第16話 レタスサラダ



 昨夜の事。思いだすだけでも赤面する。それは、女としての照れや羞恥とはまた別の理由であった。バスルームでのコトに及んだ後、殆ど動けないほどに消耗した愛子はヒカルに下のヘアをカットされトリートメントまでされた事実が、どうしようもなく恥ずかしい。性的な行為というよりも、まるきり介護ではないかとさえ思えた。下の世話をさせているかのようで。

 ベッドに戻ってから僅かな仮眠の後にトイレへ立つと、起きて待ち構えていたヒカルに壁際で立ったまますると言われ、その後に更にベッドで。

 翌日の朝、身体が言う事を聞かなくなっていてもおかしくないだろう。

 美術専攻のヒカルのためにスコットランド美術館へ行くつもりだったのに。

 ホーリールード宮殿を見学してアーサー王の玉座まで散歩するはずだったのに。

 立ち上がるのさえ辛い。これではとてもじゃないが観光なんて無理だ。

 それでもこれだけは、と思い、端末のヘルスケア画面で生理周期を確認する。一応妊娠しなくて済む時期だ。偶然とは言えラッキーだった。

 安堵したためか再び眠気が襲ってくる。愛子は朝トイレに行った以外、一度もベッドから降りていない。それほどに疲れ切っていた。

「眠ってていいよ、愛しい人。お昼はルームサービスを呼ぼうね。」

 私服に着替えたヒカルが枕元に戻ってきて甘く囁く。まるで、新婚の夫であるかのように。

 彼が手にしていた小さなカードは、ドアノブにぶら下げておく奴だ。丸い文字で、表面にレタスサラダと綴られている。

 今となっては到底養母とは言えない愛子がため息をついた。

 もう、したいようにしてくれ。

 レタスサラダ、つまりは、レット・アス・アローン。二人きりにして。

 ヒカルは余程新婚ごっこがしたいらしい。




 これから先、どうしたらいいのだろうか。

 どんな顔をしてミスズと一緒に暮らしていけばいいのだろう。世間様に顔向けがのできない真似をしてしまった。

 養子として引き取った子供と関係してしまった事に自己嫌悪を覚えて、どうしても顔を上げられない。

 ルームサービスされたオートミールとサラダ、スクランブルエッグをテーブルに乗せているヒカルの方は、上機嫌だ。彼の好きなハードタイプのシリアルを器に多めによそっている。彼はしでかしてしまった事の重大さを理解しているのだろうか。

「アイコ、お腹が空いたでしょう?食べよう。」

「・・・そうね。頂きましょう。」

 こう言っては何だが、あの世の彼の両親になんと言い訳したらよいのやら。

 責任もって彼らを一人前に育てるとお星さまに誓ったのに。

 午前中いっぱい眠らせて貰ってもまだ寝たりない眼をこすりながら、愛子はどうにかシャワーを使い、スーツに着替えて化粧をした。寝不足のため、化粧ノリが悪いのはもうどうしようもない。

 それでも歩くのが億劫で、出来る限りは歩かずに済むよう、ほとんど椅子に座ってじっとしている。

 そんな彼女をかいがいしく世話しようと、ヒカルはナイフやフォークを用意していた。

「ねぇ、そんな顔しないで?僕は凄く今日満ち足りた気分なのに、どうしてそんなにも浮かない顔なの?」

「・・・身体が、辛くて」

 そして、精神的にも辛くて。

「そんなに、無理させちゃったかな。・・・ごめんね。確かに、夕べはやり過ぎたよ、反省してる。でも、それだけ僕は嬉しくて興奮しちゃって・・・。」

 少し頬を染めて照れたようにそう言うと、ヒカルは愛子の前にオートミールの皿を置いた。

 照れる感じが、可愛い。そして、やっぱりあの人に似ている。

 ヒカル自身がそれほど喜んでくれたのなら、後悔しても仕方がないと思うけれど。

「ずっとこんな風に貴方と二人きりで朝を迎えられたらって思ってた。いつも貴方にしてもらうばかりだったから、こうして、朝食を用意して上げて、世話をしてあげて・・・。」

 それは介護老人という意味でしょうか?

