第9話【LOVERS ONLY 番外編Ⅰ】
【ロンドン美術館へようこそ Ⅰ】
「ここが・・噂のロンドン美術館か!」
「英国ナショナル ギャラリーだべ! 」
「厚木のヤンキーが細けえこと言うなよ!」
ギャラリー入り口には、無料で中世の名画の数々が鑑賞できるとあって、既に多くの観光客や美術愛好家で賑わっていた。
現地時刻午前10時。
ギャラリーは開館直後。
見るからにモダンな外観。
建物自体は然程大きくはない。
5月のロンドンは快晴だった。
それでも気候は変わりやすい。
ロンドンに雨季はない。
1年を通して雨が降る。
どんなに空が晴れていても、突然雨が振りだす。長く住む市民の多くは長雨にならないことを知っている。傘を持ち歩く習慣はない。
歩きながらフードを被るなどして。
短い雨の時間をやり過ごす。
気温は12℃。少し肌寒い。
昼までにはもう少し温かくなるだろう。
朝は冬のように寒いが概ね気候は温暖だ。
温かく過ごせる季節は5月後半から6月。
ロンドンが観光客で賑わう季節が訪れる。
すぐ近くには大英博物館の建物が見える。
少し歩けばテムズ川も近い。
イーストエンドとウエストエンドの丁度中央地点に美術館があるのには理由があった。
「富める者も貧しき者も。ロンドン市民が、皆平等に絵画に親しめる施設であること」
それが此処に美術館が造られた理由だ。
美術館の延床面積は46,396平方メートル。
サッカーのスタジアムではなく、フィールド6面分の敷地面積は、ミュージアムとしてはけして広いとは言えない。むしろ狭い。
かつては館のすぐ後に救護院の施設があり、増設も出来ずさらに手狭だったらしい。
美術館ガイドにはそう書かれていた。
他にも適した場所はいくらでもあった。
元々は寄贈品の絵画36点から始まった。
本来は、絵画の修復に特化した美術館という役割を担って建てられた施設だ。
しかし、価値ある所蔵絵画が増えるうちに、次第に建物の狭さや外観に関する不満が、王室からも世論からも高まっていった。
それそこそがギャラリーの歴史でもある。
過去に何度も移転の提案が出され、改修工事には多くの建築家たちが関わっている。
それでも此処に国立美術館かある理由。
古くから英国民と美術関係者たちの願い。
「英国の国名を冠する美術館はすべて、ロンドン都市部の雑沓の中にあって然るべき」
老若男女を問わず小さな子供であっても。
市民のすべてが気軽に、通りすがりに訪れることが出来て、自由に絵画に親しめる場所。
それゆえに、トラファルガー広場の狭い敷地内にナショナル ギャラリーは設立された。
そして今も此処に在り続ける。
当時美大生だった田崎彗は、勿論そんな過去の歴史は知らない。あまり興味もなかった。
広場のモニュメントの下では獅子が微睡む。
教授とゼミ生一行は、その前を通り過ぎた。
パルテノン神殿風スタチューに囲まれた石造りの建造物が来館者を出迎える。
屋根の中央には、アラジンと魔法のランプの物語に出て来るような大きな塔のオブジェ。
法王の帽子のように鎮座している。
「日本武道館にもあんなのあったな」
「ありゃ玉葱だべ」
「玉葱が公式名なのか?」
「んなわけねえべ!」
「波平ヘッドと名づけよう!」
「お前もう黙れ!」
彗と同期の榎本薫はそんな感想を漏らした。
建物は周囲の景観を壊していない。
訪れた人々は、ここが美術館であることに、なんの違和感も感じていない様子で、次々と建物の扉に吸い込まれていく。
それこそが建築の妙であり、設計者が称賛される所以だろう。教授の受売りだけどね。
田崎彗は思った。
もっともここは公園広場だ。
損ねる景観など周囲になにもない。
「これ・・原色だったらさあ、まんま歌舞伎町界隈にある風俗ビルとかじゃね?」
彗はいつも通り、見たまま思ったまま、感じたままを口にする。
「新宿のホストクラブとか」
「お前行ったことあるのか?」
「ちょっとバイトで」
同じ岩倉ゼミの学生たちは「またか」と呆れわざと聞かなかった風を装い受け流す。
その場で注意してもいいが。
多分こいつは意に介さない。
めんどくさいし関わりたくない男。
田崎はそんな風に思われていた。
「田崎」
それでも一応先輩という立場上からか。
