第33話 彼のために鍛える

 地下鉄の駅で降りて、交差点の出口まで登る。

 もうすっかり暗くなっていた。ロンドンの冬の日暮れは早い。日本よりも夜が長いから。その事にもすっかり慣れてしまったけれど。

 二階建てバスやらリムジンタクシーやらの行き交う賑やかな交差点を渡り、駅出口から向かいにある8階建てのビルへと速足で近づいた。周囲には高級そうな老舗が並ぶボンドストリート。その片隅にあるスポーツジムに入会したのは、娘が家を出て間もなくのことだ。

 ここにした理由は、外国人が多く登録していて、柄の悪い連中が寄りつけない立地であることだった。お金のある観光客とセレブをお得意様とする老舗が並ぶこの辺りでは、簡単に店の玄関が開かないからだ。

 ビルの入り口で身分証明カードを提示し、自動ドアが開く。

 愛子が登録しているのは三階のトレーニングルーム。エントランスホールからエレベーターに乗る。水曜日は比較的空いていることが多いので、彼女はこの日に通う事が多かった。

『乗せて下さい。』

 ドアが閉まる直前に外から声が聞こえ、愛子はボタンを押す。

『ありがとう。』

 背の高い黒髪の男性が乗って来る。ブリーフケースを片手に、スーツの上にトレンチコートを羽織っていた。

『どういたしまして。』 

 礼に短く答え、階数ボタンのパネルから身を引く。

 後から乗ってきた男性は、点滅するボタンをちらっと見ると、短くOKと呟いた。同じ階だと言う事だろう。

 珍しいな、と思った。水曜日のこの時間に男性が来ることは余りない。ジムは時間制で男女別に分かれているため、愛子が利用する時間帯に男性が通ってくることはないはずだ。三階にはトレーニングジム以外に何かあっただろうか。

 軽い合成音がしてエレベーターが到着したことを知らせる。愛子が男性の方をちらりと見ると、先を譲るように待っているので、慌ててエレベーターを降りた。

 間接照明が並ぶ短い廊下を歩くとすぐに受付だ。クリーム色のカーペットの上を足早に進む。

『こんばんは。会員証を見せてくれる?』

 ジャージ姿の受付嬢が愛想良く言った。手足が長くてスタイルのいい女性だ。黒い肌に艶があり、いかにも若々しくて羨ましい。ジムの受付にはぴったりだと思う。

 愛子は肩から掛けているバッグを開いて会員カードを探す。見つからなくて息を飲んだ。

 先ほど身分証明カードを出した時には有ったのだからすぐに出てくるはずなのに。

『失礼ですが、ミズ。先ほど、これを落としませんでしたか?』

 困惑していた愛子の背後から聞こえてきた声の方を振り返ると、エレベーターで乗り合わせた人が、左手に小さなカードを掲げていた。

 短く刈った黒髪に、精悍そうな顔立ちの男性は人懐っこそうに微笑む。

 カードをあらためると、確かに愛子の名前の彫られた会員証だった。落としたことに全く気付かなかったのは、床がカーペットで覆われているため落ちた音がしなかったからだろうか。

