15.雨匂あめのにおい

「今度の新作はJKが主人公なんだけど、そのモデル兼、アシスタント、雑用なんかやってくれると助かるんだけどな」

 と懸命に渚さんを勧誘したにも関わらず、

「は?何を言ってるんですか?ふざけないでください」 

 とあっさりふられてしまった英先生。

 結局、あのまま彼女には逃げられてしまった。

 追いかけようとしたけれど、先生にやめておこうと止められ諦めるしかなかった。

「逃げられちゃいましたね」

「ま、後は本人の気持ち次第だから」

 先生は本当に優しい人だ。ダメなことはダメだとしっかり言うが、強制的に押さえつけはしない。もう知らないと背を向けるでもなく、ちゃんと救いの手も差しのべる。

 いつもニコニコしていて何も考えていない人かと思っていたけれど、繊細な情景描写や感性豊かな主人公の恋物語を書いたりもする訳だし…ちょっと謎めいているところもミステリアスで魅力的なんだけど。

「英先生、もうひとつお聞きしたかったんですが、新作のタイトル決まったんですか?」

「あーまぁ仮にはね」

「教えてください!」

「ペトリコール、だよ」

「それってどういう…」

「あーそれにしても、雨の匂いがするね?」

 先生はわざとらしく辺りを見て回し鼻をクンクンと動かしながら言った。

「はい?」

 先程まで雲の隙間からチラチラと月明かりが見えていたけれど、いつの間にか一面を雲に覆われてしまっている。確かに一雨来そうだが、先生と同じようにしてみても、近くの焼き肉店から漂う煙の方が勝っていてよくわからない。

「なんて言うかなぁ。爽やかだけど湿った土のような匂い、かな」

「湿った土?」

 今はいろんな匂いでわからないけれど、先生の言う雨の匂いというのはなんとなくわかる気はする。


 タイトルの意味には触れぬまましばらく立ち話をしていたけれど、今日はもう遅いからと先生の車で送ってもらうことになった。

「ゆずちゃんとサユリんは友達だったんだね」

「友達と言うか…私が勝手にそう思ってただけで。…先生は、彼女のこと御影さんから聞いていたんですか?」

「いいや、何も」

 車内はとてもいい匂いがする。御影さんの車と違って深呼吸ができる。

 芳香剤なのか香水なのか、フローラルで、でも重すぎず、いかにも女子受けしそうな香りなのに、安っぽさは感じない。

「ゆずちゃんにも話したように、怜が女性がらみでやらかしたとは聞いてたし、王手社の社長からも相談を受けた。怜は確かにそういう事にだらしない所はあるけど、サユリんの話を聞いて理解したよ。怜は仕事の鬼だし部下はもちろん、先輩だろうが上司だろうが関係なく意見したり利用する奴だけど、そんな稚拙なやり方で仕事を取ろうとしたなんてあり得ない」

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「あいつはいろいろあって前の出版社を突然やめてしまって、それからしばらく塞ぎ混んでね」

「そうだったんですか」

「それを心配した怜の兄、煉がうまく誘導して王手社に入社したんだけど…本当は裏で煉が社長にお願いしていたことがバレた時は大変だったよ。煉と社長は古い付き合いがあってね」

「コネ入社ってことですか?」

「ん~でも怜は実力のある奴だからただのコネ入社とは言わないし、ちゃんと下積みから這い上がってるわけだしね。僕だって王手社とは付き合いがあるから怜のためなら下積みなんてしないですぐに得意な文芸に移動できるように言ってあげるって言ったのに、それを拒否して今後一切他人のフリをしてくれって。腹立つ奴でしょ?でも、いろんな部署をまわり力をつけ、自力で何とかしてきた奴が今更そんな汚い方法で仕事をとると思う?」