同席している教授の顔色を伺いつつ。
先輩の一人が口を開いた。
よく言われる話。体育会系の大学において、先輩の言葉は揺るぎなく絶対である。
監督やコーチならなおのこと。
神的存在なのである。
まして大学院ならば、理系も芸術系も、ガテン系もみな一様に同じヒエラルキーなのだ。
院で修了課程まで2年。
院卒後、大学に残り博士号を収得したければ、さらに5年の月日を要する。
生殺与奪はゼミの教授次第。
医者のインターンと同じた。
大学内で絶大な権力を持ち、日本で屈指の三大美術展の理事も勤める岩倉教授。
日本の美術界においても、これ以上ない極太な人脈やパイプを束ねる人と言われている。
画家として生きるも研究者となるも。
ここで芽をつまれたら将来はない。
学生たちは皆肝に命じていた。
逆に、そんな大名石の岩倉教授のインターンともなれば、将来はまずまず安泰だった。
たとえ絵画の才能がそこそこでも。
美術界へのシード権は手に入る。
ないよりはあった方がいい。
誰もがそう考えていた。
「私のところで研鑽を積めば大丈夫!」
だから教授の言葉には逆らえない。
間違っても機嫌を損ねてはいけない。
先輩や皆の迷惑になる。連帯責任だ。
そんな訓示や戒めは常日頃から。
刷り込みのように聞かされていた。
それ故にか、ゼミの学生たちにはさながら、王様の親衛隊であるかのような強烈な自負とプライドが備わっていた。
少なくとも自分たちは選ばれし者だ。
狭き門の、さらに狭きを潜り抜けた。
大学に於いて希有な人材なのである。
美大生の90%が、卒業後に創作だけを生業にして生計を立てられてはいない。
悲しいかなそれが現実だ。
そんな心許ない将来を誰もが考え憂う。
しかし自分たちだけは、卒業後もこうして、幸運の女神の裾を掴めているのだ。
ゼミ生たちの顔には、そんな誇りと自負が浮かんでいた。だから田崎のような馬鹿に、好き放題なことを言わせてはならない。
教授の御機嫌を損ねるのはごめんだ。
迸りなんて冗談ではない。
思えば過去にも、レストランでの会食の場に1分、1分遅れただけで、その場に全員起立させられ、謝罪させられた経験もある。
身内の生徒だけではない。白楽の憤慨の火の粉は、ウェイターにも飛火した。
並べたナイフを突き出して「磨きが甘い」と叱責する。苦い記憶が甦る。
そんな場面を何度も経験もして来た。
自分たちは過去から学んだ。
しかし田崎は学ばない男だ。
教授の前では要注意人物。
そんな学生たちを前に教授は言った。
「まあ・・あながち、田崎の言うことも間違いではないのだがな」
岩倉教授は口もとを緩める。
「ポストモダンは20世紀を過ぎた今でも、現代建築様式を席巻している。そのポストモダン側からの回答というのがだ・・」
『巷に溢れる、下品な風俗店などの建築やデザイン、これらをすべて、ポストモダニズムと切り離して考えることは出来ない』
「・・まあかくの如きものだ!」
そんな言葉が教授の口から告げられた。
まさか田崎の軽口が肯定されるとは。
「なるほど・・芸術とは実に奥深きものですね・・とても勉強になります!」
岩倉教授の言葉だから。
黙って飲み込むしかない。
しかし院生たちは「またか」と内心臍を噛む。御高説云々ではない。
また田崎贔屓かよ!
日頃は自分たちに厳しい教授。
大御所、看板俳優、コンダクター。
何故この男の言動にだけ寛容なのか?
謎だった。
身内?それとも、愛人にでも孕ませた隠し子だとでも言うならまだ納得もいくが。
それも違うようだ。
教授が田崎の才能を高く評価していることは皆が知っている。それで孫扱いかよ!
なおのこと納得がいかない。
この無礼と傲慢が服を着たような男に。
ロンドン渡航に合わせたコーデだとかほざいてる、かんちがいパンクス野郎なのに。
「日光大江戸温泉物語」
「は?」
「ここのデザインもそれと同じだ」
「日本のスパリゾートの建物が・・ですか?それは・・デザインの剽窃ですか?」
「馬鹿者!同じ建築家の手による物だ!むしろ彼の手がけた作品では、そちらの評価が高いのだ。偏見は禁物だぞ!」
無学さを一括された学生は肩を竦める。
「はい…不勉強でした」
「機会があれば見るといい」
とんだ薮蛇だ。こいつのせいで!
