第3話 とっくに女を捨てた

 

 今さらっと凄い台詞を息子から聞いた気がした。

 その台詞は、愛子と息子が血の繋がった親子であり、彼の父親が愛子の夫であれば、なんの問題も無い、むしろ美談に近いものである。

 しかし、息子と娘は養子であり、彼の父親は愛子の夫ではなかった。

 何も答えられず強張ったままの彼女を気にすることも無く、ヒカルは言葉を続ける。

「ねぇ、僕、少しは父さんに似てる?色は違ってしまったけれど、顔立ちなんかは似てきたと思うんだ。」

「それは・・・勿論、似てるよ。叔父さんだってそっくりじゃない。今日もなんかのニュース番組に出演してたわよ。ミスズもヒカルもよく似てるわ。」

 話をそらしたくて妙に饒舌になる。

 ヒカルの口から出た台詞を打ち消してしまおうとでも言うように、やたらと喋った。

「そうだわ、家族旅行行きたいって言ってたわよね?休み取れそうだから行き先を決めましょう?余り遠くは駄目よ?」

「遠くじゃなくてもいいけど、せめて一泊か二泊くらいはしたいな。スコットランドとかどう?」

「あら、スコッチの工房でも見学したいの?」

「せめてロマンチックなエディンバラ城をみたいとか言って欲しいね。」

「わかったわ、調べて置く。・・・ところで」

「うん?」

「このままじゃいつになっても終わらないわ。手を放して頂戴。」

 シンクの中に落ちた皿をもう一度洗おうとするが、ヒカルの手がの愛子の手首を押さえているのでどうにも出来なかった。

「邪魔してごめん。・・・僕、部屋に戻るね。おやすみなさい、愛してるよママ。」

 掠れ声で優しくそう言うと、ヒカルが手を引っ込める。

 母親は顔だけを後ろへ向けておやすみ、と言った。

 階段を上っていく息子の足音を聞きながらほっと胸をなでおろす。



 萩原愛子はぎわらあいこは、10年ほど前に双子を引き取って養子にした。

 双子の両親は突然の事故で亡くなり、取り残された二人を、彼らの叔父である侯爵家が引き取ろうと言ってきた。叔父の兄は侯爵家の妾腹の子で、正式に認められた嫡男ではなかったが、現在の侯爵と父親が同じ年の離れた兄弟だった。

 双子の父親は侯爵家に戻ることを良しとせず、ロンドン郊外の学生街でひっそりとカフェを営むごく普通の庶民となった。

 それが、愛子の初恋の相手であり、ヒカルとミスズの父親である。

 しかし彼にはすでに婚約者がおり、愛子が横恋慕する隙も無いほどの熱愛ぶりで結婚し双子をもうけた。

 双子の父親は美しい人で、物腰柔らかなカフェの店長だった。彼自身が日本人の母親を持つハーフであり、彼は日本から連れて来た少女を伴侶に望み、そのまま結ばれたのだ。

 当時の事を思い出すだけで心臓が痛くなるほど鼓動が速くなる。

 あの人は見ているだけでも気が遠くなるほど魅力的で、言葉を交わせば恍惚の余り倒れそうだった。どうにかして、自分に振り向いて欲しくて手練手管を試してみたこともあったが、彼の心が変わることは一度も無く、愛子のアプローチに毛ほども動揺することは無かった。

 彼以外の人と火遊びの一つや二つはあったけれど、本気になれることは一度も無く、彼に未練を残したまま過ぎゆく日々だった。叶わぬ思いだとわかっていても、妻や子供がいても、どうしても諦められず、ずっと思い続けて、思い続けた、ある日。彼は、若い妻と同時に突然死んでしまったのだ。

 双子はまだ8歳だった気がする。

 彼の家庭に、理由を付けては通い詰めていた私に、双子はとても懐いていた。

 彼の子供だと思うと可愛く思えて、いつも可愛がっていたせいだろう。お土産におやつを買って行ったり玩具を手渡して日がな相手をしたりしていたのだ。

 幼い頃の双子は、二卵性とは思えないほどそっくりだった。金茶の髪に青い眼も同じだったのだ。二人とも、日を追うごとに、父親によく似てくる。

 ヒカルだけが黒い髪と黒い瞳になったのは、引き取った後にかかった熱病のせいだ。服用した薬の副作用で、髪と瞳の色素に異常が生じてしまったらしい。

 彼らの父親は、侯爵家に入ることを望まなかった。きっと子供たちが侯爵家の世話になることも望まないだろう。

 同じロンドンに、双子にとって大叔父に当たる親戚がいる。心療内科医であるその親戚が引き取る話も出たが、私は双子を引き取りたいと自ら言い出したのだ。あの人の忘れ形見を、誰にも渡したくないと思ってしまった。

 裁判でも起こされれば私に勝ち目は無かったのに、侯爵家も、親戚も、快く私が引き取ることを了承してくれた。そして、なにかあったらどちらも頼る様にとまで言ってくれたのだ。

 そういう流れになったのは、不思議に双子自身が、私の元へ来たいと言ってくれたからである。

 突然両親を亡くして不安と悲しみでいっぱいだった二人は、私と一緒に行きたいと言ってくれたのだ。血の繋がりのある親戚よりも。



 だから、二人とも実の両親の事はちゃんと覚えているし、私が養母であることもわきまえている。

 一緒に暮らし始めたばかりの頃は『ママ』とは言わず『アイコ』と呼ばれていたのだけれど、いつのまにか『ママ』になっていて、嬉しくて枕を濡らした夜もあった。

 二人を引き取ってからは育児と仕事の両立に追われる日々で、気づいたらもうアラフォーだったのだけれど。

 バスルームでメイクを落としてから湯船に浸かる。それがゆっくりと一人で出来るようになったのは三年くらい前からだろうか。

 両親をいきなり亡くしたせいなのか、双子は家にいる間、中々私を一人にしてくれなかった。15歳くらいまでは、入浴も一緒だったのだ。

 浴室の鏡に映った自分の顔をみてため息が出る。若い頃はそれなりに美人と言われたものだが、小皺が増え、シミも増えて隠しきれなくなってしまった今は、当時の自信など微塵もない。忙しい毎日のため、太り過ぎることは無いが、それでも身体のあちこちがたるんできているのも否めない事実だ。体力が著しく落ちた。子供達より早く寝なくては体がもたないのだから。

 そんな風に、『女』を捨ててしまった自分に、今更恋人とか、有り得ない話である。

 私の中の『女』は、彼が亡くなった時に一緒に消えてしまったのだ。

 今の私は、双子の母親。それだけで充分だった。

 それにしても、7歳やそこらでヒカルは知っていたのだろうか。自分が彼の父親に片思いしていたことを。

 だとしても、とっとと忘れて欲しい。

 とっくに『女』を捨てた私だけれど。それでも、息子には指摘されたくない過去の傷くらいあるのだから。

 


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