番外編2話 海のそと

 日が昇るとともに、シオンは漁の手伝いをした。暁の空に銀の髪を照らしながら、地元のおっさんたちと網を引いた。

 撫子の家は漁師たちの統括をしていたのだ。太陽よりも早く働いて、小学生がフェリーで本島に向かう頃にはもうクタクタだった。

「ごめん。まだ全然書けてないや……。案外改まって手紙を認めるのは難しいね」

「一晩で書ける方が稀ですよ。私が聞いた中だと、最長で十五年くらい考えている人がいますから。確か今もまだ」

「おとぎ話と違って、こっちの死神は気が長いんだね。そっちの方がボクにはありがたいや」

 魚河岸からの帰り道、堤防の柵上を歩きながら、撫子は手紙を陽に透かす。器用に十センチ幅を踏む彼女は、本当に猫のようだった。

 朝の潮風は腹の虫を刺激する。米の炊けた香りに誘われて、二人は食堂に吸い寄せられた。昨日シオンが入った、フェリー乗り場のすぐ近くの店だ。

 準備中の看板にも関わらず、撫子は扉を勢いよく開け放つ。割烹着を着たおばちゃんが一瞬驚いて肩を震わせた。

「おばちゃん、ボク海苔巻きと卵焼きね。こっちの人はなんか適当に。あ、何かリクエストがあったかい? シオン」

「撫子と同じので。大盛りお願いします」

 ほんの十分も待ったら、もう目の前に湯気を立てた白米と味噌汁、焼き魚にほうれん草の海苔巻き、厚焼き玉子が並べられた。シオンの分は撫子の三倍ほどある。

「……昨日から思ってたけど、シオン結構大食らいだよね。ボクももっと食べて大きくなりたいんだけどなぁ……」

「いいんじゃないですか? 子供用のお茶碗似合ってますよ。昨日の晩御飯も撫子のお手製でしたよね? 女子力高いじゃないですか」

「ぐっ……! おばちゃん、ボクおかわり!」

「まったく……。どっちもどっちだね、こりゃ」

 諦めたおばちゃんが撫子の茶碗に山のように米を盛り付けたところで、店の奥の障子が開いた。

「朝からやかましいのォ。ん? 客が来とると思ったら篝か」

 出てきたのは体格の良い青年。不精に切りそろえられた髪をかきながら、大欠伸で草履を履いた。歳の頃は撫子の同じほどだろう。丸刈りの頭に焼けた肌が、彼が港町の人間だと物語っている。