思わぬ火の粉を浴びた先輩の一人は、苦々しい面持ちで田崎を睨んだ。
しかし彗本人は何処吹く風だ。
いつも通りの飄々とした顔で、先輩や教授たちの一団から少し離れた場所を、一人悠々と歩いていた。
「なんだよ・・ダ・ヴィンチ展再来月かよ」
「間が悪いな・・残念過ぎる!」
入り口に貼られたポスターを見て、学生たちは口々に残念そうに呟いた。
ダ・ヴィンチは古今東西昔も今も、画学生だけでなく、もっとも観客を呼び込むスーパースターで、神的存在のレジェンドらしい。
「へえ・・シーレとかもやるんだ」
彗は、今後展示される巨匠たちのフェアのポスターの中から、ウィーンの画家エゴン シーレのポスターを目敏く見つけた。
「確か・・ぎり19世紀の画家だったべ・・ここの美術館でやんのか?」
同期の榎本が言った。
「いや・・テートギャラリーらしい」
「だべな」
「これ見てみたいぞ!」
彗は目を輝かせて言った。
「それにしても・・センスのないポスターだな!俺がシーレなら怒るぜ!」
そう言って、彗が指差したガラス越しのポスターは、有名なシーレの裸婦画だった。
そこに描かれた裸婦像は、まるで刃物で寸断されたかのように切貼りされていて、ポスターから絵の全容は見ることが出来ない。
「これは冒涜だろう」
珍しく真顔でポスターを見つめる彗の言葉に他の学生たちも足を止めて見る。
「猥褻だからだ」
岩倉教授が学生たちに言った。
その言葉通りだと皆が頷く。
シーレの描く女性像からは、単に女性の美しさや神秘性というものが根刮ぎ剥ぎ取られている。そんな作風で知られていた。
卑猥で挑発的で、恥辱や憎悪にまみれた女たち。むしろ醜いとされる感情や表情を浮かべる女性ばかりを好んで描いた。
「生前の資料から伺い知ることの出来るエゴン シーレの人物像は、到底誉められたものではありません。むしろ人としては最低で、軽蔑に値する人物でした」
分離派に詳しい美術評論家は言う。
彼は、モデルとして呼び寄せた女性を、徹底的に追い込むことで有名だった。
言葉や、時にはその表情を引き出すため暴力さえ厭わなかったのでは?
そんなゴシップじみた邪推さえ残る。
実際に彼の描いた女性の口元を見れば、そんな想像もかきたてられただろう。
唇からはみ出した滲みは痣にも見える。
色彩がモノトーンであるため、はたして痣なのか、情事の後の口紅の名残りなのかは、見た者が想像するしかない。
シーレは時に、女性の性器でさえも一切隠すことも、暈して描くこともしなかった。
すべて剥出しにして描いて見せた。
当時から物議の的となり批判を集めた。
芸術や文化が花開いた、黄金の都と呼ばれた世紀末のウィーンは当時、女性にとってはまだまだ保守的な社会であった。
シーレの作品がもたらした衝撃。
それは現代の比ではなかった。
彼の作品は近年まで、絵画というよりは高級なポルノとして、高値で愛好家に取引されていた。優れた絵画であると、再評価されるようになったのはごく最近のことだ。
少し前のファッション雑誌のイラストや、世間で物議をかもすような性描写が掲載された小説などに描かれた女性のイラストの多くがシーレの絵画からの模倣だった。
岩倉教授の言葉も間違いではない。
「卑猥と悪趣味が過ぎて、公共の場では、とても公開が出来んのだよ」
「英国でもですか」
「世界中どこでもだ」
「私は好かんな」
「わかってねえな・・おっさん!」
彗の呟きにその場の空気が凍りつく。
「な・・中に早くは入るべさ!」
「まあ待て!田崎君は、シーレの作品に一家言あるようだ・・拝聴しようじゃないか」
そう言って皆の前で手を叩く。
長身のフロックコートの老人が、そういう仕種で学生を呼ぶ時は大概不機嫌のサインだ。
「御教授願おうじゃないか」
「えっとお・・」
本人は教授の機嫌や周囲の張りつめた空気などおかまいなしに爪で鼻の頭を掻いている。
「せ先生!諸先輩方!せっかくの美術館巡りの貴重な時間が!このアホのために、どんどん削られるのはちょっと我慢なりません!」