「確かに、そうですけど…」

「怜は出世なんて興味ないよ。ただ、本当に面白い作品に出会いたいだけなんだと思うよ」

「英先生は、そんなに御影さんのこと信頼しているのに、どうして私にへんな噂を教えたりしたんですか?だから私、…」

『仕事しかないとか言っておきながら女がらみで失敗してる人になんて言われたくありません』

 なんて言ってしまった。

「あ、もしかしてあいつに直球で聞いちゃった?」

「はい…更に酷いこと言いました。どうしてわかるんですか?」

「わかるよ。狙い通りだから」

「え?どういう事ですか?」

「…よし、着いた」

 先生は何も答えず、ハザードをつけると急に車を路肩に停める。

「あれ?」

 窓から外を見て回すとあまり見慣れない景色。幸い大通りのため、道路の案内標識で大体の位置はわかる。

「先生?ここ、家とは反対方向なんですけど」

「そうなんだけどね、ちょっと事情が変わって、遠回りしてる」

「事情?」

 何のことかさっぱりで検討もつかない私に、英先生はスマホを構いながら言う。

「ゆずちゃんは、怜が好きなの?」

「はい?」

「だってゆずちゃん、なにかと御影御影言うよね?だからちょっと妬いちゃって」

「そんなことありませんよ」

「そう?…じゃぁ怜をどう思う?」

「どうって…」

 御影さんが私を助けてくれたり心配してくれたりするのは、仕事のため。突然のキスで私を試したり…でも気付けば私は御影さんを探しているし、会えば私を見てほしいと思ってしまう。傍に居て欲しいと願ってしまう。

「うまく言えませんけど、御影さんは私にとって…雨みたいな人です」

「は?…陰気で鬱陶しくて嫌われ者?」

「違いますよ!私、雨は好きです。夏に降る雨の温度や匂いが似ているような気がします」

「ふーん。だから怜のことも好きだって?」

「いや、違うんです!そーいう事じゃなくて」

 どんな風に言えば正しい表現になるのか…本が好きで御影さんのような編集者に憧れているくせに自分の気持ちを表す言葉を知らない。

「でもね、ゆずちゃん…怜は、」

「わかっています。御影さんも結婚されてるのはわかってますけど…」

「は?怜が?」

「今日病院で、奥様とお子さんたちに会いました」

「あー沙奈瑚さなこちゃんと双子のことかな?」

「え?」

 車イスの女性は沙奈瑚さんというのか。

「どうしてそう思ったの?」

「その方も御影さんって呼ばれていたし、子どもたちもどこか御影さんに似ていましたし」

「確かに」

「あと、なんだか…沙奈瑚さんを見ている御影さんがいつもと違ったと言うか…とても柔らかい顔をしていたから」

「ほう。…それは鋭いな。まぁ色々あったからね」

「え?」

「まぁ、これ以上僕の口からは…」

 なんとも後味の悪い終わり方。気になって仕方ないのに追求はできないし、知る術も他にない。

「ごめんね。気になるなら、本人に聞いてごらん」

 俯いた私の肩を、先生は優しく叩いた。

「あいつは、いつも兄のれんの後ろばっかりついて歩く子だったんだよ。煉は明るく誰とでもすぐに仲良くなれる太陽みたいな奴だから、それに隠れている月のような…ゆずちゃんの言葉を借りるなら、静かに降り注ぐ雨のような奴だと昔から思っていたし。でも卑屈にはならず、煉とは違う輝きや強さがあった。…昔はね」

「え?」

「でも今は冷たい長雨の中にいるようにも見える」

「そうですか?」

 御影さんのお兄さんのことは知らないけれど、御影さんは目映い陽射しと言うよりは淡い輝きや柔らかいあかりがしっくりくる。そして、

「…優しい匂い」

「え?」

 先生が訝しげに私を見ていることに気付いて、はっとする。どうやら心の声を口に出してしまっていた。

「ゆずちゃん?」

「さっき先生が言っていた雨の匂いを思い出したんですけど…学校のグラウンドや公園なんかで突然雨に降られた時に感じる匂いの事かなと思って」

「うん、そうだね」

「やっぱり。私あの匂い好きです」

「えー僕は苦手だな。雨も好きじゃない」

「どうしてですか!…雨は優しい匂いがしませんか?音も好きだし、肌に触れたときの暖かさも好きです」

「それが、ゆずちゃんにとっての御影怜なんだね」

「え、そ、そういうことでは…」

「僕には冷たく感じるけどな」

 とその時、ゴンゴン!