「やっと肉を付ける気になったんか。お前は細いからの」

「うるさいよ伍代。今は彼と勝負中だから黙っててよ」

 伍代と呼ばれた青年と目があった。逸らしたら負けな気がしたお互いが、三十秒ほど硬直した。

「お前に外国人の知り合いがおるとは思わなんだわ」

「彼は死神だよ。ボクが依頼を出した」

「……昔言ってたやつか。親父さんにもらった切手の」

「……そうだった。どうして忘れてたんだろう。あの切手は父さんのお土産でもらったんだった」

 撫子の箸が止まる。けれどすぐに気を取り直したのか、またおかずに手を伸ばし始めた。寝起きの伍代と三人で朝食をとって、二人は食堂を後にした。

 暖簾をくぐった直後、扉を閉めようとした撫子を伍代が止めた。

「篝……、あの夢はまだ持っとるか? 叶える手伝いならいつでもするぞ」

「ずっと前から変わってないさ。ありがとな、伍代!」

 頰を赤く染めた撫子が、わざとらしく音を立てて戸を引いた。

 雲の流れを追いながら、二人は森の帰路をゆっくりと歩く。島の中は時間がゆっくり過ぎているようで、途中の河原で道草を食ってもお昼前には家に着いた。

 本島に墓参りに行くばあちゃんのために弁当を作り、港まで見送った。その帰り道、撫子はスーパによって何かを買った。中身は内緒らしい。

「……外に出るのがボクの夢だって言ったけど、実はもう一つやりたい事があるんだ。それをシオンに見てほしい」

 彼女はそう言うと、シオンをリビングから追い出してなにやら台所で料理を作っているらしかった。

 手持ち無沙汰になった時、シオンは本を読む。今日は料理関連のものだ。フランスの菓子職人が、甘味の城を作るおとぎ話のような実話。読んでいると腹が空いていた。

 途中、撫子が呼んだのだろう。伍代が家にお土産を携えてやってきた。梨と林檎だった。

 彼も撫子に追い出されたらしく、二人仲良く二階の書斎で本を読んでいた。入室の許可が出たのは、少し陽が傾いた五時ごろだった。

 爽やかなフルーツと、甘いスポンジの香りがした。撫子が作っていたのは、雪より白いフルーツケーキだった。拙い装飾の一番上には、小さな花弁が飾ってあった。

「これがボクのもう一つの夢。今でも覚えてる。フランスで風邪をひいて何も食べられなかったボクを救ってくれたんだ。まだまだ足りないけど、いつかボクも誰かの力になりたいな、って……」

 短い栗毛を指で巻きながら、撫子は空を見る。ここには記憶が残っていた。両親が、幼い撫子の料理に舌鼓を打ち、拙いパンケーキを頬張った想い出が染み付いていた。

 この世界を抜け出して、空の向こうへ想いを届けたい。誰かから貰った感動のバトンを、撫子は次に渡したかった。

 夕食前だと言うのに、シオンと伍代二人掛かりでホールを一つ平らげた。確かに撫子の言う通り、まだ至らないところは多い。硬いクリームに膨らみの足らないスポンジ。酸味の効かせ方も店ならもっとうまい。

 けれどこれは撫子にしか作れない。まだ満開じゃない、空の飛び方を忘れてしまった彼女だからこそ作れる味だ。

「どうだ。うまいだろ死神。篝のコレを食ったかのは俺とお前だけだからの。内緒じゃ」

「なんで君が得意げなんですか。でも、確かに美味しい。独学ですか?」

「ネットとか見て、島の人に習ったんだけど……。これが限界。修行に行きたいけど、ボクはここから出られないしね」

 シオンの中で、撫子の夢が繋がった。彼女は親父さんのように世界中を旅したいわけでも、まだ見ぬフロンティアを開拓したいわけでもない。

 ただ島の外へ出て、自分の味わった感動を誰かに分け与えたいのだ。だが、撫子の足はこの島に縫い付けられている。

「聞きたいんだよ、父さんに。冒険に行く時怖くなかったのか。ボクはたまらなく怖い。一度離れたら、帰って来る場所がなくなっちゃいそうで」

 一度全てを失った撫子の空にかかった雲は重たい鉛だ。変わらない場所で、変わらない想い出に浸り続けたかった。

「どこにも行かんでくれ、撫子……」

 注意してないと聞き逃すほどに小さな声だった。伍代はケーキを食べる手を止めていた。

「……ずるいなぁ、伍代は」

 日が暮れたら今度は伍代が晩御飯を作った。さすが食堂の息子だけあって、悔しいが味付けは見事だった。

 シオンに勧められた本を借りて、伍代は帰っていった。後片付けはシオンの仕事だ。死者と生者を繋ぐ死神は、少女の家で皿を洗う。

「おばあちゃん遅いですね。迎えに行きましょうか?」

「いつも本島に行った時は日が暮れるまで遊んでるらしいけど、今日はたしかに遅すぎるね。最終フェリーまであと少しだし、港まで行ってみようか」

 食事が終わった後から、撫子はずっと手紙と睨めっこだ。覗いた限りじゃ、まだ一文も書けていない。

 シオンが自分の仕事を忘れて家夫に没頭していた時だった。家の電話がけたたましく鳴り響いたのは。

 それは、撫子の鎖を無理やり引きちぎる最悪の報せ。しかしそんなこととはつゆ知らず、彼女は元気に腰を上げてしまった。




「……本当に大丈夫ですか?どう見ても重症ですよ?」

「だ、大丈夫だよ……。この程度、ばあちゃんのためなら……」

「ほれ、楽にせぇ。船の外見ろ。遠くや遠く」

 電話があってから三十分、本島へ向かう最終フェリーで、撫子は項垂れていた。

 ばあちゃんが倒れて病院に担ぎ込まれたと連絡が入ってから、撫子の足は強張ったままだ。電話に出た直後から呼吸も浅く、血の気も薄い。

 初めは身内が倒れたから焦るのも当然だと思っていたシオンだったが、違った。撫子にとっての一番の問題はばあちゃんだが、二番目は面会のために島から出なければならない事だった。

