第23話 初めての仕事

 朝焼けが妙に眩しくて、シオンは目を覚ました。いつものように布団をたたみ、顔を洗って歯を磨き、リビングに降りて朝ごはんを作った。

 ミヤビはいつも、決まった時間に目覚ましを鳴らす。それを三度止められてからが、シオンの仕事だった。

 けれど、その日あの喧しい音は鳴らなかった。

 ただ、机の上に一通の手紙だけを残して、アカツキ・ミヤビは姿を消した。鞄も服も、死神の道具でさえ、何も残っていなかった。

 シオンの求める温もりは、世界から去っていた。

 シオンは焦らなかった。三年前の自分なら、孤独を恐れ、異郷の地に呑み込まれていた。だが彼の三年間は、死神との信頼を作るには十分だった。

 彼女の名を呼ぶこともなく、シオンはやけにごつい手紙の封を切った。

『こうして手紙だけを残すことを、まずは詫びよう。君に手紙を書くのは初めてだ。私と言え、多少の緊張はする。だから字が汚くても大目に見ろ。

 まず、シオンにとってこれが最後の試験だ。成功報酬は、死神としての正式な力。想いを空に届ける力だ。

 試験の内容は二つ。まず、愛とは何かを知ること。そのための手がかりとして、死神の手紙を一通同封してある。きっと、君の役に立つ。

 二つ目は、私を見つけること。死神とは何かを見つけ、そして本物の死神を探すんだ。

 これらの試験は、おおよそ一年を期限だと思ってくれ。きっと君ならそう時間はかからない。

 分からないことがあれば、まずは自分で考えろ。それで無理なら、仲間に頼れ。ダヴィもシーターも君に協力してくれる。

 試験に際して、そこにある死神の手紙だけはシオンが送れるようになっている。誰かを助けて学んでも、自分で誰かに聞いてもいい。

 私は、随分と長い間シオンと一緒に旅をしてきた。そんなわたしから、君に言いたい言葉がある。それを聞くのは合格した後だ。

 さぁ、この手紙を閉じた瞬間から、シオンは人と死神の間を歩くことになる。君の全てを、私に見せてみろ!』

 インクが足りなくなったのか、最後の方は掠れていた。ミヤビの英語は、いろんな国のクセが混じっていて読みにくかった。

 手紙を閉じて、伽藍と化した部屋を見渡した。クローゼットのスーツは一着も残っておらず、ベッドに温もりもなかった。

 すぐに、シオンは郵便局を後にした。当面要るものだけをリュックサックに押し込んで、空港行きのバスに乗った。

 お金は少しだけあった。世界中で使えるスイス銀行の口座に、これまで貯めてきたお小遣いがある。

 人の盛んな繁華街を横目に、シオンは手が震えているのに気づいた。香辛料の香り、聞きなれない言葉。それら全てが、胸の穴を広げてくる。

 一人空港に降り立ったシオンは、手持ち無沙汰に構内を歩いていた。どこへ向かおうか、どうやってミヤビを探そうか。肉まんを頬張りながら、外のパフォーンスを眺めながら、本を読みながら。

 ページに目を落としていると、不意に目の前に黒髪が降ってきた。

「あの、写真のシャッター押してもらえませんか?」

 ミヤビと同じ長い髪に、シオンは顔を上げた。けれどそこにいたのは、大きな荷物を持った観光客だった。

「……あぁ。ここを押せばいいのか?」

「はいそうです!ありがとうございまーす!」

 龍の置物の前で、彼女たちはポーズをとった。二回ほどシャッターを切り、そのまま去ろうとしたシオンを、女の子たちは引き止めた。

「観光ですか?実は私たちもはじめての旅行で、もしよろしければ、少しだけ一緒に回りませんか?」

「見た感じ、お兄さんも旅人みたいだし。話聞きたいでーす!」

 訛りの強い英語に、シオンは笑顔で返した。ミヤビがいつもそうしていたからではない。お手本となる死神がいない今、シオンはその影の隣に立とうと必死だった。

 香辛料と自然の香りの中を、三人は歩いた。ヒントがない今、シオンは誰かとの関わりを欲していた。

 彼女たちは、日本という国から来たと言った。その未踏の地の名前を、シオンは知っていた。

「お名前、なんて言うんですか?私は楓、こっちはいろはって言います。お兄さんはどこの国から?」

 ずっと昔、まだシオンが二つの言葉しか話せなかった頃、夜咄にミヤビが語ってくれた。

 私の国じゃ、今くらいの季節、秋になったら綺麗な楓の葉が辺り一面を紅に染めてね。その中を一人で散歩するのが楽しかった。たまに手紙の中に葉を入れて、他の国へ持って行ったりもした。機会があれば、シオンにも見せたいよ。

