという感じで、「何かあったの?」と聞いてきた。

「ちょっとね」結衣はそう言って、後ろ髪を触った。背中に流れる髪が時折吹く冷たい風に揺れるのがわかった。

 歩きながらの方が、むしろいいのかもしれない。果帆の顔を見なくても済むし、何より涙で腫らした顔を見られずに済むのだから。結衣はぽつりぽつりと、今朝のことを話し始めた。




 圭は朝方帰ってきた。学園祭の出店の中でそこそこの売り上げをあげたらしく、宴会はかなりの盛り上がりだったのだろう。佳奈子にアドバイスをもらったことで、圭の作るブレンドは格段に美味しくなった。強気の価格設定にもかかわらず、本格的なコーヒーは驚くほど売れたらしい。昨日、一昨日と送られてきたメッセージには、そういう内容が数時間おきに記されていた。

 圭が帰ってきた音で結衣は目を覚ました。今思えば、その時点で間違いに気づくべきだったのだ。週末こそ圭の部屋に泊まることが多いといっても、今日は月曜日なのだから、本当なら自分の部屋に帰らないといけなかった。圭もきっと、結衣が部屋にいるなど思っていなかったのだろう。


 圭は荷物を床に降ろし、電気をつけたところで、そこに結衣がいることに気づいたようだった。

「結衣、どうしているんだよ」圭にとっては当たり前の疑問だったはずだ。それなのに、その時の結衣はどうしてもそう思えなかった。どうして? そんなの、決まっているじゃない。そうやって圭のことをなじった。

「……ずっと待ってたのに」

 眠気はとうに過ぎ去っていた。涙が溢れ出した。化粧を落としていないことを思い出し、マスカラが崩れたら嫌だと場違いな思いに捕われた結衣は、涙を拭うことなく圭を見据えた。滲んだ視界の向こうで圭が呆然と立っていた。圭の前で初めて泣いた。初めて不満をぶつけた。初めて弱い自分を見せた——。


 結衣はベッドから飛び上がり、自分の荷物を慌てて掴むと、ジャージの上下のまま部屋を飛び出した。マンションのエレベーターがその階に止まっていたのも、マンションを出てすぐにタクシーが捕まったのも僥倖だった。最寄り駅とは別の駅まで行って、そこで着替えた。圭は追いかけてきただろうか。もしかしたら、今頃いつもの駅で自分を探しているかもしれない。電話をしているかもしれない。雑多な思考が頭に溢れた。着替え終わってバッグを開けて初めて、結衣はスマートフォンを圭の部屋に置き忘れていることに気づいた。




 いつのまにか明治通りとの交差点に差し掛かっていた。信号が赤に変わり、二人は立ち止まった。大型トラックが行き過ぎる。地面が揺れたような気がして、結衣はふと我に帰った。

「圭くん、しくじりましたな」

「どっちかっていうと、私だけどね」

 結衣は自嘲気味に笑った。笑うしかない。ここまでこじれてしまったら、そうするしかないようにも思えた。圭と付き合う前の自分に会ったら、きっと嘲笑されるに違いない。ほら、だから恋愛なんてするもんじゃない。勝手に盛り上がって勝手に冷めて、そうして無駄に時間を費やすだけだ。あの頃の自分ならきっとそう言うだろう。

 自分でもわかっていた。最近どうして圭とうまくいかなくなっていたのか。自分が校外会場の企画に傾倒する一方、圭は自分のサークル活動で忙しくなり、どうしても二人の時間が持てなくなった。どちらの所為でもないのに、圭が自分をかまってくれないのが嫌だった。ただのわがままだということくらい承知していた。最初からわかっていたこと、覚悟していたことだった。だからこそ、これまでずっと溜め込んでいたのだ。


 結局、春菜が学園祭の話を持ちかけてきた時から心にあった迷いの根源、その危惧がここにきて露見しただけのことだ。学園祭の準備をしている時、これこそ自分のやりたいことだと思った。圭の存在を顧みず、佳奈子と一緒に没頭していた。それなのに、ずっと不安だった。自分の気持ちがどこかに行ってしまわないかと。圭の自分に対する気持ちがどこかへ行ってしまわないかと。本当に身勝手だ。そんな身勝手な感情に支配され、圭に声を荒げてしまった自分が許せなかったし、そんな自分に何も言わない圭にも腹が立っていた。

「とりあえず、圭くんには私が連絡しとくよ。結衣のスマホのこととか、色々と」

「ほんとごめん」

 信号が変わる。後ろから急き立てるように車のエンジン音がして、結衣たちは早足で横断歩道を渡った。果帆は角に立つプラタナスの幹の前で立ち止まり、圭にメッセージを打った。どちらともなく、ふうっとため息をつく。


「それでさ、これからどうするの?」再び歩き出すと、果帆が恐る恐る結衣の顔を覗き込んだ。

「どうすればいい?」

 なんとかしたい、その気持ちだけはあった。少なくとも今のままではだめだ。ではどうすればいいのか。自分が謝ればいいのか。それだけで済むような感じではないし、そもそも自分は何に対して謝ればいいのだ?

「どうしようか」

 自分がわからないことを果帆がわかる道理はない。途方に暮れるとはこのことを言うのだろう。どうすればいいのかわからない。圭のことが好きなだけなのに、どうしてこうして悩まなければいけないのだろう。こんなことなら——。


 思考は止まらない。こんなことなら、その先に思いが向かった途端、結衣は自分の気持ちが急速に冷めていくのを止められなかった。圭のコーヒーを飲んだ時に感じた掌の感触にも似た、それは寒さという実態を伴って結衣の体を覆っていく。堪らず結衣は自分の腕を組み、掌で二の腕をさすった。奥歯をぎりっと噛み締める。体が震え出しそうだった。それ以上考えたらいけない。温かいコーヒーが飲みたい。佳奈子のところにいかなければ。結衣は混乱する頭を必死に整理した。果帆と佳奈子がいれば大丈夫だ。自分にそう言い聞かせる。


「果帆、今って何時?」

「九時半過ぎたくらいだけど」結衣に聞かれ、果帆はスマートフォンを取り出す。「圭くん、まだメッセージ読んでないのかな」ホーム画面を覗き込む果帆は小首をかしげる。

「もう佳奈子さんいるだろうし、うちのカフェに行こう」

「いいけど、圭くんには伝える?」果帆の言葉に心臓が震えた。「結衣、顔色悪いよ、大丈夫?」

「圭くんには言わないで。私は大丈夫だから」

 結衣はとにかく、早く佳奈子のところに行きたかった。早くしないと、取り返しのつかないことになる。それだけを思い、冷たい体を動かした。

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