第31話 守りたいとは言うけれど


 這いずるようにベッドを抜け出したが、半分落ちかけているルームウェアの下穿きを上げようとした途端それを引っ張られ、再び元居た場所に引きずり込まれた。

「ヒ、ヒカル、頼むから、ね。トイレだけ、行かせて頂戴。お願いだから、ママ冗談抜きで」

 ぎゅっとその辺りの筋肉を引き締めて必死で尿意を堪える。骨盤底筋群とか言うはずの筋肉。確か健康診断の時に医師に言われた。年齢的に尿漏れが気になるようだったらこの辺りの筋肉を鍛えろとかなんとか。その時は、その筋肉の場所を説明されても上の空だったけれど。

 硬い指が愛子の下半身から衣類の全てを奪っていく。やめてくれ、冷えると益々出そうになるのだから。

「ひぎゃぁぁぁ」

 濡れた舌がお尻の上の方を舐めたせいで、鳥肌が立った。

「まだ僕は満足してないのに逃げる気?」

 ヒカルの手が、きつく臍の下を手でつかんで腹肉を揉みしだいた。冷や汗がでそうだ。

「トイレ行かせてくれたら、相手するから、ヒカルの気が済むまで付き合うから、とにかく、許して。お願いだからぁ、トイレ、行かせて。」

 ついでに朝シャワーと歯磨きと着替えと化粧もさせて。

 半泣きと言っていい状態で懇願する。

 まったくもう、ヒカルが珍しく早起きなんかするとろくなことがない。こんな目に遭うくらいなら寝坊して貰ってた方がずっと楽だった。

 朝の光の中でわずかに色を変えた黒い瞳がゆっくりと満足そうに細くなる。光線の加減で微かに色を変える彼の目は、ほんのわずかに青みかかっていた。彼が父親から貰った本来の色彩が顔を出す瞬間だ。薬で色を変える前の、本当のヒカルの目はミスズと同じ青。

「その言葉、忘れないでよ?朝食の用意出来てるから、準備が済んだらダイニングに来てね。」

 まるで押し付けるようにそう言うと、彼は手を放し愛子を解放した。ベッドを下りて靴を履き、その足で彼女の部屋を足早に出て行く足取りは軽い。

 一刻の猶予も無い愛子の方は、下穿きを持ち上げる手間さえ惜しむように片手でそれをこなし、彼の後を追うように慌てて部屋を出て廊下の奥にあるトイレへ向かった。


 日頃起こされても起きないヒカルが朝食の用意までしていたと言うのだから驚きだ。明日は早めの雪でも降るのだろうか。

 トーストとコーヒーに茹で卵まで用意してくれている。サラダは自分で食べたくて簡単なものを添えた。

「冷蔵庫に大きめのラム肉が入ってたね。今夜ミスズ来るんでしょ。」

「一昨日来たばかりだけどまた来るって言うから。どうしたのかしらね?ホームシックにかかるような子じゃないのに。」

「さて、ね。」

 カップの中のコーヒーが揺れた。テーブルを挟んで向かい側の椅子に腰を下ろしているヒカルが長い足を組んだ時に脚にぶつかったらしい。

 毛糸の太い、編み目の大きな藤色のセーターに黒いジーンズ。着る人によっては趣味の悪いオネエみたいになっちゃう気がするのだが、ヒカルには妙に似合っている。クォーターゆえの、そして、薬によって変化した色彩を持つ容姿のせいかもしれない。いつどこでこんな服を購入したのか、母親である自分も知らない。

 美術専攻なせいか、彼の美意識はそこかしこに見られる。服装であったり、趣味であったり、意外な場所でそれが垣間見られたりもする。愛子の体の一部にそれが見られると言うのは不本意この上ない話だが。