 あまり過去を語らなかったミヤビ。彼女の辿った足跡を、少しだけ見つけた気がした。

「……シオン。アカツキ・シオンだ」

「へぇ……。めっちゃ日本人っぽいですね。ハーフの方とか?」

「いや。この名前は、俺の大切な人が付けてくれたんだ。俺の仕事にぴったりだって」

「どんな仕事してるんですか?やっぱ、かっこいいからモデルとか?」

 まだ一人前じゃない。少し考えて、シオンは言った。

「手紙を届けるんだ。誰かの大切な想いが詰まったものを、遠くの場所に」

 目を細めると、記憶が波のように押し寄せてくる。その海のずっと向こう、手が届かないほどの水平線にいる死神の背中が、ようやく見えた。

 一時間ほど一緒に観光して、シオンたちは公園にいた。

「それじゃ、楽しかったです。ありがとうございました。またどこかで会えたらいいですね、シオンさん」

 手を振って、二人の影が遠ざかる。風になびく黒髪は、やはりミヤビにそっくりだった。

「いつ日本に帰るの?」

「へ……?三日後ですよ」

「俺も日本に行く。だから、向こうに着いたら少しだけ案内してくれ。いいか?」

「いいですけど、私帰ってすぐ仕事あるんで、いろはと二人でも大丈夫ですか?というか、すごいいきなりですね」

「見つけたんだ。追いかけてる人の影を。だから、逃がさない」

 二人がホテルに入ったのを見届けて、シオンはすぐに空港へ足を向けた。急いで日本行きのチケットを予約し、生まれてはじめての携帯を買った。

 彼女たちが台湾を出るまでの二日間、シオンはあの老人の元を訪れて、愛について問うた。老人は、愛を時間だと言った。

 郵便局にあった慣れない台湾語の本をじっくり読んだ。物語から伝記まで、そのどれもが、別々の愛を謳っていた。

 三日後、日本へ向かう飛行機の中で、シオンは彼女たちの思い出を聞いた。ずっと歳下だと思っていた楓は、シオンより三つ上だった。

 学校での恋の話、妹が生まれた話。想いに花が咲き、笑顔が産まれる。

 空の上で、シオンはフリーアへ手紙を書いた。

 はじめての日本は、もう肌寒い時期に入っていた。ミヤビの言ったとおり、空港の木が紅く染まっていた。

「なんか、不思議な匂いだ。胸がすっとする」

「醤油とかかな?あ、私もう行くね。パパがもう迎えに来てるみたい。それじゃ、シオンくんに変なこと教えちゃダメだよ?いろは」

「わ、わかってるよ……!」

 嵐の勢いで去っていった楓とは裏腹に、いろはは静かだった。束ねた黒髪を解けば、少しだけミヤビにみえた。

「どこか行きたいところとかありますか?あんまり遠いところはいけないけど」

「街と森に行きたい。ミヤビが生まれて育った土地を、自分の目で見たいんだ」

 ミヤビのことは、名前だけ伝えておいた。自分に名を授けてくれた、大切な人だと。

 いろはの住む街までは電車で帰った。銀の髪と碧の瞳が、いつも以上に人目を引いた。

 降りた駅は、辺り一面が紅葉に囲まれた、自然の香りがするところだった。初めて見る植物や鳥、不思議な文字にシオンは目を奪われた。

 一日目はすぐに夜を迎え、シオンは小さなホテルに泊まった。次の日起きてすぐ郵便局へ行き、フリーアへ手紙を出した。

 いろはがいない所では、会話をするのも一苦労だった。スペイン語も台湾語も、フランス語も通じなかった。なんとか話せた怪しい英語は、シーターに怒られていた自分を見ているようだった。

 その日は、いろはと日本的なものを見に行った。言葉が通じずとも、芸術や料理は伝わった。

 古いCDショップで『シエル』の曲を聞いた。解散から五年経った今でも、看板が立ててあるほどに人気だった。

 森へ行って、川のせせらぎを聞いた。苦いお茶も飲んだ。

 その帰り道だった。海岸でいろはは車を停め、見渡す限りの大海原に向かって石を投げた。

「ミヤビさんは、シオンさんの大切な人なんですよね。その……シオンさんは彼女を探しているんですか?」

「……あぁ。日本に来ればミヤビへの鍵があると思ったんだ。それを見つけた。ありがとう、いろは」

「いえいえ。それなら良かったです。やっぱり、大切な人が突然いなくなっちゃったら、イヤですもんね」

 水平線に、小さな瞳が向けられた。リュックの中にある死神の手紙に、シオンは手を伸ばしていた。

「わたしにも妹がいるんです。けど、その子、今どこにいるかわからなくて。昔大きな地震があった時別れてそれきり。警察は生きているのは絶望的だろうって。

 でも、本当にそうなのか確かめる方法もないんです。だから、今でもこうして、海に向かっていれば見つかるんじゃないかって。ほら、世界中の海って繋がってますし。

 ……せめて、元気かどうかだけでも知りたい。最後に、愛してるって言いたいです」

 蓋をしてきた想いが溢れて、海に滴った。友の前でも見せぬ顔は、夕日が隠してくれた。

 死者に想いを伝えるなら、死神を呼べばいい。けれど、生死が分からなければ、手紙は想いを届けない。

 だから、シオンは死神を超えると決めた。

「俺が死神だって言ったら、いろはは信じるか?」

 振り向いた彼女の顔は、ただでさえ小さな目がもっと点になっていた。

「『文を持つ死神』が、俺の本当の仕事だ」

「それは、一体どういう……」

「一通につき寿命一年。相手から返事が来るかはわからない。けど、まだ死者に想いがあるんなら、俺は責任をもって、その想いを空の向こうへ届ける。それでもいいなら、この切手を舐めて」

