22.追想ついそう

「そこのお姉さん、元気?」

「え?」

 今日はバイトもなく、ひとりのんびりと家で本でも読もうかな、と校門を出た直後、目の前に不審な車が横付けされた。

「デートでもしませんか?」

「英先生?!」


 けれど先生は行きたいところがある訳でも、したいことがある訳でもなく、私の好きなようにしていいと言ってくれた。

 かといって私はデートなんてしたこともないし、何をしたらいいのかわからず、前半はただひたすらドライブをしていた。

 それでも先生はにこにこととても楽しそうだった。

 そしてたまたま信号で停まった交差点から見えた海が、先生の書いた物語のモデルになったという話を聞き、せっかく大好きな先生といるのだからと、隠れ聖地巡礼をすることになった。

 先生の作品に出てくる場所は、ほとんど行ってみたけれど、まだ知らない場所もある。そんな聖地めぐりができるなんて夢のよう。

「先生、今日はすみませんでした。私ばっかり楽しんで。聖地で、主人公と同じことするの夢だったんですよ」

「元気出て良かった。僕も本当に楽しかったよ。もう、いいの?」

「はい。…あ、やっぱり…最後にひとつだけいいですか?」


 と、軽い気持ちで言ってしまったけれど、随分と長いドライブの末たどり着いたのは、英先生のデビュー作に出てきた図書館。

「あのモデルは僕と怜の地元の図書館だよ」

 図書館はお静かに、が鉄則だけれど、館内はクラシックが流れ多少の会話は気にならない。

 幼児向けの本があるフロアは遊具もあり子どもたちが遊んでいるし、勉強している学生や喋りたいだけのJK。脇に何冊も積み上げて読みふけっているおじさまもいる。

 それを眺めているだけでも楽しい。

 私は、カウンターから一番遠い奥のテーブル、誰もいない窓際から3番目の席に座る。

 先生のデビュー作の主人公が恋する女性の指定席。

「いつもここで静かに本を読む女性に惹かれていた主人公の“僕”が、彼女がいない時にこの席に座るんですよね」

「そう。それがきっかけで話をするようになり、恋に発展するけど…」

 私の左隣に座った英先生が受け継ぐ。

「最終的にふたりはどうなったと思う?」

「それがすごく気になっていたんですよ。どうしてあんな風に終わってしまったのか。続編がでないかな、てずっと思ってました」

 ようやくふたりの気持ちが通い始め、これからって時に終わってしまった。

「でしょう?でも僕にもわからなかったから」

「え?」

「僕の作品ってだいたい実話が元だから…大学生だった朱希と僕の馴れ初め」

「えー本当ですか?…素敵です」

「だから、当時はそこまでの関係だったわけ…そしてラストが、この間の新作」

「え?でもあのお話は、……えぇ?」

 先生は立ち上がり様に、私にキスをした。あまりにも自然すぎて唖然とする。

「せ、先生!?」

「図書館は、静かにね…。聖地で同じことするの夢だったんでしょ?」

「そ、そうですけど…」

「誰も見ていないよ。…帰ろうか?」


 あっさりと、またキスをされた。先生にとっては挨拶がわりみたいなものなのかもしれないけれど…

「ごめんね、また不意打ちしちゃって」

 帰りの車内で、先生がいきなり切り出す。

「あまりにも可愛くてね。初めて会った時も、今も。また、キスしてもいい?」

「え?こ、困ります!」

「やっぱり可愛いなぁ」

 先生は、私が顔を赤くしているのを見て楽しそうに笑った。この雰囲気を壊したくはなかったけれど、どうしても聞きたいことがあった。

「先生、さっきのことですけど」

「なに?」

「…先生の新作が、実話だって話です」

「あぁ、ノンフィクションってわけじゃないよ…でも上巻のあらすじはほぼ同じかな」

「え…どういうことですか?」



 聞いてもらいたい事があるから、と仕事で使っているマンションに連れてこられた。

 渚さんがバイトをしていた時以来、来ていなかったせいか、あれからずいぶん物が増えた気がする。

「今こっちに住んでるんだ」

「泊まり込みですか」