 島から一歩出た瞬間、フェリーの上で撫子は吐いた。その一発が引き金となり、ほんの三十分弱の乗船なのに、既に三度はえずいている。

 やっと病院について面会に行った時など、どちらが病人か分からないほどに青白い顔をしていた。水を飲もうが薬を服用しようが、撫子の発作は治らない。

 ただ唯一ばあちゃんの顔を見た時だけは、少しばかり赤さが戻った気がした。

「悪いねぇ、みんな。シオンくんはお客さんなのに。伍代も。んで、どうしたんだい撫子。泣くんじゃないよ、なんて事ないからさ」

 島から離れた恐怖とばあちゃんのショックで限界だった撫子の目に涙が浮かんでいた。祖母の腕を濡らす彼女の姿は、年相応の女の子そのものだ。

「……俺コーヒー買ってくる」

「じゃあ私は売店でアイスでも」

 静寂が戻った病室に、しゃくりあげる声だけが響いている。十五の少女にとって、世界は残酷だった。

「泣いてんじゃないよ。安心しな、お盆には帰ってきてやるから」

「……笑えないよ、ばあちゃん」

 撫子の声が、宵闇に溶けてゆく。いつもの元気が転じて、今日は萎れた花になってしまう。

 撫子はみんなに笑顔を振りまいていた。彼女が笑えば、周りもつられて笑顔になる。それが自分の役割なのだと、本人も知っている。

 でも二人きりの世界じゃ、彼女の仕事は孫として立派に立っている事だ。泣く時代は終わった。そんなのはわかっているのに。

「……シオンに頼んで、ボクの寿命をばあちゃんにあげられないかな……」

 大きく鼻をすすって、撫子は目を拭う。無理に作った笑顔は、どこかぎこちなかった。

「……後ろ向きな、撫子」

 撫子の背中に、ばあちゃんは強烈な張り手をお見舞いした。乾いた音が病室に響く。直後、少女の甲高い悲鳴がこだました。

「なにするんだ! あー、痛った! ホントに倒れたのかよ、このばか力!」

「悩んだ時は空を向きな。続く地面なんて眺めてても、壁の高さしか見えないよ。あんたは今、防波堤ほどの壁を富士山とでも見間違えてるのさ」

 ひりひり痛む背中を抑えながら、撫子は病室の空を見た。星と月と雲と海。水平線の向こう側にはどんな壁も待っていない。

 撫子たちが暮らす島が、遠く豆粒のように暗闇に光っていた。いくら手を伸ばしても、掴めるものはなにもない。全部がそこにあるはずなのに。

 島を出て初めて、撫子は気づいたのだ。父が冒険に出ようとした理由に。

 あの水平線の果て、空と大地の境界線にあるなにかを、己の目で確かめたかったのだ。

「……ありがとね、ばあちゃん。ボクがどうしたらいいか、やっとわかったよ」

 ばあちゃんの手は暖かかった。篝火は灯っている。帰る場所はある。

 コンビニ袋を手提げて戻ってきたシオンと伍代を、撫子は屋上に引っ張っていった。

「お願いがあるんだ、シオン。前に死神に国境はないと言ったよね。君はどこへでも自由に行けるのかい?」

「正規の手続きを踏めばどんな場所へでも行けます。チケットは仲間が用意してくれます。……依頼者の分も可能だと思いますよ」

「それはよかった。頼んでおいてくれるかな。行き先は、そうだな……」

 世界で一番、自由な空があるところ。撫子は夜空に宣言した。

 死神が笑う。彼にはなんの対価も契約もない。手紙の対価の寿命は死神のものにはならない。天への配達料だ。だから彼らは夢の果てを見たかった。人の歩いた道筋を見届けて、次に伝えるのが死神の役目なのだから。

 いつか見た夢の続きを、シオンは思い出していた。あのライ麦畑の中で、彼は追いかけっこをした。白いワンピース、麦わら帽子のよく似合う女の子。彼女は栗色の短髪を靡かせながら、太陽に笑っていた。

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