 銀の髪が陽に揺られ、死神が鎌を出す。二、三度思いとどまって、いろははそれを手に取った。

「死者に手紙を届ける……。噂は聞いたことがあります。でも、これを出すのは、彼女を否定することになりそうで、少し怖いです」

 宛名欄のない手紙を透かしながら、いろはは目を細めた。

「俺は生きてることを信じてる。だから死神の手紙を出す。だって、生きていれば手紙は届かない」

 死神の手紙にできるのは、死者に想いを伝えることだけ。だから、生きていれば手紙はそのまま返される。寿命も減らない。

 そんなことはミヤビから教えられていなかった。けれど、シオンは切手を差し出した。

「……何もやらないよりは、脚を踏み出せる方がいいですよね。うん」

「その先が崖だったら、俺が手を伸ばす。道があったら背中を押す。何も変わらなかったら、一緒にすわってるよ」

 ミヤビの国で、ミヤビの影を追った青年は、ようやく彼女の想いを見つけた気がした。

 一人で死者と、残された者と向き合って、見えない想いを届ける。シオンと出会う前も、きっと死神郵便局ができる前も、ミヤビは今のシオンのように、想いを届ける手伝いをしていた。

「…………これが最後の試練か。かなわないな、ミヤビには」

「ん?なにか言いました?」

「なにも。早く帰ろう。俺は腹が減った。いろはがいいなら、今夜のご飯は俺が作るよ」

「ほんとですか?じゃあ楓ちゃんも呼んで、三人でってことでもいいですか?」

「お金ないから、人が増えるのは歓迎だ。その分食料が増える」

 日が沈み、静かな夜の足音を聞いた。秋の暮れにシオンが作ったのは、トマトスープとリンゴのリゾット。初めて食べた人のご飯で、初めてミヤビを知った味。

 不器用な彼女が作った、しょっぱい味が懐かしかった。シオンは彼女たちに礼を言った。覚えたての日本語で、不恰好な発音で。

 その晩、いろはは眠らずにペンを握っていた。写真立てを側に、何度か船を漕ぎながら、手紙と向き合った。シオンが入れた蜂蜜ミルクを、朝が来るまでに三杯も飲んだ。

 日が昇ってから、シオンは車に揺られていた。復興も未だ手がつけられていない震災あとは、街をそのままひっくり返したような有様だ。

 しばらく歩くと、突然いろはが立ち止まった。公園だった。

「手紙を出すなら、ここがいいです。私と妹が、最後に言葉を交わした場所ですから」

 無理やり笑った彼女の顔は、抱きしめたくなるほどミヤビに似ていた。

 ねぇ、ミヤビ。本当にミヤビは、太陽だったの。俺がそう見ただけで、ミヤビは本当は、誰かにとっての月だったの。

 手紙を受け取ると、シオンはいろはの手を握った。

「一緒に送ろう」

 想いを届けるところを見られてはいけない。禁忌を破ったら罰がある。理不尽なことは慣れていた。ミヤビがいないこと以上に恐れるものはなかった。

 どこか外国の風景が書いてある、古い切手。それを手紙に貼り付けて、指でなぞる。

 少し待つと、手紙に文字が浮かび上がった。見たことあるもの、ないもの。言葉が手紙を埋め尽くすと、それは宙に散った。触れるたびに弾けて、澄んだ音が鳴る。

 最後の一つに触れた途端、時を巻き戻したように文字が現れ、手紙の形を作って消えた。

 震える手で、シオンは手紙の封を切った。ルミの時と同じことかもしれないと。けれど、中身を見たシオンは、思わず叫んでいた。

「やった!」

「手紙、戻ってきました……よね?まさか」

「あぁ!これはいろはが出した手紙そのままだ。追記もない。これは空の向こうに届かなかった。だから!」

「……妹は、ういなはまだ……」

 シオンが手を挙げると、彼女は勢いよくハイタッチした。痺れるほどに想いが込められていた。

 いろはもういなも、どこかで同じ空を見上げている。それが分かっただけで、シオンは拳を握りしめた。初めて死神として、一人で想いを完遂させた。

 死神の試練。その意味が、少しだけ分かった気がした。今、世界のどこかで変わらず想いを届けているだろうミヤビへ、シオンは手を伸ばす。

「すぐ行くよ。ミヤビの隣に立ってみせる」

 拓けた空の向こう側、水平線の先にいる死神の背中は、すぐそこにあった。

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