 突然、助手席の窓を叩かれ、驚きのあまり身構えたが、

「先生、開けてください」

 それに答えるように窓ガラスがゆっくりと開く。と同時に、あの優しい匂いがした。

「み、御影さん!どうしたんですか?」

「後ろでカメラマンが張っているというのに、警戒心が無さすぎますよ英先生」

「やぁ怜」

「その呼び方はおやめ下さい」

「おっと失礼、御影くん。やっぱり後ろの車そうだった?暇な輩だね」

「わかっていてこれですか?」

「何?妬いたの?」

「…やるならもっと上手くお願いします」

「おー冷た!だってゆずちゃんとだったら撮られても良かったんだけど…ま、迷惑かかるしね。だからさっき怜に連絡して呼びつけたわけ」

「そーいう訳だから、ゆず、今すぐ降りろ」

「は、はい」

 御影さんに言われ、急いで先生の車から降りる。

「あ、そうだ怜!」

「はい?」

 御影さんは名前で呼ばれた事には触れずに、先生の目線に合わせて屈むと助手席の窓から覗き込んだ。

「やっぱりあのタイトルのままでいくよ」

「そうですか」

「ゆずちゃんのおかげで決心がついた」

「なんだか、嬉しそうですね」

「わかる?…同じタイトルでも僕の中で意味合いが変わったというか。…それに、」

「は?」

 英先生は御影さんにだけ聞こえるようにこそ、と耳打ちをすると御影さんは一瞬私を見て眉をひそめたように感じた。

「じゃぁ僕は先に帰るよ」

「はい」

 けれどすぐにまた先生に向き直り、頭を深々と下げる御影さん。

「先生、お疲れ様でした」

「じゃぁゆずちゃんをよろしく」

「はい」

 御影さんは英先生の車が見えなくなるまで頭を下げていた。

「おい」

 そして顔を上げた瞬間、声色が明らかに変わった。

「ふたりで何をしていようが勝手だが先生に迷惑をかけるな」

「すみません」

「先生から何か聞いたか?」

「え?何かって?」

「あ、いや…何でもない」

 声も口調も仕事モードからプライベートモードへ、というよりはただ投げやりになっただけのような気もする。

「先生は、他社での連載の締め切りが近いはずだし、今ちょっと大変だからな。疲れた顔をしていただろう?」

「そうかもしれません」

 知らなかったとはいえ、そんな忙しいときに先生を呼び出すなんて。しかも御影さんのプライベートのことを聞きたかったからなんて彼に知れたら、もっと怒られるかもしれない。

「…俺は鬱陶しくて面倒な奴か?」

「は?御影さん、何を言っているんですか?」

「いや、何でもない。…ちょっと、手を出せ」

「え?手ですか?」

 訳もわからないままカバンを持っていない右手を出すと、突然ぐ、と引っ張られる。

「な、何ですか?」

「いいから、来い」

 おそらく裏通りに向かって歩き出した御影さん。

「笑え。もっと寄れ」

「は?」

「まだカメラマンがいるはずだ。きっと君と先生の仲を探ろうとしてる。先生は噂が絶えないから週刊誌の常連だけど、君のような女子高生だなんて…新刊発売前はできるだけイメージダウンは避けたい」

