3-10 夢がもたらしたもの

「……っ!!」


 目を開いた。酷く乱れた呼吸が朝の空気を取り込み、吐き出す。私は軽くむせながら枕元にあるはずのゴーグルを探す。自分の腕を酷く重く感じながら手を動かした。


「あっ」


 しかし見つけたゴーグルは手に当たり床に落ちてしまった。まだ一人で移動ができない私はゴーグルを手に取ることを諦めた。ベッドに横たわったままなのに頭がくらくらして仕方がない。


 いつまで経っても呼吸と気持ちが落ち着くことはなかった。ナイフで記憶を呼び起こしたときにも聞いたあのノイズが、あの狂った笑い声が耳にこびりついて離れない。笑い声に至っては耳の奥で私を嘲笑っているようだった。


『あっはははははははは!』

「……っ! げほ……っ、っぐ、も、う、聞きたく……ない……!」


 声は焦燥感とも、恐怖ともわからないものを私の中で膨らませた。おさまらない荒い呼吸に咳き込みながら私はきつく目を閉じ耳を塞いだ。しかし笑い声は止まず頭の中で響き続けた。


 なぜ今自分の気持ちがここまで動転しているのかはわからなかった。顔を歪ませ浅い呼吸を繰り返していると、耳を塞ぐ手の向こうから部屋のドアが開く音がした。


「チホちゃん、起きてるー? あれ、ゴーグル床に落ちてる」


 リンさんの声だ。私の元に歩み寄ってくる音がする。


「え、チホちゃん……?!」


 リンさんは床に落ちていたゴーグルを拾い、私に付けた。リンさんは驚いているような表情で私を見つめいた。私はぐらぐらと安定しない体を起こし、落ち着かない気持ちを吐き出すように夢で見た内容を話そうとした。


「リンさん、私起きてから何だかおかしくて……! 夢で、お母さんが倒れていて、誰かがきっと襲ったんです、そしたらあの音と笑い声が!」

「……チホちゃん」


 肩を強く掴まれた。リンさんは真剣な顔で私の目を見つめている。


「わた、私、何だか気持ちが落ち着かなくて……、怖い……というか……!」

「チホちゃん、一回大きく息吸って、吐いて。ゆっくりでいいから……大丈夫だよ」


 リンさんの指示に私は小刻みに頷いた。つっかえながらもなんとか一度深呼吸をすると幾分か落ち着いた。もう一度長く息を吐きだした私を見てリンさんは優しく微笑んだ。


「よし、ちょっと落ち着いたね」

「すみませんでした、取り乱して……」


 私の声にリンさんは頭を横に振った。そしてゆっくりと私の足元を指差す。条件反射で私はその指の指す先を追った。


「……はっ?!」


 私は思わず素っ頓狂な声を出した。リンさんが指していたのは私の左脚。寝る前までは力も入らず、ピクリとも動く気配のなかった両脚のうちの左脚がベッドの上で膝を立てていたのだ。





 なぜか左脚が動くようになった私は車椅子に押されながらリンさんと共に外へ出た。毎朝必須の充電である。


 朝日を浴びながら左脚を動かしてみる私を見てギョッとしたケイさんとアヤちゃんは何か言いたげな顔で私に迫ってきた。


 しかしリンさんはその二人をぺいっと押し返した。近寄るなと言わんばかりに私の前で両手を広げ、二人を私から遠ざけようとする。


「私がチホちゃんの部屋入ったら左脚だけ戻ってたの。本人もさっき気づいたばっかなんだから、今はそっとしといてあげて!」


 リンさんの向こうでしゅんとしぼんでいる二人に私は慌てて声をかけた。


「いえ、あの全然話しかけてください! むしろその方が気が紛れるというか……」


 しぼんだままの二人は私の言葉に首を傾げたが、リンさんはすぐにわかったようだった。


「それって夢のこと?」


 私は頷き、起床した時よりも落ち着いて夢で見た内容を語った。そして耳にこびりついた笑い声が今も隙あらば私を脅かしていることも伝えた。


「夢の最後で聞こえたというノイズも声も、チホさんがナイフを使ったときに思い出したもの……でしたよね」

「うん。なのに、どうして今になってこんな……まるであの時みたいに……体がおかしい……」


 再び両手が小刻みに震え、呼吸が徐々に乱れる。これはリンさんに旅の目的を尋ねられたときと同じような現象だった。異なるのは頭の中で響く、思考をかき乱すような笑い声。


 混沌とした脳内に体がぐらりと揺らいだとき、アヤちゃんが私の手を取った。はっとして顔を上げるとアヤちゃんは励ますような目で私をじっと見つめていた。


 腕を組み、あくまで推測だけど、と前置きをしたリンさんが口を開いた。


「ナイフ使ったときに思い出したものだし、その笑い声もノイズも何かの記憶と繋がっているんだろうね。でもそれが今チホちゃんを苦しめているならそれを無理矢理に辿って思い出させることはしたくないし、しない方がいいと思うんだ」


 一度言葉を止め、声のトーンを落としたリンさんは普段の奔放さを隠した気弱な声で付け加える。


「記憶装置……ナイフの前例もあるから下手な無理強いはしたくないし……」


 リンさんの声とアヤちゃんのぬくもりは笑い声をも少しずつ遠のかせた。どうにか喉から声を押し出し、私は可能性の話をしてみる。


「でも……、もしも……この笑い声と、旅の目的が繋がっていたら……」

「……!」


 アヤちゃんが息をのむ音をたてた。もしこの恐怖と向き合わなければ過去の記憶を、旅の目的を思い出せないのだとしたら、笑い声を忘れようとすればするほど旅に戻る日が遠ざかってしまう。


 知りたくて仕方がない旅の目的と、得体の知れない不調。かもしれないという仮定ではあるが旅に戻る日までの距離を感じ、私は不安を覚えた。


 しかし、驚いたことにリンさんは私の暗い声に笑顔で返事をしたのだ。


「確かにその可能性は大いにあるけどー……、もう一つさ、旅に戻るために大切なことがあるんだけど、チホちゃん忘れてない?」


 その言葉とともに、白く眩しい太陽の光がリンさんの向こうから差してきた。思わず目を細める私をリンさんはふふ、と笑ってから、立ち上がって足踏みをして見せた。


「脚だよ、脚。チホちゃん、ついにこの日が来たね! 夢のおかげで頭が足を動かすことを思い出したんだよ!」


 熱弁するリンさんの勢いに引き気味の態勢をとる私に、ケイさんは申し訳なさそうな顔を向けた。そんなことに気づくわけもなく、リンさんはずいずいと私に迫り、嬉しそうに言った。


ができる! 先にさ、そっちしよう!」

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