 口には出さずに思ってしまう。そのくらい、彼と自分との感覚はかけ離れている。

 紅茶のポットからカップに温かい紅茶を注いでくれたので、愛子はミルクをそこへ足した。

「貴方の黒髪を梳いてあげて、身体を洗ってあげて・・・」

 やっぱり介護老人だ。

「一晩中たっぷり愛して上げて」

 口に入れた紅茶をを吹き出しそうになった。

 こんなに甘い言葉を並べる子だったのかと、思わず上目遣いで見上げてしまう。

 目が合うと、嬉しそうに微笑まれて、こっちも赤面してしまった。毎日顔を合わせている息子の笑顔に、たまらなく恥ずかしくなってしまったのだ。

「ぐったりした貴方をベッドに運んで、その寝顔を堪能するんだ。目覚めた貴方に何度もキスして、恥ずかしがらせてさ。」

 ひいぃ、もうやめて欲しい。

 そんな甘い言葉を続けられると年増の自分は恥ずかしくて生きていられなくなる。

「ひ、ヒカル、もう十分だから、ね?食べましょう?」

 あの人に言って欲しかった言葉。

 こんなふうに手放しに愛されたいと思っていた。

 今になってこんな形で願いが叶うなんて、思ってもみなかった。




 夕刻になってようやく部屋の外へ出る気になった。どうにか足腰もまともに動く。

 ヒカルが外食に出ようと言うので、悩んだ挙句、ヒールを履いた。背の高い彼の隣りを歩くには、ヒールなしというわけにはいかない。

「・・・悪いんだけど、ゆっくり歩いてくれないかしら?」

「いいよ。貴方に合わせる。」

 そう言って左のひじを突き出したヒカルに、右手を絡ませる。それはカップルだからというより、歩いて転ばないための支えだった。やっぱり介護じゃないか、という意見を心の奥底にしまう。

 二人でルームキーをフロントに預け、玄関を通り抜けて、ドアボーイが礼儀正しくドアを開いた。

 視界の隅で、黒塗りの高級車が停まったのが見えたけれどあえて気づかない振りで歩み去る。

 後部座席から降りて来た長い赤毛の美しい少女を、どこかで見たような気がする、と思いながら。

 ホテルから紹介されたレストランで、メインの肉料理が終わった頃になってヒカルが急に思い出し笑いを始めるまで、その事はすっかり忘れていたのだ。

「どうしたの?」

「アイコはホテルを出る時気付かなかった?黒塗りの車から降りて来た人。」

「そうねぇ、どこかで見たような方だって思ったけど。」

「くくく。アンジェリカ様だよ。叔父さんの奥様さ。今頃修羅場が始まってるんだろうな。」

「えっ・・・」

 それはまずいのではないか。

 だって、侯爵様は奥様の悋気から逃げ出してエディンバラまでやってきたはずだ。だから、自分にも匿ってくれるように頼んでいた。(そして、ホテル代を持って貰える交換条件も出してしまった。)

 愛子からは侯爵様がここに滞在していることは伏せておくつもりでいたのだ。愛子とヒカルが黙っていれば、恐らくはアンジェリカ様に伝わることは無いだろうと。

 侯爵様の御付きの方々はアーサー様の気質も奥様との関係も熟知したうえでここへ彼を逃がしている。だから、第三者がばらしでもしない限りは、彼女に知られることは無かったはずなのだが・・・。

 まさか。

 上目遣いでヒカルを睨み上げると、彼は口角を上げて笑った。

「アイコに言い寄ったりするからだよ。叔父さんにはいい薬さ。」

「貴方が連絡したの?」

「僕が直接連絡するわけないだろ?ただ、ミスズにちょっと入れ知恵しただけ。ミスズはアーサー様が大好きだからね。きっと黙ってられないだろうって思ってたら案の上だった。」

 つまり、ここに侯爵様がいることをヒカルがミスズに洩らし、口が軽くなったミスズが大叔父の所で喋ったのだろう。心配になった大叔父がアンジェリカ様の実家へご注進して発覚した、というところだろうか。

 ホテル代が、チャラになるはずだったのに。


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