「でも私はそんなつもりじゃ、」

「つもりもくそもない。たとえ男女が罵り合っている場面でも角度によってはキスをしているように見える写真を撮ることもできる」

「そんな…」

「だから、あのふたつ目の角を曲がるまで付き合え」

「は、はい」

 先生を守るためとはいえ、私と御影さんが付き合っているふりを。思いがけない展開に勝手にドキドキしてしまう。

 もっとくっついていいと言うのだから少しだけ距離を詰める。それに気づいたのか、自然とペースを落とし私の歩幅に合わせてくれる御影さん。

 ドキドキしすぎて気付かなかったけれど、骨張った大きな手が、意外に温かく心地よい。見た目は華奢で綺麗な手は冷たそうだったのに。

 こんなことなら、もっとちゃんと手のケアをしておくんだった。がさついてないかな、冷たくて嫌がられてないかな、と心配になる。

「先生の新刊、もうすぐゲラがあがる」

「え?早いですね」

「君のアドバイスがあったからだと思うが、すごく良かったよ。はじめはどうなるかと思ったが、結構良い作品だと思っている」

「本当ですか」

「編集向いているんじゃないか?」

「うれしいです」

 先生の役にたてただけじゃなく、御影さんに誉められた。

「ただ、先生のやりたいように書いた本だから好き嫌いが別れそうだが。社内でも意見が別れているから、少し心配だな。タイトルの事もあるし」

「そういえば、ペトリコールってどんな意味があるんですか」

「は?先生とその話をしていたんじゃないのか?」

「いえ、先生は何も。…ただ、雨の匂いがするとかなんとか言ってただけで…」

「それだよ。ペトリコールは…雨の匂い」

「そうなんですか。これがペトリコール?」

 まわりの空気を吸い込むようにくんくんしてもよくわからない。

「いや、違う。先生は恐らく、君にヒントを与えるべく言っただけで、実際に今ペトリコールが発生している訳じゃない」

「え?」

「ペトリコールは、正確には雨の降る前や降り始めの匂いの事。長い日照りの後という定義の下、条件を満たさないと発生しないらしいから、今の時期はまず無理だろうな」

「へぇー知らなかったです」

「雨が降りしばらくするとそれは消えてしまうらしい」

「なんだか素敵なタイトルですね」

「そうか?個人的には好きではない」

「どうしてですか?」

「 万人にわかるような言葉じゃないだろ?コレという説明もしにくいし、ただでさえ事故から始まる暗い話だからタイトルまで陰湿、憂鬱なイメージをもたれたくない」

「そんなことありませんよ!楽しみです。私、たくさん買います」

「増版がかかるくらい頼む」

「はい」

 今日はめずらしくよく話してくれる。

 手を繋ぎながらの会話のキャッチボールが続き、ごく自然に顔を見合せたりして、いつになく積極的に話をしてくれる。

 恋人役だからそう見えるように振る舞っている事くらいわかっているけれど、なんだか嬉しくなる。ずっとこうしていたいと思ってしまう。

「そういえば、英先生って御影さんのお兄さんと幼なじみだったって聞きました」

「え?あぁ。また先生は余計な事を」

「仲良くしたかったのにって言ってました」

「仲良しごっこがしたいわけじゃないからな。彼が作家になったのは昔から知っていたけど、興味もなかったし読んだことはなかった。でも王手社に入ってウチで出している物を片っ端から読んでいて初めて彼の作品に触れ、驚いた。以前も出版社にいたが今まで自分がしてきたことが恥ずかしくて…実力をつけ改めて先生たちのお手伝いがしたいと思ったんだ」

「英先生にベタボレなんですね」

「英先生だけじゃない」

 御影さんがこんなに話をするなんて、やっぱりおかしい。ちょっと匂ってくるお酒のせいかもしれない。

「いいお仕事ですね」

「いや、苦労が9割りだ」

「そ、そうなんですか…」

 会話も弾み、繋いだ手がようやく慣れてきたと思ったのに、大通りから路地へと曲がった瞬間、離れる掌。

「付き合わせて悪かったな、もう大丈夫だろう。…今日バイトは?」

「ありません」

 最初から何もなかったかのように、消えた温もり。

「じゃぁ家まで送るよ」

「え?御影さん車ですか?」

「いや、家はすぐそこのマンションだから。君の家は遠いのか?」

「確かこの辺りからなら…歩いて30分くらいです」

「そうか。じゃあ今から車をとりに…でも今日は飲んだから、タクシーだな」

 羽織っただけのコートやスーツのズボン、ワイシャツ、御影さんは考えられるすべてのポケットを探り、やがて肩を落としてため息をついた。

「御影さん?」

「スマホと財布を忘れた」

「大丈夫ですよ、歩けますから」

「いや、そういう問題ではない。ちょっと待っていろ」

「本当に大丈夫です」

「先生にも頼まれたからな」

「でも…ご家族にも悪いですし」

「は?」

「あ」

「俺は独り身だが」

「そ、そーでしたっけ?」  

 嘘つき。

「なんだその目は」

「勝手な妄想はよせと言っただろう?」

「妄想なんかじゃありません!だって私…」

 子どもじみたいじわる。素直に聞けなくて、でも知りたくて探るようなこと言って…情けなくて空しくなる。

「なんだよ」

「いいえ、なんでもな、」

「ちょっと来い…」

 すると、言葉を遮るように手を掴まれた。さっきとは明らかに違う強さ。

「な、何ですか?」

「黙ってろ」

 手を捩って逃げようとすると手首を掴み直され、今度はずんずんと早足で歩く御影さん。降り出した雨にすら気付いていないのか声をかけてもまるで無視。

 せっかく今までの気まずさも薄れ楽しく会話ができたと思ったのに、また嫌われてしまう。


 連れてこられたのは高級そうなマンション。

彼は怒っているのか何を聞いても答えようとしない。エレベーターの中でもずっと私の手を掴んだまま終始無言。エレベーターが止まり、フロアに降りてすぐを左に曲がる。

 ようやく5階の一番奥の部屋の前まできて、

「ここ、俺の家」 

 靴を揃える暇すらなく、彼のペースで強引に手を引かれるまま廊下を通り部屋にはいると、今度は思いっきり振り払われた。

「痛っ」

 灯りがついてようやく、ここが殺風景なだだっ広いリビングだと気づく。

 部屋に入ってすぐ小さなキッチンがあり、リビングには大きな本棚とテレビ、ソファーとビールの空き缶が散らかった小さなテーブルしかなく、モノトーンな配色でどこか淋しい雰囲気。

