第8話 晴明 後編

 学生街にあるカフェの宿命は、夕方に差し掛かる時間帯になると大学生が押し寄せてくることだ。授業が本格的に始まるのは来週からだが、新歓コンパまでの暇つぶしか、はたまた勧誘そのものか、店内はそんな大学生のグループで賑わっていた。

「それで、圭はどうなんだよ」

 結衣がテーブルを片付けていると、隣の四人掛けの席からそんな会話が聞こえた。


「別に。去年と同じようなもんだよ。般教は適当に、専門科目はそれなりに」圭と呼ばれた男子学生が、面倒くさそうに話していた。適当とそれなり。大学生ならば、確かにその二つがあれば全てが成り立つのかもしれない。自分はどうなのだろうか、と結衣は思った。東京に出てきて、最初の頃こそ周りが新鮮だったけれど、都会での生活にも慣れてきて、日常を適当にそれなりに、いなしすかしながら過ごしているだけではないだろうか。


 こうして働いていると、いろいろな人の会話を耳にする。当人たちにとってはどれほど大切でも、結衣にとっては他愛のない出来事の片鱗でしかない。それでも、そうして考えてしまう。自分とは関わりのない人の考え方を聞き、動揺してしまう自分がいた。

「お前は西洋史だっけ?」さっきとは別の男子学生が、圭に聞く。モテモテなのだな、と結衣は思った。みんなが圭のことを気にしているようだ。

 テーブルの片づけを終え、カウンターに戻る。佳奈子はいつものように常連客と話をしていた。相手の婦人は、年頃は佳奈子と同じくらいだ。そのくらいの女性特有の人懐っこさで、結衣もいつからか親しく話をするようになっていた。


「あ、結衣ちゃん。お疲れ様」

「春菜さん。お疲れ様です。またサボりですか?」

 結衣がカウンターから身を乗り出し、小声で言う。春菜はあら、と目を大きく開いた。

「休憩よ。大丈夫。うちには優秀な人材が二人もいるから」

 春菜も、佳奈子と同じようにカフェを経営していた。佳奈子とはカフェ経営のセミナーで知り合ったらしく、奇しくも同じ学生街に出店することが決まって、たまにこうして互いの店を行き来しているのだ。

「私も今度遊びに行きます」結衣はまだ春菜の店に行ったことがなかった。普通に客として振る舞うことができるのか、そんな雑念がどうしても頭をよぎってしまう。佳奈子や春菜は、きっとそんなことは考えていない。いつだって、この二人はしなやかに自分の信条に沿って生きているのだ。佳奈子の周りには、そうしてはっきりと「こうありたい」を体現している人がたくさんいる。自分にもそれができるのだろうか。


 春菜はその名の通り、春のように透き通った雰囲気で優しく結衣に微笑みかける。

「そういえば、さっきから修平くんの姿が見えないけど、何かあったの?」

 春菜がふと思い立ったように言うと、正面の佳奈子に視線を向けた。

「『新しいメニューが降りてきそう』とか言って、厨房で首を捻ってる」

「まるで芸術家じゃない」

「そうそう。まあ確かに、雰囲気はそんな感じだけど」佳奈子はおかしそうに笑う。「そろそろ戻ってきてくれないと、忙しくなりそうなのに」

 結衣は店の中を見渡す。ある程度埋まった席で、客は思い思いの時を過ごしていた。客の潮目が変わるのも時間の問題だ。帰り支度を始めれば会計をし、新規の客が来れば水を出し、注文を聞く。カウンターでのんびりしていられるのも今のうちだ。


 話題に出ていることを知ってかしらずか、そのタイミングで奥から修平が出てきた。手に大きなカップを抱え、慎重にカウンターの内側に入ってくる。

「修平さん、カフェオレボウルなんか持ってどうしたんですか?」このカフェではカフェオレは普通のカップで提供しているから、そもそもボウルはなかったはずだ。

「これは、ココナッツミルクで作ったヨーグルトだよ」

 ココナッツミルクのヨーグルトがあるということを、結衣は初めて知った。植物性乳酸菌食品として、最近注目されている、らしい。修平はこんな知識をどこで仕入れてくるのだろう。

「あの本に、そんなこと書いてあったんですか?」結衣は、今朝図書館から借りてきた『コーヒーと文学』を思い出す。とても、乳酸菌について解説してあるとは思えなかったが、タイトルだけで内容がわかれば苦労はしない。

「コーヒーとの食べ合わせに関する記述を探しているんだ。あの本に載ってたわけじゃないけどね。ヨーグルトは、意外と合うんだって」


「そうなんですか?」コーヒーとヨーグルトを一緒に食べる機会はなかなかなく、想像しようとしてもイメージが湧かなかった。

「それが、新しいメニュー?」春菜が尋ねた。

「いえ、それはまだ。ちょっと、佳奈子さんにも食べて欲しくて」

「コヨね。話には聞いたことがあるけど、食べるのは初めて」

 修平が差し出したボウルを覗き込み、佳奈子は嬉しそうに頬を緩めた。修平からボウルを受け取ると、スプーンですくい、ヨーグルトを口に含んだ。

「どうですか。口に合いますか?」修平の目は真剣だった。この店でメニューを考える時、障壁となるのは佳奈子の舌だ。佳奈子が食べられなければ、客に提供することはできない。以前、結衣が『新規メニュー決定会合』でバナナを生クリームと一緒にスポンジで包んだ《丸ごとバナナ》を提案した時は、バナナが苦手な佳奈子に一蹴されてしまった。


「うん。美味しい。夏に向けて、考えていきましょう」

 一次試験は合格、ということだろう。修平の表情が和らいだ。コーヒーとヨーグルトがこれからどのようにつながっていくのか、結衣にはまだピンとこなかった。それでも、こうしてまた修平が新しく一歩を踏み出そうとする姿を、結衣は羨ましく思った。ココナッツヨーグルトの清々しいほどの白さに、結衣はまた、図らずも春を感じていた。

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