4-2 夜空2

 空を見上げた私は開いた口を閉じることができずに声を漏らした。


「……な…………に、これ……」


 目を開く前の決意はどこへやら、目に映る景色に私は酷く驚いてしまったのだ。しかしその驚きは初めて色を見たあの日のような混沌としたものではない。


 私の目に映った夜空は、今まで見てきたものよりもずっと濃く、深い色をしていた。均一に塗りつぶした黒ではなく、無限を感じさせるような深い色だった。


 今まで見てきた色と異なっていたのは空の色だけではない。空に無数に散りばめられた星の色もだった。星たちはただの白い粒の群れではなく、一つ一つが少しずつ異なる色を帯びて輝いている。星がこれほどまでに光を放つものだとは今まで思ってもみなかったことだった。


 一人で旅をしていた頃、何度も見上げた夜空。夜空の下、砂漠に身を預け眠った夜も多くあった。それはいつも、いつでも同じ、黒い天井に白い点が無作為に並べられたような無機質なものだった。しかし、今私が見上げる空は……


「……すごい………………」


 空を見上げたままの私は隣に座るリンさんの声を聞いた。


「よかった、きっとチホちゃんが今まで見てきた夜空と色のある夜空の色とは違うだろうなと思ってさ。正解だったみたいだね」


 確かにリンさんが話しているのは聞こえていたが、その内容はまるで右から左に抜けてゆくようだった。それほどまでに私は夜空に心を奪われていた。


 いつまでも星空を眺める私の耳にようやくはっきりと聞こえたのはケイさんとマルさんの声だった。


「ほらマル、チーちゃんにこう言う景色をどう表現するのか教えてあげてよ」

「……僕もまだよくわからないけど、綺麗とか、美しいとか、感動するって言うんだってケイたちが教えてくれた」


 綺麗……。私の知っている「綺麗」は原型を留めた建物や歪みのない椅子、アヤちゃんが運転するような整備の行き届いた車を表す言葉だった。でも今この夜空を表す「綺麗」は決してそんな意味ではない。私の知らない「綺麗」だと、そう思った。


「これが、綺麗……。この夜空にこんなに心奪われるのは、この空が綺麗で、美しくて、私が感動してるから……」


 私は夜の砂漠の空気を胸いっぱい吸い込んだ。背中を砂漠に預けるように寝転び、満天の星が瞬く天井を見上げ続けた。


 砂漠に横たわるなんていつぶりだろう。毎日歩いて旅をしていた頃がとても懐かしく感じる。その懐かしさは夜空の美しさと重なり、とても心地よい感情を生んだ。今までで一番穏やかな時間を過ごしていると感じ、思わずため息を漏らす。


 いつしか私は目をつむっていた。不快な笑い声もノイズも聞こえない中で星空に心を落ち着かせたせいか、それはとても自然なことだった。まぶたの裏にもまだはっきりと夜空が見える。名前も知らない色をした小さな星たちがキラキラと輝く。苦しいこと、辛いこと、悩んでいることが浄化されていくような気分だった。


 眠りに落ちるような感覚を覚え始めた頃、突然頭のどこかでぶつん、という音が聞こえた。それが眠るより先に充電が切れたことを告げる音だったと私が知るのは次の日の朝だった。

 




「……ね、チホちゃん」


 リンはチホの頬を撫でて呟いた。怪訝そうな顔でケイが尋ねる。


「は? 落ちた?」


 砂漠から腰を上げ、砂を払いながらリンは答えた。


「私たち《ハーフ》の充電がなくなって、活動停止状態になったときのことよ。眠りに落ちる、電源が落ちる、のね。今日はチホちゃんいろいろ辛かっただろうから早く落ちるのも無理ないよ」


 座ったままのケイはリンを見上げて聞き返す。


「そんな言葉聞いたことないぞ?」

「私が作った造語だもん、そりゃ知らないでしょ」


 ケイは附に落ちないという顔をしていたが、リンは話題をチホに戻した。


「なんでチホちゃんがあんなに苦しんでまで笑い声の正体を知らないといけないとか、旅に戻らないといけないとかって思っているのか、それが私にもまだわからない。でもあそこまで精神面が弱ってる今は無理をしたらいけないのは確実」


 アヤがリンに歩み寄り、彼女が取り切れていない砂を払いながら尋ねた。


「つまり、色を見る練習の一環として星空を見せたのはチホさんの気を紛らわすため……ということですか?」


 困ったような、虚しさを感じているような顔をしてリンは頷いた。


「何のしがらみもない私たちでさえ暴走してしまう時がある――身体的にね。じゃあここまで追い詰められたチホちゃんが、本人の体の不調ではなく、私たちと出会った日みたいに無意識に体が動いたり、あるいは暴れ出したりしてしまったら……って考えると、今は気を逸らして精神面を回復させるのが優先事項だと思うの」

「それはチーちゃんの ”目的を思い出して旅に戻りたい”って思いを裏切ってるんじゃないのか? 今チーちゃんは自分で身動きが取れない……すべては俺たち次第なんだぞ?」


 ケイの問い掛けにリンは声をつまらせた。実際のところは彼が言った通りだったらしい。しかしどうにか気を取り直したリンは再び説明を始めた。


「……ケイから聞いた部隊名に引っかかったチホちゃんは攻撃特化型の可能性が高い。剣か刀か、物で攻撃するタイプだったあんたと違って、チホちゃんはまだ未知数。チホちゃんが暴走したときの私たちへの被害が無いとも考えられないのよ」

「……」


 ケイは黙って俯いたまま何も言わない。何かを思い悩んでいるように見えた。


 しかしケイはどれだけ時間が経っても顔を上げない。不審に思って近づいたリンは驚いたように叫んだ。


「ちょっと嘘でしょ、なんであんたまでるの?! あんな鋭い質問しといて?!」

「あはは……」


 落ちてしまったケイの頬を引っ叩いてプンスカと怒るリンを見て、アヤは半分呆れながら、しかしこれがいつも通りの光景だとどこか安心しながら笑った。リンがチホの話をしながら何か別のことに想いを巡らせている顔をしていたのは気のせいだったのだと自分に言い聞かせ、車を動かす準備を始めた。

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