4-4 赤色

 その日も今まで通りに新たな色をゴーグル越しに見た。それはいつも五人が集う部屋の床に敷かれた布の色だった。


「いろんな色見たのになんでか忘れてたね。これさえ見ればこの世にある色はほぼ制覇したんじゃないかなあ。これはねえ、ヒーローカラー、主人公カラー! だよ!」


 高らかに両手と声を上げるリンさんに私たちは笑った。なんで笑うのと聞くリンさんもケラケラと笑った。普段となにも変わらない、平穏な光景だった。


 一頻り笑った後、リンさんの手がゴーグルに伸びてきて私は目をつむった。


 カチカチと鳴っていたダイヤルの音が止み、私は瞼を開いた。初めて目にするその色は赤色。私の足元にある布は確かに未知だった色をしていた。しかし――


 知っている。こんな色なんて知らないはずなのに、知っている。いや、忘れてはいけない――


「ねえねえ、どう? 赤色は」


 誰かがそう言った。誰だろう。それとも何かの音だろうか。全ての音がぼんやりと霞んでゆく。


 ああ、胸騒ぎがする。じわりじわりと私を喰っている。この感覚も、私は知っている。笑い声を受け入れようとした時と同じだ。


 じわ、じわ、じわ、じわ。


 あの時は酷く気持ち悪かった感情が今再び胸の奥でうごめいている。でも今は、むしろ心地がいい……。


 にじむような違和感は右目の奥まで這い上がってきた。その感覚にぼうっとしたままの私だったが、突然それは鋭い痛みに変わった。


「痛ッ?!」


 声を上げ、思わずゴーグルの上から目元を押さえる。痛みは一瞬で消え去ったが驚いて上げた自分の声が意識を片足分だけ現実に引き戻した。私を取り囲む音が少しだけ聞こえ始める。


「だ、大丈夫?! ごめん、色を見る練習はうまくいってるって気を抜いてた……! もう少し慎重になるべきだったんだ……」

「大丈夫ですか?! どこか体におかしなところはありませんか?」


 ゆっくりと視線を上げると三つ編みの少女が視界に入った。こちらをじっと見つめている。誰だろう……?


 私は椅子から立ち上がった。一歩、また一歩と少女に近づいてゆく。杖を持たずに歩いたことなどしばらくないのに、ふらふらとしていながらも確実に歩みを進めることができた。


 他が固唾を飲んで私を見守る中、三つ編みの少女だけは私に近づいて両手を差し出してくる。



 あぁ……、




――殺さないと。




 目に映る少女の輪郭が変化した。それはもはや人の形には見えない、四つ足で立つ大きな黒い生き物だった。自然と笑みが溢れた。こんなところにもいたのか。武器がない今なら、この手でーー


「チ、ホさ……」


 聞き慣れた、しかし苦しそうな声で呼ばれた名前で私は我にかえった。あれ、今私はどこで、何をして……?


 ああ、そうだ。いつもみたいに新しい色を見ていたんだ。それならなぜ今私は立っていて、腕を前に伸ばしてるんだろう。

 私は自分の腕を伸ばしている先を目で辿った。


 そしてようやく、私がアヤちゃんの首に手をかけていることに気づいた。


 声を出すこともままならないまま、しかし私は急いで手を離した。


 わけが、わからない。どういうこと? なぜアヤちゃんの首を? 赤色を見て思考がおかしくなった? あの大きな四つ足の生き物は何だったんだ。「武器がない今なら」?



――「殺さないと」?



 

「チホちゃんっ!」


 リンさんの上ずった声が部屋に響いた。自分の思考に理解ができないでいる私は現実に意識を引き戻される。


 いつの間にか私は床に座り込んでいた。気が抜けたからか、あるいは杖を使わずに無理やり立っていたからかもしれない。


 リンさんがそっとゴーグルに手を伸ばし、ダイヤルを触った。見える色彩をモノクロに戻したようだ。そして困ったように笑った顔をして、私をのぞき込み話しかけてきた。


「大丈夫だよチホちゃん。私たち《ハーフ》は首絞められたくらいじゃダメージ一つも受けないから。呼吸はおまけみたいなもんだし」

「おい、リン」

「さっきのアヤちゃんみたいに声は出にくくなるかもだけどーー」

「リン!!」


 ケイさんは怒鳴って話を遮った。リンさんは黙って私から離れ、ケイさんはアヤちゃんに椅子に座るよう声をかけた。俯かせている顔をあげないまま、三つ編みの少女は座った。私の方を見る素振りはなかった。怖い顔をしたままのケイさんは何も言わないマルさんが座る隣に腰を下ろした。