「よく見てみろ。妻子があるような部屋に見えるか?」

「え?…い、いえ」

「…今、タクシー呼ぶから待ってろ」

 財布はすぐに見つかったようだったが、散らかっているわけでもない部屋の中を、おそらくスマホを探してうろつき出す御影さん。

 先生に呼び出されるまでこの部屋にいたのだろうか、まだ暖気が残っていて寒くない。

「どこに置いたかな」

 コートを脱いだ御影さんは、ワイシャツ一枚でノーネクタイ。いつものように、きちっとスーツ姿の彼も素敵だが、雨で少し濡れ乱れた髪のゆるい感じもまたカッコいい。

 小物がない分部屋の中は綺麗に見えるから余計にテーブルの空き缶が気になる。

「いつもこんなに飲まれるんですか?」

「まぁな」

「ふーん」

「また信用していない顔だな」

「はい」

 雨は大した事はなかったけれど、私は御影さんが貸してくれたタオルで髪を拭きながら答える。

「 だって上谷さんが、御影さんは普段からほとんど飲まないって言ってましたし」

「上谷は俺の何を知ってるんだ」

「嫌なことがあると飲むんじゃないですか?…サユリさんが涼風先生にしたこととかで、落ち込んでいるのかなと」

「は?」

「私御影さんのこと悪く言ってしまったし。編集長も自ら降りたなんて知らなくて」

「そんなものどっちでも関係はない。サユリのことも俺と作家の間に信頼関係があればよかっただけのことだ」

「でも…」

 あの時御影さんはすごく苛立っていたし、病院で沙奈瑚さんを見ていたあの表情も気になる。

「あ、あった」

 ソファーの下からようやくスマホを発見したようたで、安堵の表情を見せる御影さん。

 勢いで私を連れてきてしまったけど、きっと困っているんだろうな。早く帰ってほしいって思ってるんだろうな。

 わかってるけど、でも知りたい。もっと御影さんのことを聞きたいと思ってしまう。

「タクシー込んでるみたいだから、上谷でも呼びつけるか」

「結構です」

「安心しろ。あいつもバカじゃないからもう君を襲うなんて考えないだろ」

「そんなことじゃなくて…呼ばなくていいです」

「意地を張るな」 

「意地じゃありません。こんな気持ちのまま帰れない」 

「わけのわからないことを言うのはよせ。何か聞きたいことでもあるのか?」

「え…」

 英先生は、複雑だから自分で聞けって言っていたけど、本当は怖い。

「私、今日、病院で…双子ちゃんに会って…」

「もしかして…郁と颯のことか?」

「え?」

「沙奈瑚が言っていた病院で会った女の子、って君のことだったのか?」

「ごめんなさい」

「なぜ謝る?…双子は兄の子だ」

「お兄さんの?」

「なんだよ、そんなことが聞きたかったのか?」

「…すみません」

 御影さんは深いため息の後にソファーにかけ、スマホをテーブルに置いた。

「まぁ気の済むまで居たらいい。ひとまず、コートくらい脱いだらどうだ?」

「え?…あ、いえ、大丈夫です」

 なぜかホッとした。

「じゃあとりあえず、座れ。」

「いえ」

「いいから」

 と促され、御影さんの隣に腰掛ける。

「まだ何か聞きたいことでも?」

「え、いえ…その…」

 知りたいけれど、私のこのぐるぐるした気持ちを伝えるにはどんな風に聞いたらいいのかわからない。

「英先生にある事ない事吹き込まれたのか?」

「いいえ…私が勝手に勘違いをしていただけです」

「そうか。 君に初めて会った時、お見合い連敗中だと言っただろう?そんな俺にガキなんているかよ。独身だしバツもない。隠し子だとか連れ子だとか色々考えてたなら残念だったな。そこだけはしっかりしてきた」