助け舟を出したのは榎本だった。
「なんだ榎本?私に意見するのか?」
そんな目で岩倉教授は榎本を一瞥した。
榎本は途端に竦み上がる。
「君は誰だっけ?」
「え・・榎本ッス」
「榎本ォ・・名前ぐらい覚えられとけよ!」
「な・・田崎!お前俺がせっかく・・」
「あの・・よろしいでしょうか?」
同行している通訳ガイドの男が言った。
「美術館での滞在時間は2時間です。こちらに展示されてる名画を一通り見たいのなら」
やや大袈裟に腕時計に目をやると言った。
「時間が足りなくなりますよ!」
「それもそうだな」
そう言って、岩倉教授は田崎と榎本に背を向けてさっさと入り口に向かって歩き出した。
一同ほっとしたように、教授の後をいそいそと足早について歩く。
「余計なこと言ってんじゃねえカスが!」
小声で罵る声と、冷やかな一瞥。二人に向けられ、その場を足早に通りすぎて行く。
「皮肉なら聞こえるように言いやがれ!」
「田崎、お前がもう黙れ!」
思わず口を塞ごうとした、榎本の手を軽く払って田崎は言った。
「別に俺は絵の好き嫌いに兎や角言うつもりなんてねえさ!」
彗はぶっきらぼうな口調で呟いた。
「だけど・・展示する側の都合で、こんな切り刻んだ絵の写真をポスターに載せるのは、殺生が過ぎるぜ!魂込めて描いた絵と絵描きに対する冒涜だって言ってんだ!」
「わかった!わかった!わかったから!もう大人しく中に入ろうぜ!?」
榎本に促され、彗も美術館の入り口を潜る。
「待った!田崎・・入り口では寄付をするんだ!」
「へ?寄付って・・ここ無料じゃねえの?」
「田崎氏よぉ・・頼むぜ田崎!俺らに恥かかせんなよ!ジェントルマンとして画学生として恥ずかしさの極み!お~恥ずかしいべ!」
榎本はそう言って、彗の頭を手にした旅行ガイドの角でこつこつ叩いた。
榎本の話によれば、ここロンドン ナショナルギャラリーの入館料は確かに無料だ。
しかし美術館維持のために、入棺前に入り口で数ポンド程度の寄付が推奨されている。
直接ここで寄付を払わなくても、1階にあるショップで1枚0.75ポンド、5枚で3ポンド程度で売られている絵葉書を購入したり、館内のカフェを利用することでも、寄付をしたことになるらしい。
「らしいぞ」
「しってらあ!」
「うそこけ!」
ロンドン二大ミュージアムといえば、大英博物館と、このナショナル ギャラリーだ。
ここには2,300点を超えるヨーロッパ絵画がの名品が収蔵されている。
「ゴッホやダ・ヴィンチ、モネやセザンヌなんて神敵レジェンドたちの名品を揃えた、世界一の美術館だべ!もっと敬意を払えや!」
「説明ご苦労!」
ガイドブックなどの受け売りによれば、ここの来館者は年間500万人を越える。
これは、美術館としては、ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館に次いで世界第3位の入場者数を誇る。
純粋に絵画だけを展示する美術館としては、榎本の言う通り間違いなく世界一だ。
彗と榎本は、財布を手に、教授や先輩ゼミ生たちの後ろに大人しく並んだ。
「日本有数の美大の教授様で、美術界の重鎮ともなれば寄付もさぞかし…あっれえ?下々の俺らと同じ5ポンドだけ?ケチくさ!…ねえ?榎本君…ねえ?」
「わー」
「気が触れたか?」
「わー何も聞いてない!聞こえてないべ!わー!わわわー!」
「普段しこたまえばってらっしゃるんだから俺だちの分くらい払ってくれても・・」
榎本は両手で耳をふさいだ。
榎本が耳を塞いでも仕方ない。
それでも榎本薫は、根が親切で面倒見のいい男だった。同期だが年上ということもあり、この傍若無人な彗にも、何かとフォローしてくれたり、知らないことは教えてくれる。
榎本の話では、岩倉教授の生家は先祖代々資産家で、教授自身が数々の名画のコレクターでもある。この美術館にも、既に貴重な日本の絵画の何点かを大学名義で寄贈している。学長も頭が上がらない訳だ。