『あら、私の。落としてたのを全然気付かなくて・・・拾ってくれたのですね、ありがとうございました。』

 受け取ると、素直に礼を述べる。変な人に拾われなくてよかった。

 カードを手渡した彼はそのまま受付の向こうにあるドアの方へ足を向ける。

『いいえ。お客様の落とし物でしたらお届けするのが当然ですから。』

 男性は受付嬢にも軽く手を上げて挨拶した。

『ハイ、ジョアン。今日も綺麗だね。』 

『ハイ、バーナード。ありがとう、あなたもいかしてるわよ。アンディの替わりに入ってもらっていいかしら?』

『わかった。今日は何人くらい?』

『一人よ。空いてるわ。』

『そりゃ楽だ。』

 スタッフの文字が書かれたドアの向こうに消えた男性を見送ると、愛子は急に我に返った。

『もしかして、彼はトレーナー?』

 受付嬢がにっこりと笑う。

『そうなの。水曜日のアンディが骨折しちゃったんで、暫くは彼に交替してもらうことになったのよ。』

 という事は、愛子の担当トレーナーが今の人になったと言う事だ。しまった、もっとよく顔を見ておくんだった。




『初めまして、ミズ、アイコ・ハギワラ。俺はバーナード・リビングストン。バーニィって呼んでくれ。今日から貴方の担当になりました。よろしく。』

 手を差し出され、軽く握手を交わした。 

 大きな手だなと思った。担当だったアンディは小柄な男性だったので、手も愛子と同じくらいだったのだ。

『先程はありがとう。アイコと呼んでください。トレーニングの目的は体力向上。特に持久力をつけたいと思っているのでよろしくお願いします。』

『持久力を?それはそれは。・・・嫌なら答えなくてもいいんですが、理由は?』

『子供に負けないようにするためです。』

 特に、息子の底なしの体力についていくためである。とは言えないけれども。

 新しいトレーナーは焦げ茶色の目を丸くする。

『お子さんがいらっしゃるのですか?そんなにお若いのに?』

 よく言われる社交辞令だ。

『いるんですよ。二人も。』

 定石通りの会話に思わず笑ってしまった。

『指輪をしていらっしゃらないので、独身なのかと早とちりしてしまいましたよ。』

『仕事中と運動の時ははずしているんです。邪魔なので。』

『そうでしたか。では、今日はこちらのトレーニングから行きましょう。』

 大柄な体がトレーニング室のマシンへ向いた。愛子もそれに倣う。

 指輪は持っている。家事と仕事と運動以外の時はいつもヒカルに貰ったものを身に付けている。そうでないと喧しく言われるし、最後には、安物だから付けてくれないんだといじけられて非常に面倒くさい。

 ヒカルがくれた指輪は、高価なものでは無いけれど、愛子にとっては一生貰えることは無いだろうと思っていたアクセサリーなのだ。

 はめていない時は小さな袋に入れて、財布の中にそっとしまっておく。いちいちはめたり外したりすることが、付けっぱなしでいるよりもその存在を意識出来て、少しだけ嬉しい。

 手のかかる子だし、まだまだ自立できない甘ったれなヒカルだけれど、愛子にとっては大切な息子であり、今は大事なパートナーでもある。 

 こうしてトレーニングに来るのも、彼のためなのだから。




 帰宅した時、ヒカルはひどく不機嫌そうだった。

「お帰り、遅かったねアイコ。どこ行ってたの。」

「た、ただいま、うん、お付き合いでちょっとだけパブに。」

 新しいトレーナーであるバーニィに、一杯だけパブに付き合いませんかと誘われたので、本当に一杯だけ引っ掛けて帰宅したのが気に入らないのだろうか。

 でもヒカルは愛子がお酒に強い事は知っているし、職場の人とたまに飲んでくることも了承しているはずだ。

「怒ってるの?でもちゃんと連絡しておいたでしょう?今夜は遅くなるわよって。」

「別にアイコのせいで怒ってるわけじゃないから。夕食は?済ませたの?」

 小さくため息をついたヒカルは、弁解するように言った。

「ううん。お腹空いてるのよ、軽く何か作るわ。貴方は?」

 二時間もしっかりトレーニングしてきたので、空腹でしょうがない。年齢のせいか近頃は胸焼けしてくる焼肉だって、今ならお腹いっぱい食べられそうだ。

「僕もまだだよ。ねぇ、今から作るの大変でしょう。ちょっとそこまで行って、テイクアウト買ってくる。」

 上着を取ろうと自室に引き返そうとする息子を引き留める。

 余計な出費は出来ない。ミスズが出て行ったとは言え、家計に余裕が出来たわけではないのだ。

「大丈夫よ、20分待って。パスタ茹でるから。」

「でも、アイコ」

「すぐよ、すぐ。ちょっとだけ待ってて。いい子だから、ね?」

「アイコってば。」

 ショルダーバッグが落ちる。

 いきなり抱きしめられるとは思わず、びっくりしてしまった。

「ど、どうしたの、ヒカル。」

「無理しないで。・・・夕食作る無理をするくらいなら、ベッドの中でして。」

「・・・あのね。」

「僕が作るよ。茹でて混ぜればいいんでしょう。僕は父さんの子なんだ、料理くらい出来るよ。」

「え、ええ~・・・?」

 確かにヒカルの父親は料理上手だったけれど、愛子はヒカルのマシな料理は見たことがない。

 父親は器用で料理上手な人だったが、母親の方は・・・。お世辞にもうまいとは言えなかったはずだ。ミスズのワイルドなそれの方がまだ良かった気がする。

「そう?じゃ、任せようかな?」

 心配だけど。

 でも、やらなかったら上達しないだろうから、いい機会かもしれないし。

「うん、僕がやる。」

 出来るよ、と言う割には一向に始める様子が無いのだが。いつになったら放してくれるのだろう。

 ヒカルの手に力がこもっている。

 彼の背中に手をやって、そっと撫でた。何かあったのだろうか。

「ヒカル・・・?」

「1分だけ、こうしてていい?」

 まるで縋るかのように、彼よりも背の低いアイコに身を凭せ掛けている。


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