十一 乾杯

 ◇

 そして翌日の夕方頃。

 駅から十分ほど行った焼き肉屋に、生物化学科演劇の一行は訪れていた。たった今、南雲による音頭がとられるところであった。

「……お疲れ様であった! 乾杯!」

 乾杯! 皆が叫ぶように言うと、手に持ったジョッキグラスを一斉に傾けた。その九割がノンアルコールであった。

「ほら、秀くんどんどん食べるといい!」

「わかってるよ、五反田。だが私は焼肉というのがあまり好きではなくてね。……なぜ私たちは金を払っているというのに、私たちがわざわざ焼かなければならないのだ」

「そこを楽しまきゃだろ!」

「はいはい……。それよりも、君はちゃんとやってくれたみたいだね」

 南雲は五反田の奥をちらと見ると、御堂は五反田の腕を取りながら、喜色を示し、それを携帯に収めていた。

「……ああ、まあな。お前も、なんとか上手くやったみたいじゃないか」

 五反田は南雲の奥をちらと見ると、茉莉花は南雲の腕を取りながら、焼きあがったタン塩を檸檬汁に潜らせ、それを彼の口に運んでやった。

「はい、あーん。どう、美味しい?」

「はい、控えめに申しまして、もう、全くに美味しゅうございます……」

「そっかそっか! じゃあもう一枚、あーん」

「あーん……。なあ、香月くん、私の利き手を封じないで欲しいのだがね、食べ辛いよ」

「茉莉花」

「茉莉花くん……食べ辛いのだがね」

「ぼくが食べさせてあげるから、気にしないでいいんじゃないかな」

「……君は阿久津くんを忘れたのかね。あれほど昨日私は彼に譲歩してやれと言った筈だが」

「君はひとつ誤解をしているよ。ぼくも、君も良く分析する傾向にはあるけど、感情は計り知れないでしょ。それでも、君をぼくは好きだって言うんだ。これ以上に、君を諦める理由が見つからないなあ」

「なかなか君もこっ恥ずかしいことを言うのだね……。いいかね、とどのつまりそれが迷惑になっているのだよ」

「わかってるさ。迷惑千万さ。けど――それがどうしたっていうの。それは君の都合さ。ぼくはどんな困難があろうと、ぼくが欲しいと思ったものを攫ってみせるから、いい、覚悟をしておいてね」

「私は傾国の色男になってしまったような気概だよ……。そういえば、五反田、君は香月くんにちゃんと謝ったのかね」

「ああ、謝った。だが、もう一度言った方がいいかもしれないな。……すまなかったな、茉莉花さん」

「……いいんだよ。その代わり、南雲くんが償ってくれれば」

「ああ、快諾する」

「五反田! 君はまたそうやって勝手に!」

「ほら、あーん」

「あーん」



「じゃあですねえ、二番と七番がトッポキーゲームをしてください!」

「……なんでそんな嫌そうな顔するのかな。ほら、早くするよ」

「いやあ……壁に耳あり障子に目ありというではないか。どうしようか、もしバレたら本当に殺されてしまう、否、それよりももっと恐ろしい目に……!」

「ああっ、往生際が悪いなあ! ほらそっち咥えて!」

「あ、私はチョコの方で頼むよ」

「がめついなあ!」

 そうして、茉莉花はチョコの付いていない方を咥え、目で南雲に早くするように訴えた。

 南雲はそれを人差し指と中指で挟み、そのまま咥えた。

 ごくりと、生唾を飲んで、茉莉花は瞼を落とした。

 そして南雲は、開始の合図があった瞬間に――人差し指を先端に宛てがい、ゆっくりと押し込んでいった。

 茉莉花は目を伏せたまま、顔が熱くなっているのがバレてないといいなあと願いつつ、遂に触れた唇の感触に、全力で口元が緩むのを堪えた。

 ……ああ、遂にしちゃったなあ。結構、硬いんだなあ。リップクリームを今度買うように言わないと。

 彼女は花畑に囲まれたような、浮ついた気分にさせられて、胸裡で何度も飛び跳ねるのであった。


 ◇

「あれ、伯母さんどこか出掛けるの」

 茉莉花は微睡の中、伯母が玄関先で靴紐を縛っているのを見つけた。

 伯母はどこか達観したような笑みで、

「パートの面接に、行ってきます」

「え、嘘! どうしちゃったのさ」

「……私は、茉莉花さんに安堵してしまっていたに過ぎません。そして私は貴女の人生をつまらないものに変えてしまうらしいです。でも、貴女は立派ですから、私を反面教師のように見てくれていたのかもしれませんね。……貴女は、本当のお母さんやお父さんに似たのかもしれませんね。でも、あれなんです、私も、なにか、このままではいけないと思って、それで、踏み出せそうなんです」

「――いいえ、ぼくは、あんな人たちとも似てません。物事に邁進する様は似ているのかもしれないけど……でも、ぼくは少し譲歩することを知ったんです、これはきっと伯母さんによく似ていると思うんです」


 ◇

 薄暗闇の山道は雪の上に朝靄が積もって、もしこれが雪崩れ込んできたら生き埋めになってしまうのではないかと、つい、足が早まってしまう。裸の梢がそこら中から飛び出している。あたりは芯まで凍ってしまいそうなほどに冷え込んでいた。ある明け方のことであった。背の低い娘は中肉中背の男を連れて、いつも通り結瀬山へと散歩に来ていた。あと一週間ほどもすれば、ずっとここら一帯は埋もれるほどに雪が積もるだろうか、いや、それにしてはまだ寒さが足らないのではないか、と予想を立てていた。

 木々の間隙から覗く小さな空は、もうその殆どがパステルに塗り込まれてしまったようで、彼女は連れに、「ほら! 早く! もう上がっちゃうよ!」と肩を叩いて、駆けだした。

「いや、きついって! 止まってくれよお……!」

「なに言ってるのさ! これぐらい我慢できなきゃ、ぼくは目もくれないよお!」

 彼女は目を思いっきり開けて、全身に刺さる痛みに苦悶の表情を浮かべながら、白の中に溶け込んでいった。


 ◇

『二〇一九年十二月十九日木曜日 午後三時五分 by:Yamanaka Keita

 Subject:学祭演劇の順位の変更について


 こんにちは、学園祭演劇頭の山中です。

 先日行われた学祭演劇で、生物化学科が予算の超過をしたということが報告され、調査をしたところ、判明しましたので、学祭演劇要項の第二項より、減点をしました。これより、入賞順位は以下のように変更されます。


 一位 土木科

 二位 電気科

 三位 機械科

 四位 情報科

 五位 化学科


 景品と賞状は改めて各学科の監督に贈呈しに参ります。

 事実確認と金額調査のため、皆さんへの公表が大きく遅れてしまったことをお詫びします。』

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