日本で西洋絵画の個展が開かれた折りには、こちらのギャラリーから貴重な絵画の借り受けにも大いに尽力した功績もある。
ギャラリーには太いパイプがあり、金銭以上の寄付をしている。館長とも親交があるのだ。彗にわざわざそんな話をしてくれた。
「へえ…」
「なんで俺が・・お前や教授のフォローしないといけないべさ!」
この館を訪れる際の重要な注意点。
持ち込み可能なバッグの最大サイズは横38㎝縦30㎝と決められている。例外はベビーカーと医療用品が入ったバッグのみ。
一行は、スーツケースなどの大きな荷物は、滞在先のホテルに置いて来ていた。
入館時には、セキュリティのために係員に、バッグの中身を開いて見せる。
1階のエントランスには、入館したばかりの人で販売ブースに溜まりが出来ていた。
館内マップは現地にて1ポンドで購入可能。英語版のみだが、公式サイトから同じ物が、無料でダウンロード出来る。
絵画を効率よく観賞したければ、目当ての作品があるルームを事前にチェックして。
それを印刷して持参すればいい。
日本の美術館同様に、このギャラリーの作品にもそれぞれ簡単な説明文がついている。
ある程度英語力に自信があれば、ガイドなしでも充分に楽しむことが出来る。
日本語できちんと、詳細を理解したいならば、オーディオガイドを借りるのもいい。
さらにディープな美術マニアならば、コンパニオンガイドの日本語版を13ポンド程度出して購入するか。
これは名作の数々が写真付きで紹介されていて、美術書として非常に読み応えがある。
「どうした榎本?」
「いや…ガイド買おうかと…」
「英語ならまかせとけ!」
「田崎は英語得意なのか?その顔で?」
なりは確かに時代遅れのインチキパンクだ。
「こう見えて帰国子女だ!」
「なにさ?その金持ちアピール・・絵画留学とか?だべか?パリとかウィーンとか・・どこぞの名門美術学校に親のこねで・・」
「ちげえよ!絵なんて日本にいたって描けるだろ~が!?俺がいたのは南半球のオーストラリアだ!」
「オーストラリア・・」
「そこで中学の3年間羊飼いをしてた」
「お前それ一体どんな過去だ?」
「親父に『人間の言葉がわからんようなやつは羊の相手でもしてろ!』・・てさ!知合いの牧場に預けられたんだ!」
「お前・・全然更正してねえべさ!」
根本は呆れた顔で言った。
俺たちのこと山羊や羊だと思ってるべ。
絶対そうに違いねえ。目をみればわかる。
この家畜を見るような顔。
「この旅行だって、教授の太鼓持ち連中か、さもなくば自腹でしか連れて行ってもらえないらしい。この俺様が帰国子女で、英語も得意だと教授に話したら「なら通訳くらい出来るだろう」って入れてもらえたんだぜ!」
「ほええ」
「『ついでに榎本君もいいっすか?』って頼んでやったんだ!大いに感謝しろよ!」
「おお!そうだったのか!?なら帰りに、ここのエスプレッソバーで胡桃入りのキャロット ケーキおごってやる!」
「キャロットケーキ・・なんだその貧乏くさい食いものは?」
キャロット ケーキは、ここロンドン ナショナル ギャラリ1階に設けられたエスプレッソ バーで提供されている。
「なにがエスプレッソだ!厚木の元ヤンは、エッソのオイルでも舐めとけ!」
胡桃も入った仄かに甘いケーキは有名だ。
この当時の値段は4.5ポンド。
紅茶は確か2ポンド。
「サンドイッチやパンケーキ・・他の料理も美味いらしい!寄って帰る時間あるかな~」
ケーキ類やサンドイッチと、紅茶の相性がとてもいい。観光客の間ではお墨付きだ。
英国でケーキや紅茶が美味しいとされる、ペイトン&バーンがカフェを運営していた。
「もし、スタバやマックに同じメニューがあっても、絶対にそんなの頼まねえと思うぞ・・そもそもイギリスって食い物全滅!全部不味いんだろ?」
「偏見だべ!それは昔の話だ!」
「な~んか霧の都っていうからもやもやもやっとしてる思ったら全然だし!期待外れ!」
「お前・・何世紀前から思考停止してんだ?その時代認識やばいべさ!」
