第35話 恋を、知らない

 鍵を入れて開錠するのさえなんとなく面倒くさい。ブザーを鳴らせば在宅の愛子がドアを開いてくれるはずだ。それはわかっているけれど、夜遅くに女性が来客の応対に出てはいけないと常日頃言っている身としてはそんなことは出来なかった。


 鞄のポケットを探り鍵を取り出す。ドアを開いて廊下の向こうを見ればリビングに明かりがついていた。

 モスグリーンのルームウエアに着替えた愛子がソファで居眠りをしている。部屋は温められていたが、そんな薄着では風邪をひいてしまうだろう。

 ヒカルは鞄を床に下ろし、着ていた上着をそっと彼女の上に掛けようとして、思い留まる。外にいた自分の上着では冷たいだろう。ダイニングの椅子に彼女の上着を見つけ、それを愛子の肩に乗せた。

 化粧っけの無い愛子の素顔は白すぎて少し心配になる。具合が悪いのかと思ってしまう。実際はそんなことは無いと知っていても。

 だからヒカルは、化粧するアイコの顔がすきだった。素顔は勿論好きだけれど、化粧している方が、顔色が良さそうに思えるから。

 自分は飲めないお酒も、アイコが飲むのが許せるのは同じ理由だ。アルコールで紅潮した顔の彼女はとても血色がいいから。

「・・・ただいま、アイコ。なんだか今日もとても疲れたよ。早く卒業して、専門学校へ行ってしまいたい。」

 小さな声で呟いて、彼女の頬に軽いキスを落とす。

 手に持った自分の上着からテレピン油の匂いがした。思いのほかあの部屋に長居してしまったせいだろう。

「・・・そして、早く養子を解消して君と結婚したい。大人になるまでの道のりがこんなにも長いなんて嫌になっちゃうよ。」

 一回り以上も違う年齢差が時に気が遠くなるほど遠く感じてしまう。

 いつになったら自分は自立してこの女性と夫婦になれるのだろう。誰にも邪魔されず堂々と居られるようになるんだろう。

 一緒に居る時には微塵も年齢差なんて感じない。会話もなにもかも、愛子と一緒に居て同じ価値観で同じ視点で同じものを見ていられる。何も考える必要さえなかった。

 この世にいるのが自分と愛子だけだったらどんなにか楽だろうにと、途方も無い事さえ考えてしまう。だったら何も必要ないのに、何一つ面倒など無いのに。

 うるさい叔父も、同級生も、先生も。

 愛子がヒカルのために気にせずにはいられない常識とか世間とか生活とか、そんなものも。

 しどけなく眠る愛子の唇に、そっと指で触れる。

 全ては、貴方のためだけに。そう思って生きていられるのに。

 愛子以外の女性など、ヒカルには何の興味も無い。そそられない。

 いつか本当の恋をしたら、ヒカルにも母親がうっとおしいと思える日が来る。愛子はそう言った。

 その通りだと思った。

 だって、愛子を好きになった時から、両親のことは二の次に思えるようになった。むしろ、愛子が自分らに会いに来てくれるのが、両親のお陰だと知って、餌のようなものだとさえ思えてたふしがある。

 実の母が嫌いだったわけじゃない。愛情を注がれなかったわけじゃない。大らかな母の事は当然好きだったし、愛されていたと思う。

 けれど、愛子が父と母の姿を見て不意に見せる悲しい表情に、苛立ちを覚えていたのも確かだ。

 ・・・どうしてアイコはあんなにも泣きそうなの。大好きなパパとママを見て、あんなに悲しそうになるの。パパもママも優しいのに。

 幼心に覚えた不安と悲哀。

 愛子が父に恋していた事実を知ったのは、初めてその不安を知った時からだいぶ時間が経ってからの事だった。

「・・・僕なら泣かせたりしないよ。あんなに悲しそうな顔をさせたりしない。僕ならずっと貴方だけを愛するから。」

 違う意味では多少泣かせている気がするけれど。そこだけはご了承いただきたいところだ。何せ、ヒカルだってまだまだ若い男なのだから。

「・・・いいの。わたしは、これで。」

 愛子の唇が動いた。起きているのかと疑ったが、瞼は閉じたままだった。

 寝言だろうか、声がくぐもってはいるが、意味の通る言葉を発している。

「このままで。」

 それだけ言って再び愛子の唇は閉じた。

 どんな夢を見ているのだろう。夢の中の誰に、今の台詞を言ったのだろう。

 彼女から手を放して立ち上がったヒカルは、ダイニングテーブルの上に視線を移す。冷えてしまった夕食が並ぶそこを見て、何故か今更のように腹の虫が泣いた。

 冷えて遅い夕食でも、愛子と一緒に取るのなら美味に違いない。彼女と二人きりの食卓をヒカルはこよなく愛している。



 学校からバスで30分ほどの郊外に侯爵家の別邸がある。バス停のある大通りから路地を二つほど抜けた先に立っているそこに、侯爵本人が滞在することはほとんどなかった。別邸とは名ばかりで、実質そこには侯爵のSP達が常時詰めている場所である。