「いいや、渚ちゃんに頼んでここを片付けてもらっていたのは、自宅を引き払ってここに引っ越したからなんだ」

「そうなんですか?…じゃぁ、朱希さん、は?」

 先生の執筆部屋。

 私はソファに座るよう促され、先生は真正面の社長椅子に深く腰掛けた。そして引き出しから写真たてをひとつ取りだして、机の上においた。続けて指輪をふたつ。

 写真は先生と可愛らしい小柄な女性とのツーショット。朱希さんとは会ったことがないから顔はわからないけれど、たぶん朱希さんとちょっと若い英先生。

「朱希はもういないんだ」

「え?」

「 朱希との思いでは写真くらいしかなくてね」

「いない?って…」

「ゆずちゃんに新作を読んでもらった2日後…朱希は、一度も意識が回復することなく息を引き取った」

「え…うそ」

「そんなに驚くことはないよ。新作の下巻読んでくれたでしょう?あれでも“妻”は死ぬ」

「そうですけど」

 ほぼ実話だと言った上巻で、長年連れ添った妻が事故で昏睡状態になったことをきっかけに裏切りが発覚し、主人公が真相を探るところまでが書かれた。

 1ヶ月ほど遅れて発売された下巻で、最終的に妻は亡くなる。

「でも、下巻では妻の意識が回復し、主人公への愛を告げてから亡くなったはずですよね?」

「うん、小説の中ではね。…そういえば、まだ下巻の感想聞いてなかったな」

 物語では、ラスト“妻”は主人公を裏切ったわけじゃなかったことがわかる。最後まで“妻”を信じぬいた主人公の想いは報われ自殺を思い止まり、妻の名誉を回復するため真実を本にすること決める。

「上巻で主人公は“妻”に裏切られたかもしれないと思って深く傷つき、知らなかった“妻”の一面や想いを知りましたよね?調べるほどに疑惑が出てきて…でも下巻でほっとしました。すべて主人公のための事で、裏切りではないことをずっと願ってましたから。そうなってくれて良かった、って思いました」

「僕もだよ。そうなればいいと、ずっと思っていたからね」

「え?」

「上巻はほとんど真実。でも下巻はほとんど違うんだ」

 先生はおもむろに机に置かれた指輪に触れ、サイズの小さい方だけ手に取った。

「それ、朱希さんの?」

「うん。でも正確にはもう妻じゃなかった。別れてもう4年になる」

「え?どういうことですか?」

「何から話せば良いかな…」

 長くなるけど、と一度言葉に詰まった先生。

 私は何時間でも大丈夫です、と先生の気持の整理がつくのを待った。

 そしてゆっくりと、指輪だけを見つめながら話し出す。

「大学を出て僕は朱希とすぐにでも結婚したかったんだけど、彼女の家は結構な家柄の一人娘だったから、売れない作家なんかとじゃもう大反対で…婿養子になることでなんとか結婚することができたけど、なかなか子どもに恵まれなくてね。何度も別れるように彼女の両親から言われていたんだ」

 先生は時々、間を取りながら、順を追って話してくれているようだった。

「朱希は本当に僕にはもったいない良い妻でよく尽くしてくれた。僕が外で遊んでいるのを気づいていながら、一度も責められたことはない」

「先生のことを信じていたんですね」

「良く言えばね。僕がどれだけ最低な男かはわかっているけど、他で本気になることはなかったし、責められないのも少し寂しかった部分もあって、調子にのってたんだ。子どもみたいだよね…だからあの事故で思い知った。彼女がどれだけ僕を恨んでいたか…最後に仕返しができたわけだ」

「そんな…でも、小説のように何か理由があったんですよね?」

「僕も最初はそう思ったよ。でも物語のようにはうまくいかない…相手はまわりからの評判も良い独身男性だったようだが、彼とどういった関係なのか、真相はわからないまま。僕のだらしなさで朱希を傷つけていたことは確かだし、僕も徐々に朱希を信じられなくなり、彼女の両親に迫られるまま離婚が成立した。昏睡状態の彼女を残し、面倒な手続きもすべてお任せしてあっさりと他人になった。ずっと僕を信じてついてきてくれた彼女を僕はすぐに見捨てたんだ…」

