第23話 立秋 前編

 加速を続ける新幹線の窓の外、目の前を移ろう景色は刻々と姿を変え、流れるように過ぎるビルが後ろに飛び退いていく。大宮駅を出ていくばくか、新幹線はその本領を発揮せんとばかりに静かな咆哮を上げていた。窓際の席に座った結衣は、しばしその風景を伺い、前の座席の後部にある物入れからペットボトルを取り出した。


「紅茶なんて珍しいね」

 結衣が手にした紅茶のペットボトルを指して、圭が言った。圭の声に一度はその顔を見たものの、結衣はペットボトルのラベルに視線を移し、「やっぱりそう思う?」と再び圭に向き直った。

「結衣といえばコーヒーだと思ってたから」圭が柔らかく笑う。「しかもミルクティーなんだな」


「うん。なんでだろうね。新幹線に乗る時だけはこれなんだ」結衣はそうやって答えたものの、我ながらよくわからない習慣だと心の中で笑う。コーヒーはブラックなのに、紅茶のストレートは苦手だった。妙なこだわりは大抵普段は意識さえしないところにあるものだ。

「長野に帰る時とか?」

 結衣の出自を知る圭はそう言って座席に収まる腰を僅かに浮かせ、結衣に体を寄せる。間近に感じる圭の熱が、日常の延長にある非日常を意識させた。


 二人で旅行に行く計画を立てたのは数週間前だ。テスト期間が始まる前、店舗改装を終えた《café the Isle of Wight》で話をしているうち、互いの出身地の話になり、あれよあれよと目的と場所が決まったのだ。

 結衣が新幹線に乗る機会は実家に帰るときくらいしかない。長野市を通過する北陸新幹線は、今乗っている東北新幹線と何かが違う気がした。もちろん運用されている車両の種類が違うのだが、山の間を縦走する北陸新幹線が朴訥とした風情を醸し出しているとすれば、北にまっすぐ鼻先を向けた東北新幹線は純真な気持ちを宿しているように思えた。どちらも都市を結ぶ日本の動脈でありながら、通過する場所が変わればありようも変わってくるということだろうか。


「実家だといつもお茶だから、間をとって紅茶、みたいな」

 結衣の返答が意外だったのか、圭は目を細めて笑った。可笑しなことを言っただろうか。結衣が自問している間にも、圭の体が揺れ、その振動が結衣の体の深いところに穏やかな温かさを伝えていく。

「でも、なんとなくわかるよ。東京に住んでても、故郷は別にあって……。二つの顔を持っているような感覚」

「猫かぶってるってこと?」結衣が仕返しとばかりに圭を挑発した。

「猫っていうか、なんだろうね、イメージは羊のぬいぐるみ、かな。俺、占いのキャラクター羊だったし」


 今度は結衣が笑う番になった。笑われて釈然としない顔を向ける圭がその笑い声に拍車をかけた。

「ごめん。まさか羊とは思わなかったけど、きっとそんな感じだよ」

 圭が言葉にした〝二つの顔〟、そうとしか表現できない感覚は、結衣にもわかった。東京にいる自分、それを意識しない日はなかった。親元を離れ、ひとりで暮らす日々、その中にあって、大都会東京という空間は自分自身を相対化する広大な実験場だった。一歩下がることで見える、あの日の自分。それが圭の言う〝二つの顔〟なのだろう。

「きっとね。まあ、どちらがいいってわけじゃなくて、両方とも自分なんだけどね」


 戸惑いの中から見つけた新しい自分——。希薄な空気に放り込まれ、それでも生きていくために身につけた処世術の産物が、今の自分を制御する潤滑油となって体に流れている。深く内奥に入り込んだそれは、いつしか自分の一部になって、断続平衡的に変化する自身を顧みる隙も与えてはくれない。

「あの頃の自分、か」

 あの頃、半径数キロの範囲しか知らなかった自分に、今の自分のことを教えてあげたい。今、私は恋人の生まれ故郷に、一緒に旅行しに行くところなんだぞ、と。




 仙台、そこが圭の生まれ育った場所だった。長野県の山の中でくすぶっていた頃の結衣にしてみれば、東京も仙台も、等しく都会だった。地面を歩いているのか空中回廊の上なのか、はたまた地下なのか、常に自分の位置を把握していないと目的地へたどり着くことはできなかった。高校生の時に仙台に遊びに行った時は、携帯電話の小さい画面に表示された地図を凝視するあまり、柱にぶつかりそうになったこともしばしばだった。