 違う。こんな、笑顔のない時間は、違う。頭の中で今までの思い出が浮かび上がる。冗談を言って小突かれるケイさん、無茶を笑い飛ばすリンさん、優しく私に寄り添うアヤちゃん、話を聞いていそうでいて眠りこけているマルさん。絶えない笑い声。笑顔。


 

 それを壊したのは、私だ。



 床に転がっている杖を手に取り、私は立ち上がった。色のない廊下にを出て、自分の部屋の戸を開いた。リンさんが呼ぶ声がした気もしたが、私は振り返ることなく戸を閉めた。




 

 どれくらい時間がたったのだろう。私はずっと膝を抱えて座っていたが、ノック音が背に当たる扉から突然響いてきた。ビクリと体を震わせて扉を見つめる。


「チホちゃん、大丈夫?」


 扉越しにリンさんの声が聞こえる。私を窺う声。


「……大丈夫です」


 相手に聞こえるのかどうかもわからないか細い声で返事をすると、深いため息が聞こえた。


「よかった、部屋の中で落ちてたりしたらどうしようと思ってたんだ。もう外は真っ暗なんだけど、空は観に行く?」

「……行けないです」


 今は誰にも合わせる顔がない。体もひどく動きが鈍く、立つ気力も湧かない。行きたくないのではなく、行けない。そう思った。


「そっか。うん、じゃあ今日は行かないでおこう」


 リンさんの声からは感情が一切汲み取れなかった。


「チホちゃん、ゴーグルの話だけしてもいい? 一通り色は見れたから使い方の話をしようと思って。聞いていてくれる?」


 私の返事を待つことなく、リンさんは話し出した。今まで通り、色はダイヤルを回して調節すること。ダイヤルを回す際はできる限り目を閉じること。ゴーグルの脱着は見える色をモノクロに戻してからすること。


「もう全ての色がチホちゃんのものだからゴーグルは自由に使ってね。見たくないものは見なくていいし、見たいものは存分に見ればいい。もともとは見えないはずのものだからね」

「はい……」


 リンさんは私の部屋に入って来ようとはしなかった。ただ扉の向こうから話しかけてくる。それだけだった。


 おやすみ、と夜の挨拶をしてリンさんは扉の前から去った。しかし、その後もしばらく私はベッドには入らなかった。床に座ったまま、ぼんやりと考える。


 私たちの、5人の日常を壊したのはやはり私だ。あの色を見て、私自身も知らない私になった。落ち着いて思い出してもわけが分からない思考、行動。


 リンさんは「《ハーフ》は首を絞められても大丈夫」と言っていたが、厳密には私の目に映った4つ脚の生物ーー実際はアヤちゃんだったわけだがーーの首を締めていたわけではない。その首を、頭を、体から引きちぎろうと考えていたのだ。頭が取れて大丈夫なものなどはいないだろう。


 そんなことをしておいてアヤちゃんと、4人と今まで通り平穏に過ごすことができるとはどうしても思えない。もう昨日までの5人には戻れない。


戻れない……?」


 ああ、そうか。


 私がいなくなればいいんだ。


 簡単すぎる解決策に私は思わず笑ってしまった。私はもともと旅をしてきたのだ、ずっと、ずっと。そもそもここに留まっていることがおかしい。早く旅に戻らないと。問題だった脚も杖があれば不自由なく歩けるじゃないか。


 気持ちが軽くなって立ち上がった私はふと、リンさんに言われた言葉を思い出す。


《今のあなたの原動力は『旅』を続けることになってしまってる。でも、実際はその旅の目的自体が原動力にならないといけいない》


 旅の目的がまだ不明なままだったことに気づくが、もうそんなことでうだうだと悩んだりはしない。思い出せないなら作ればいい。そうだな、それなら――


「四人を傷つけないよう、四人が平穏に暮らせるよう、遠くへ行く」

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