 アイザックはそこの地下室へ温かいココアを手に下りていく。長時間モニターを眺めていたために目がしょぼしょぼすると言って袖で擦っているミスズが、5台ものモニターの前に座り込んでいた。

『アイク、ありがとう。』

 デスクの上に大きなマグカップを置いた彼に礼を述べるミスズは、奔放に跳ねるライオンヘアを両手で押さえる。

『・・・この地味で長い作業辛いねぇ。これもSPには絶対必要な作業?』

 ココアを口に運びながら尋ねると、アイクは静かに頷いた。

『監視カメラの映像を5台も見続けてもう3時間だよ。もう飽きたよ~。』

 愚痴をこぼし始める彼女に苦笑したアイザックは、タータンチェックのシャツのポケットから目薬を取り出してデスクの上に置いた。

 ミスズは侯爵家のSPを目指して修行中の身だ。

 この侯爵家別邸に住み暮らすようにしているのも見習いゆえである。SPとしてやらねばならないこと、出来なければならないことを学習中なのだ。

 元来のミスズはプロのスポーツ選手を目指していたくらいなので、動かず何かに集中すると言う事がとても苦手だった。

 体術さえ出来ればいい、というものではない。それはわかってはいたのだが、やはりじっとしてやる作業は苦痛でしょうがない。

 今は休憩中ということでモニターの画面を静止しているが、再びまた何時間もそれを見続けなくてはならないかと思うとため息が出てしまうのだ。

 そんなミスズを見て優しく微笑む相棒は、非常に口数の少ない彼女の先輩だ。

 茶色の髪に明るい茶色の瞳で、整った甘いマスクを持つ彼は、その外見の割に存在感が薄い。とにかく極端に無口なので、鈍い人は、彼が傍に居ることにさえ気が付かない。

 滅多に言葉を発さないので分かりにくいが、彼は一応ミスズに好意があるらしい。

 そう教えてくれたのは、彼の祖父であるピーターだ。いい年のじっちゃんであるピーターは、長年侯爵様の護衛を務めたベテランのSPだった。ミスズがこの別邸に引っ越して来た時に、顔が見たいとわざわざ挨拶に来てくれたのだ。

『アイクの奴は喋らないからわからないだろうけどね、お嬢さん。あいつが一緒に仕事をしてもいい、なんて言った人間はあんたが初めてなんだよ。わたしが見たところ、ありゃ、あんたに気があるねぇ。』

『へぇー。』

 抑揚のない声で返事をしたミスズは、別に驚きもしなかった。

 何故なら、ミスズは結構モテたからだ。小学校エレメンタリーの頃から、ミスズの周囲は男子ばかりだった。人並み外れて運動神経の良かった彼女は、一緒に遊ぶのに同性では役不足だった。追いかけっこから球技や格闘技に至るまで、女子の中にミスズと対等に遊ぶことが出来る子はほとんどおらず、いつも男子とばかり一緒に居た。

 友情の延長上なのか、それとも遊び相手として愉しいからなのか、一緒に行動する男子の中にはミスズに好意を持つものが結構いたのだ。

 けれども、ミスズにはいわゆる恋愛感情と言うものが理解できなかった。

 男子と遊ぶのは楽しい。一緒に居て面白い。それは間違いないけれど、彼女にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。

 双子の兄のように誰かを激しく愛する、などというのは全く理解不能と言ってよかった。

 一緒に行動する男子の中にはミスズに対して不埒な真似をするものも有ったが、全て返り討ちにしている。そして、返り討ちにあった男子は、二度と彼女には逆らえなくなるのだ。

 同級生の女の子が、ヒカルや、その他の男子に好意を持つということも、表面的には理解したふりをしているが、本当の所は少しも共感していない。

 誰かが誰かを好きになると言うのは、その誰かが自分にとって都合がいいからだ。あくまで利害の上に成り立つものなのだと、ミスズには思えてしまう。

 しかし理解できないからと言って、彼女に愛情が無いと言うわけではない。ミスズは養母のアイコのことも双子の兄の事も身内としてきちんと愛している。性愛や恋愛というものが共感できないだけで、愛情そのものに不信を抱いているわけではない。

 静止画像を凝視していた相棒が、一番右のモニターの隅を指差した。

『・・・!これは』

 彼の意図するものに気付かなかったミスズは、警護を担当する人間としてまだまだ半人前なのだと言えよう。 

 澄んだ青い目を瞠り、それからやがて、ゆっくりとカップを置く。ミスズの表情は、なんとも言えない複雑なものだった。

『アイク、この人物ターゲットについて調査しよう。・・・まさか、ねぇ。アタシって人を見る目が無いんだな。』

 頷いたアイザックが気を落とすな、とでも言う風にゆっくりとミスズの頭を撫でる。

 後輩を労わる先輩の気遣いに悪い気はしない。彼女は情けない苦笑を見せて軽く肩をすくめた。

 モニターの隅に映っていたその人は、ミスズも良く知る人だったから。 


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