 仙台駅に着いて、エスカレーターを降りていても、ここは何階なのだろうと考えてしまう。仙台に来る時はいつもここが一番緊張する。バスターミナルはどのフロアだっただろう。売店は、トイレは……。手すりにつかまり周りをキョロキョロと見回していると、前に立つ圭が不意に首をもたげた。


「とりあえず、昼ごはん食べに行こうか」

「美味しいお店知ってるの?」

 不安に固まった心が、たったそれだけの会話で溶けていく。独りじゃない、それだけでここまで安心できるのだ。道に迷うことを考える必要などない。当たり前だ。ここは、圭が生まれ、育った街なのだから。

 今回の旅行は久しぶりの遠出だった。圭と付き合うようになっても、基本的に結衣の生活は変わらなかった。同じ大学に通うもの同士、行動パターンは似たようなものだったし、圭はことさらにデートに連れ出すことはしなかった。先週、隅田川の花火大会を見にいったくらいだ。

 そのくらいで十分だった。夏休みが始まっても、結衣にはアルバイトがあったし、圭にはサークルや友人たちとの時間があった。そういう時があるからこそ、今日のような日が特別な日に変わるのだ。


 圭が薦める牛タンの店は、広瀬通り沿いにあるという。仙台では比較的有名な店のようで、昼食にしては遅い時間に仙台に着いたのも、予約の関係があったかららしい。

 駅のコンコースに入ると、大きなステンドグラスが見えた。壁の上から下まで縦に貫くようにはめ込まれたガラスのタペストリーは、仙台駅を象徴するもののひとつだ。何を表現しているのかはわからないが、青色のガラスから漏れる光は待ち合わせをする人たちに等しく降り注ぎ、ランドマークとしての役割を果たしていた。それを横目に、二人は駅舎の外に出た。

 真夏の日差しがほとんど真上から結衣の体を射抜くように降り注いだ。東京に比べれば多少風が柔らかい気もするが、漂う空気は都市特有の熱気と湿気を帯びた、ある意味慣れ親しんだものだった。日差しに目を細める一方、通路を歩く人に視線を移すと、浴衣姿の人が多くいるのに気づいた。


「祭りって感じだよね」結衣の視線を追いかけるように、圭が言った。「ちょっと寄ってみる? 夜に見るつもりだったけど」

 てっきり夜だけのお祭りだと思っていた。結衣が大きく頷くと、圭は周りを見渡し、「あそこから商店街に入ろうかな」と言い、通路を左に曲がった。その頃になってようやく、結衣はそこが空中回廊だということに気づいた。左手の柵の隙間から階下のバスターミナルが見える。バスを降りてくる人の中にも浴衣姿の男女があった。祭りの空気がすぐそこまで迫っている。熱い空気の胎動、それが風に乗って結衣を急き立てていた。

 回廊を降りて通りに入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは、アーケードから吊るされた大きな笹飾りだった。球状に編み込まれたくす玉飾りの下に、吹き流しが幾重にも伸びている。高さ四メートル以上の巨体が商店街を抜ける風にその端を預け、優雅に浮かんでいた。


「こんなに大きいんだ」

「大きさはいろいろあるみたいだけど、こうやって五つセットで竹に吊るすのが基本なんだって」

 圭が視線を上げ、吹き流しを指す。アーケードを渡るように伸びた太い竹に五つの笹飾りが並ぶ様は、さしずめスカートをまとった巨人が祭り客を睥睨しているようだった。

 人の流れに沿って、みるみる笹飾りが近づいてくる。地面すれすれまで伸びた吹き流しを避けて、その間を通り抜ける。

「紙でできるんだね」

「そうそう。だから雨が降ったらやばいんだ。この商店街は天井があるからいいけど、そうなってないところも多いし」

 圭の声を聞きながら、結衣は商店の軒先から張り出した様々な飾りに目を奪われていた。吹き流しの群れははるか先まで続き、その間には折鶴や巾着の飾りが笹からすだれのように垂れ下がっていた。七夕と言えば短冊だと思っていたのに、その短冊を見つけるのが難しいくらい、色彩豊かな飾りが商店街を占領していた。


「準備大変そう」

「商店街や周りの会社の人は大変みたいだよ。うちはもう少し郊外だから、あんまり手伝いとかしなかったけど。何ヶ月もかけて作るみたいだから」

 飾りを眺めながらゆっくりと歩いた。通りのそこかしこから呼び込みの声が上がり、歩行者天国になっている道路には所々に小さなブースが設けられ、観光案内やら笹飾りの公開作成などが催されていて、祭りの雰囲気を演出していた。行き交う人の列は前も後ろも何重にも広がって、それぞれがみんな笹飾りを仰ぎ、祭りの空気の一部になっていた。

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