「今日のチークいいね。優しいオレンジ、きれい。」

 にこっと微笑んでヒカルが化粧を褒めてくれたりもする。

 化粧は、必ず彼はチェックしている。ヒカル自身がどうこうすることはないけれど、愛子に似合うかどうかはしっかりと見ているようだ。

「そぉ?ありがと。同僚に勧められて買ったのよ。」

「口紅をしていないから、そういう色が健康的でいい。休みの日はこのくらいが素敵だ。」

「まあね。仕事行くときは顔色悪くなっちゃうからルージュ無しってわけに行かないわね。」

「アイコは肌が白いもの。東洋人っぽくないくらい。」

「そうかしら。こっちの人とは比べるべくもないけど。」

「その白い肌にキスマークをつけるのって凄く優越感。さぞかし目立つだろうにな。」

「頼むからやめてね。ママの社会的立場のために。」

 そんなものを付けられた日には仕事にさえいけなくなる。若い子とは違うのだ、いい年こいてそんなみっともない真似は出来ない。

「見えない所ならいいでしょう?」

「・・・何が優越感なのか知らないけど、この年になると消えるまで時間がかかるのよ。勘弁してちょうだい。」

「時間、かかるんだ。」

 なんで嬉しそうなのだ。

 彼の淹れたコーヒーを啜る。今日のコーヒーはやや濃い目だった。つい、ミルクを足してしまう。飲み干してから立ち上がって食器を片付けた。

「洗濯をしちゃうわ。ヒカル洗うものあったら今のうちに出して。」

「僕がやっておいたよ。もう、全部乾燥機に入ってるから、切れるのを待つだけ。」

 息子の応答を聞いて、思わず目を丸くしてしまった。

 やっぱり雪、いや、槍がふってもおかしくないのでは。

「ね?さっきの約束覚えてるよね?僕の気が済むまで付き合うって言ったよね?」

 一体何をさせられるのか、されるのか。

 にっこりと微笑むヒカルに、愛子も引きつった笑顔を返すしかなかった。



 ベッドサイドのチェストに置いたままの端末が震えたので、手に取る。妹のミスズが到着したとの連絡だ。

 ヒカルはそっと毛布から出て、息をひそめて服装を整えた。

 寝台の中には疲れ切って眠っている愛子の顔が半分枕に埋もれている。起こさぬように用心しながら、ゆっくりと顔の位置をずらして仰向けにしてやった。枕に顔を伏せると肌に跡が着いてしまうからだ。冷えないように隙間なく毛布をかけてあげる。

 静かに部屋を出て玄関へ向かって鍵を開けると、双子の妹と、その連れであるアイザックが待っていた。

「静かにね。今、眠ってる。」

 人差し指を立てて示すと、二人は軽く頷いて声を出さずに中へ足を踏み入れた。

 リビングへ入って、二人の上着を受け取りハンガーにかける。大きな四角い鞄に気が付き、ヒカルはそちらへ眼を向けた。

「それを使うの?」

 アイザックが頷く。

「ママは自分の部屋で寝てるの?」

「うん。当分起きないと思う。相当疲れたと思うし、睡眠薬も飲ませたから。」

 休日の真昼間だと言うのに相当疲れている、というのはどういうことなのか。ミスズは深く考えるのを止めた。

「あんまり無茶させないでよね。ママの健康を害すようなことしないでよヒカル。」

「もちろん、そんなことはしないよ。」

「睡眠薬なんか飲ませておいてよく言うわよ。」

「こんなのアイコに知られたらストレスでそれこそ健康を害すかもしれないだろ。そっちの方が」

 アイザックが人差し指を口元に持って行って、静かにするように促す。

 リビングの椅子の腰を下ろした彼は、鞄から機材を取り出し起動した。電源の入った音が聞こえ、彼の指が機材の操作を始める。

「・・・僕とアイコとの関係を知っているのは身内以外にはいるはずがないんだ。そのくらいアイコは警戒してる。」

 小さな声で呟いた双子の兄に、ミスズが応じるように言った。

「なのに、モニーク先生は知っていた。」

「叔父さんたちから洩れるはずはないし。日常生活でもかなり気を使ってるからバレるはずないんだけど。」 

「だから調査してくれるようにアイクに頼んだんでしょう。先生に何を言われたのよ?ヒカル。」

「・・・復縁。アイコとのことをバラされたくなかったらって。」

 ふう~と長いため息をつくミスズ。

 嫌そうに眉を寄せるヒカル。

 双子の様子を気に留めることなく機材の操作に真剣なアイザック。 

 モニーク先生から呼び出しのあったあの日。何を言われるのかと警戒していたら案の上だった。

 彼女はどうやって知ったのか、ヒカルとミスズの二人が侯爵家の身内であることを着きとめ、アイコとの関係も調べ上げていた。そのうえでヒカルとの復縁を迫ったのだ。

 双子はハギワラ姓を名乗っているので、調べなければティル侯爵家との繋がり考えられないはずだ。現侯爵と多少容貌が似ているとしても、他人の空似で通る。

 ヒカルは黒髪だしミスズは色合いはともかく顔立ちがやや母親よりなのでクォーターなのは疑いようもない。侯爵家の身内に外国人の血が入っていることなど、一般にはまず知られていないのだ。そう考えればまず繋がりがあるなどと思いつきもしないだろうに。

 これは明らかに愛子の胃痛のタネになる。だから知られたくない、とヒカルは言う。

 二人の養母である愛子を守りたいと言うが、その兄の言葉に呆れるミスズは彼の言い分は筋が通らないと思うのだ。愛子のストレスの原因を作ったのは過去のヒカル自身なのだから。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る