「同じ根っこの菓子なら、俺の地元の鎌倉にだって超美味いのがあるぜ!」
「根っこ言うな!人参は根菜だ!根菜!ピーターラビットに謝れ!」
「うんまい牛蒡の菓子なんだぜ」
「は?牛蒡?そっちのが、なんぼか貧乏くさいべさ!」
「鎌倉の寺の天井や、京都の寺に龍の絵を描いた人のお気に入りの店だったんだってさ」
「雲龍図・双龍図の小泉淳先生だべか?」
彗は小学校の時に遠足で見た。地元鎌倉の、建長寺法堂の天井画の龍の迫力たるや。
子供ながらに圧倒され心奪われた。
時々来客が手土産に持って来る、和菓子の店美鈴の包装紙を何故だかとても気に入って、捨てられずに大切に持っていた。
なんとも可愛らしい鈴の柄が好きだった。
お寺の天井にあの龍を描いた、小泉淳という画家が、お気に入りだった菓子屋のために描いたものだと知ったのはずっと後だった。
「今度鎌倉に来いや!ごちそうすっから!」
彗はそう言って、ギャラリーの天井に顔を向ける。英国やヨーロッパ各地にある、歴史的な建造物を目あてに此処を訪れた人は、そのモダンと古典様式の調和に驚くことだろう。
「教授は確かポストモダニズムが現代も席巻中とか?なんとか言ってなかった?」
この美術館の外観は確かに現代建築に様式にとらわれない無国籍な装飾がなされている。
「ちょっと・・俺のセンスではださいかも」
初見では彗はそう思った。
しかし一度中へ入れば、そこは英国のマナーハウスのゲストルームか、オペラハウスかと見まごうばかりだ。思わず溜息が漏れる。
どう見てもヴィクトリア朝の様式。
壁色は深紅よりも朱殷に近い。
日本では、凝固した血液のように無惨と言われる暗い赤色だが。飾られた絵画は映える。
完璧な配置と配慮がなされている。
あくまでも展示物を見るために。
その妨げにならない部分の室内の装飾には金が、戸枠には暗色の大理石が施されていた。
すべてがバリールームと呼ばれるギャラリーを中心に設計が成されている。
ギャラリーに自然光が射し込むように。
天井にはアーチが掛けられている。
ドーム式天井となっていた。
ガラス張り天井の幾つかは、晴天の日には解放された。回廊を巡る来館者の足を止める。
そこからは時より涼しい風が吹き抜けた。
「ポストモダニズムじゃなくて」
教授に聞こえぬように榎本は耳打ちした
「正しくは・・新古典主義なんだと!」
「へええ・・意外とよく勉強してるねえ!」
あの大先生の頭はいつ更新したのやら。
いつの時代のテキスト使ってんのか。
彗は岩倉教授の背中を見て思った。
ポストモダニズムが台頭した1970年代。それを建築に取入れたのはこの美術館だった。それを疑問視する声は既に上がっていた。
英国伝統の古典的様式の再評価と原点回帰。その気風は既に美術館に吹き込んでいた。
そして現在のナショナル ギャラリーの内装は、両者の利点を巧みに取入れた、新古典主義に帰着したと言われている。
「ルネッサンス?」
ルネッサンスとは、革新や革命的な意味でよく用いられる言葉だ。正しくは再現芸術だ。
「新ルネッサンス」
ガイドブックの文言を友人がなぞる。
田崎彗は密かに胸の内で呟いてみた。
気取られぬようにしていた。
ふざけて饒舌になるほどに。
それは初恋よりもなお古い。
抑えることなど出来ない。
胸の高鳴りだった。
【番外編Ⅱに続きます】
【次回予告】
「聞けや田崎ィ!」
「お?なんだなんだ!?」
「厚木銘菓!厚!木!名!産!シロコロホルモン プレスせんべい!」
「おお!なんか強そう!」
「鮎せんべい!」
「せんべいばっかだな!お茶!」
「ぴ・ピーナッツのオノヅカ!「ピーナッツ各種」!」
「それ菓子じゃ・・」
「雅糖!スイスロール ノア!」
「雅糖って店の名前?名字?」
「そう言えば・・俺たちまだ一枚も絵とか見てねえのな・・」
「もう一枚食えやゴルァ!?」
次回もよろしくお願い致しますm(_ _)m
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