 御影さんは鼻で笑って見せた。

「……」

 嬉しいんだろうか、残念なんだろうか。スッキリはしない。

 私はよくわからない複雑な感情に戸惑い、何も言えずにいた。

 沈黙に耐えかねたのか、空き缶に隠れていたリモコンを探し当てテレビをつけると、面白くもないバライティ番組のボリュームをあげた御影さん。

「そーいえば来週も兄貴がお見合いセッテングしたって言っていたな」

 テレビに見いっているふりをしながら彼は笑う。絶対面白くなんてないくせに、相変わらず冷めた顔で笑うんだな、と思った。 知らなければ、これが冷めているのだと今までは気づかなかったのに。

 御影さんは最初から私を助けてくれたり心配してくれたり口は悪いけど、仕事を円滑に進めるためとはいえ嬉しかった。

 きっと渚さんもこんな風に優しくしてもらって嬉しくてこの人を好きになったんだろうと思う。

 きっと私も御影さんのことが…

 この部屋には私と御影さんだけ。今までもふたりきりになったことはたくさんある。

 それなのに、この人はきっと私を見ていない。

 沙瑚子さんと色々あったって…そーいうことか。

「…私、帰ります」

「気が済んだのか?」

 ようやく私を見た御影さん。

「はい」

「じゃぁ今、上谷を呼ぶから」

「いいえ、」

 立ち上がろうとする御影さんを引き止める。

「大丈夫ですから」

「だからそーいうわけにはいかないだろ。雨もかなり強くなってきたようだし」

「大丈夫ですって!」

 ちょっと大きな声を出してしまって自分でも驚いたが、もう後には引けない。

「急に、どうした?」

 瞳は私を見ているけれど、本当に『杠葉瑳』を見てくれているのだろうか。彼にとって私は特別じゃない。渚さんやミルクさん上谷さんたちと同じ。

 直接そう言われているようで哀しくて、目をそらす。

 私に向けられるものは営業スマイルか、何者をも跳ね返すような冷めた瞳だけだから。

「大丈夫か?」

「……」

「おい」

「……」

「…瑳?」

「っ!」

 それなのに、どうして…

「だから、名前で呼ばないでください」

「なぜ?間違っていないだろ」

「嫌いなんです」

 御影さんに呼ばれると、何故か余計に苦しくなる。

「男みたいな字だし、読めないし。私を捨てた本当の母親がつけた名前だって聞いてから、さらに嫌いになりました」

「…どんな想いでつけたんだろうな?」

「知りませんよ、知りたくもないです」

「瑳の漢字の意味、知っているか?」 

「磨くって意味ですよね?石ころでも磨き続ければ光るとかそんな適当な意味ですよ、きっと」

「そうか?俺は違うと思う。瑳という字は、色が鮮やかだという意味もあるし、愛らしく笑う様、とか。…君にすごく合っていると思う」

「知らなかった」

「瑳は、母親からとても素敵な名をもらったんだな」

「で、でも母は私を捨てた…要らない子だったから」

「君の母親の気持ちはわからないが、要らない子にこんな良い名前を考えると思うか?」

 スローペースで諭すような口調。低めの落ち着いた声色だからこそ余計に染み入る。

「俺は、好きだよ」

「え?」 

 思わずまた、瞳を見てしまった。

「瑳って良い名だと思う」

「あ、な、名前…」

「ん?」

「あ、いえ」

 御影さんは、どうしてこんな風に簡単に私の中に入り込んでくるのだろう。

 これ以上入ってきてほしくないから、遠ざけて遠ざけて一生懸命壁を作っていたのに…今一瞬にして崩れ去った。

 名前が好きだと言われたくらいで、勝手に気持ちが高揚している自分が恥ずかしい。

 この人は優しいふりをし餌を振り撒いて、いざ惹き付けられ囚われた私には見向きもしないのだろうに。

 その時、突然鳴り出したスマホの音にハッとして、彼に魅せられ惚けていた自分に気付いた。自覚して初めて羞恥心でいっぱいになり、顔の温度が一瞬にして上昇する。

「すまないが、楽にしていてくれ」

 御影さんはテーブルの上のスマホを取ると、話しながらキッチンに向かう。微かに女性の声がしたように聞こえた。

 話が終わったのか切れたのかはわからないが、御影さんはすぐに戻ってきて難しい顔でまたソファーに腰かけた。

「悪かった」

「いえ、大丈夫ですか?お仕事の電話なんじゃ…」

