LOOSEN CODE(ルースン・コード)

緋崎水那

着物と絵師∽欠片犯罪

着物と絵師∽欠片犯罪/1

 世間で新生活という言葉がおどる春。


 神曲町かみまがりちょう、喫茶店『まごころ』。時刻は午後三時。

 カランカラン、ドアベルが小気味よい音を鳴らした。

 そのドアベルは至福の時を告げるもの。


「いらっしゃいませ!」


 黒エプロンをつけた身につけた青年――心埜こころの好輝こうきは快活な声で客を出迎える。

 入ってきたのは、着物がとても似合っている可愛らしい美女。年齢はたぶん好輝とそれほど変わらない。ミディアムヘアの明るい茶髪、巴旦杏色アーモンドいろの瞳。今日は白い波状の模様が入った橙色オレンジいろの着物に桜の模様が入った濃緑のうりょくの帯を締めている。彼女の名前は七星ななせ。初めて彼女が来た時、店長でもある伯父が「七星ちゃん、ひさしぶり」と声をかけていたので名前だけは知っている。彼女はいつも隠れるように店の奥にあるテーブル席を選んで座る。この席はガラス越しに外から覗いても気づかれない。いわゆる死角席だ。


「ご注文は?」


 常套句とともに、水とおしぼりを差し出す。

 彼女はメニューを手に取ることなく言った。

「サンドウィッチとカフェラテを」

 好輝は注文を繰り返して、伝票に書き込む。


「以上で?」


 確認なんて本当は必要ない。彼女は常にサンドウィッチとカフェラテの一択。一度、思いきって「パフェとパンケーキはいかがでしょう?」と言ってみたこともあるが、結果は言わずもがな。だが、そんなことはどうでもいい。今日も彼女は美しいのだから。

 カウンターにいる伯父に注文を通し、もう一度七星を見つめる。やっぱり可憐だ。同年代であんなに着物を着こなせる人は、他にいないだろう。


(……そういえば、なんで毎日来るんだろ?)


 ふと疑問に思った。学生ならサボリや不登校ならともかく、こんな時間に来られるはずがない。彼女も好輝のように大学には行かず働くことを選んだのだろうか。もしくは病気がちなど、のっぴきならない事情があるのか……。

(……まさか!)

「――おい」


(実は、おれ目当てとか?)


「おい!」

(やべっ! もしそうだったら、どうしよう!)

 口元が思わず綻んだのと同時に、ボカンッ! 頭に鈍痛が走った。

 店長もとい伯父である心埜こころの誠次せいじのげんこつが、好輝を愉快な妄想から現実へと引き戻す。

「七星ちゃんの注文できたぞ! ぼーっとする暇があるんなら、さっさと運んでこい!」

「ふぉ、ふぉい……」

 頭の痛みを堪えつつ、好輝は注文の品を運ぶ。

「お待たせしました。――いてて」

 最後のほうは聞こえるか聞こえないかの声だったはずなのに、


「――だいじょうぶ?」


 声をかけてきた彼女は心配そうに好輝を見ている。頬がかっと熱くなった。

「だ、だいじょぶです! す、す、すみませんっ!」

 声もひっくり返った。

「ご、ごゆっくり! ど、どど、どぞ……!」

 半ば逃げるように、カウンターへと引っ込む。

(落ち着け、落ち着け!)

 彼女の目を初めてまっすぐに見た。吸いこまれそうな瞳だった。

 心臓がばくばくだ。

(そ、そうだ! 洗い物でもするか……)

 気分を落ち着かせようと、震える手をシンクに伸ばす。ただただ無心に食器を洗い続けていくうちに、平常心が戻ってきた。ついでに、頭の痛みも引いてくる。

 ふと、七星が座っているはずの席を見た。


(あ、あれっ?)


 目を疑った。彼女の姿がどこにもない。

「二五〇円のお返しね」

 誠次の声にレジを見る。七星はすでに会計を済ませ、おつりを受け取っている。

「今度、みんなも連れておいで。待ってるから」

「はい。ごちそうさまでした」

 そう言って、七星は店を出て行ってしまった。


(うわああぁぁっ!)


 心の中で悲鳴を上げる。


(せっかくのチャンスだったのに!)


 好輝はと誠次をにらみ、行き場のない怒りをぶつけるが、伯父は素知らぬ顔で「マスター」という呼びかけに、「はい」とにこやかに答えるのみだ。

 注文の際、客はいつもと様子がちがう好輝を心配してくれたようだったが、当の本人はそんなこと、どうでもよかった。

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