「でも先生は、自宅も指輪もずっと大事にされていましたよね?口癖だって」

「自宅は彼女の物はほとんど持っていかれ、寝に帰るだけの空き家状態。指輪もただの見栄…僕は朱希を愛していたという言い訳みたいなものかな」

 先生は腰かけたままイスをくるりと回転させた。私からは完全に背を向け更に続ける。

「それから4年、先日朱希が亡くなったと連絡があって…正直ほっとしたんだ。当時、本気で真相を知りたければ探偵でもなんでも使えばできたはず。それをしなかったのは、真実を知りたくなかったから…僅かでも裏切りはないと信じていたかった…怖かったんだ」

 途中、言葉を選ぶように一度区切ったりすることはあっても、声の調子は変わらず、感情の大きな起伏も感じられなかったけれど、怖いと言ったその言葉だけは震えているようにも感じた。

「先生、大丈夫ですか?」

「うん、ありがとう。…僕はプロフィール上既婚者のままにしてあるし、遊んでいれば写真誌なんかの常連になって…いつか誰かが真相を調べてくれたらって思ったりもしたけど、そこまで僕の認知度は高くないし、世間はそんなこと興味ないだろうからね」

「英先生…」

 もしかしたら、泣いているのかもしれないと思った。思ったけれど、私には何もできない。愛情なんてよくわからないし、そんな私が何を言えるだろう。

「『ペトリコール』は初め、事実に沿ってただ哀しいだけのすっきりしない結末を書いたんだけど、ゆずちゃんが雨が好きだと言ったあの一言で、すべて書き直した」

「え!ごめんなさい、私…何も考えず無神経な事を言って」

「違うんだ、僕の場合はただのプルースト現象なんだよ。事故の連絡があった時、ちょうど雨だったからね」

「え?プルースト?」

「そう。懐かしいメロディーを耳にした瞬間、当時の記憶や感情がよみがえったりするでしょう?匂いもそれと同じ。僕は雨イコール嫌な記憶なんだよ」

「そうだったんですね」

「でもゆずちゃんは、優しさを感じた雨の匂いが怜と結び付いた」

「いえ、そういう訳では…」

「ゆずちゃんのおかげで、思いがけず満足する後編が書けたし、雨が好きになれそうだよ。…そーいえば、初めて会った時、僕の小説を、誰かに向けたラブレターみたいだと言ったよね?」

「はい」

「まさにその通りなんだ。朱希への」

「え?」

「事故から僕らしい小説がかけなくなって…でも思いの外その方が世間には受け入れられるようになって、朱希には売れない時代に支えてもらっていたから余計申し訳なくて。だんだん書く意味を目的を見失っていってくすぶっていた時、ゆずちゃんに会った。そして僕に思い出させてくれた。最後にして最高の妻へのラブレターがかけたよ」

 現実では、最後まで信じてあげられなかったからねと、やっと聞き取れるくらいの掠れた声で呟いた先生は、その後しばらく何かを懐かしむように写真と指輪を眺めていた。

 離婚したとはいえ、朱希さんの事故から5年もの間、先生はきっと彼女のことを忘れたことはなかっただろう。

 裏切られていたかもしれない、仕返しが出来て彼女は喜んでいたのだろうかと…そんな疑問を抱えながら、5年も。

「朱希は今まで僕を傷付けまいときっと色んな事を鵜のみにしていたんだと思う。言ってくれたら、僕だって」

 確かに、ちゃんと向き合い膝を付き合わせなければわからないこともある。話し合えば反論できることもあるし、誤解だって解くこともできる。

 私のようにずっとひとりで抱え込み、兄から逃げてばかりでは…

「相手がいなけりゃケンカもできない。もう、何もかも遅い……ごめんね、変な話して」 

「いいえ、私なんかで、よければ」

「ありがとう、送るよ」

 あー、っと背を伸ばしつつ立ち上がった先生の表情は、相変わらずいつものままだった。



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