「いや、違う。大丈夫だ」

「そう、ですか」

 仕事じゃないなら、友達?彼女?そういえば私は御影さんの事、何も知らないんだと気づく。知らなくていい関係だし、知る必要もないけれど。

「もしかして、彼女ですか?」

「そんなんじゃない」

「じゃぁ御影さん…好きな人いるんですか?」

「なんだ突然」

「教えてくださいよ。いるんですか、いないんですか?」

 声は震えていないだろうか。そうならないように早口でぶっきらぼうになっていないだろうか。好きな人なんていないと言ってくれたら、この心は落ち着くんだろうか。

「…いたら、見合いなんてしないだろ」

「そう、ですよね」

 違う。

 そう答えるとわかっていて、聞いた。でも晴れない。はっきりと、あの人が好きだと言ってくれたら…

「……なんでお見合いなんてするんですか」

「なんでって、もうすぐ40だし、周りもうるさいしな…」

「周りのためですか?」

「いや、そういうわけじゃ、」

「カッコいいし紳士だし仕事もできるのに何故か連敗中。相当性格が悪いんですかね」

「誉めてるのか貶しているのか、どっちなんだ?」

「…まだ忘れられないんじゃないですか?」

「え?」

「沙奈湖さんのこと」

「な…」

 ほら、びっくりした顔。

 驚きというより不意をつかれきょとん、とした表情。そんなに無防備な顔初めて見た。

 わかってる。だから、他なんて見ていない。

「なのになんで、お見合いなんかするんですか?…初めからその気もないくせに」

「…お見合いがうまくいかないのは、君の言うように、ただ俺の性格が悪いだけだ。一体何連

敗なんだか」

「違う」

 私のせいで流れた気まずい空気を消そうと、和やかな口調で自嘲した御影さんに再度反論すると、彼は困ったように一瞬目を泳がせた。

 その僅かな動揺を見てしまったから…もう止められなかった。

「嘘つき!…だったらどうしていつもそんな目をしているんですか?」

 忘れられない人がいるならお見合いなんてしなければいい。

 ちゃんと前を見ているのなら、さっさと幸せになればいいのに。

「瑳?何を言って、」

「誰かを好きになろうなんて思ってもいないくせに!」

 立ち上がり勢いに任せて言ってしまった後で後悔しても、もう取り消せない。

「どうして、幸せになろうとしないんですか」

 御影さんの顔を見ることなんてもう怖くてできないけれど、きっと彼には響いていない。

 御影さんの周りにある壁のような冷たい隔たり。

 仕事上ずっと難しい顔をしているわけにもいかないだろうし、満面とまではいかなくても綺麗な営業スマイルも知っている、なんだかんだ言いながらも何度も助けてもらっているのだから、もちろん優しさも知っているけれど、そこにいつも付きまとうのは、時々見せる冷たい瞳。距離。

 いつも冷静沈着、誰も近付けさせない。例え感情的になったとしても、彼の中の何かがまたそれを瞬きひとつで閉じ込めてしまう。

 だから、私の声なんて届かない。

 気まずい沈黙の中、またスマホが鳴った。おそらく御影さんのズボンのポケットでこもった音が必死に訴えているが、前のめりで俯くように座っている彼の背を見ても、反応すらしない。

 またさっきの女性だろうか?

「電話、鳴ってますけど」

 御影さんは無言のまま、飲みかけのビールを一気に流し込み缶を叩きつけるようにテーブルに置いた。

 怒っているのか、あきれているのか…聞こえていないのかすらわからないけれど。

「御影さん?」

「…わかっている」

 囁くような小さな声が聞こえたのを最後に、私が何を言っても反応はしなかった。

 やがて着信音が止まると静けさが戻り、徐々に強くなる雨音だけが私たちを包む。

 雨が降りはじめしばらくすると消えてしまうというペトリコール。雨降りの度に出会えるというものでもなく貴重だし、私はとても好きな匂い。

「……私、ピンクはやめます。でもバイトはしっかりやります。お酒ももっと勉強します。だからもう、心配してもらわなくて大丈夫です。お邪魔しました」

 そうして私は、何故か溢れる涙を拭いながら逃げるようにマンションを後にした。

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