6. 逃走


 ケイの行動は早かった。


「クソッ!」


 毒づきながら、足元の焚き火を蹴り飛ばす。焚き木の炎が散らされ、辺り一面を暗闇が覆い隠した。


「アイリーンっ」


 素早く駆け寄り、抱きかかえ、転がり込むようにして廃墟の石壁の裏に身を隠す。


 俗に言う"お姫様抱っこ"の体勢――しかし、肝心のお姫様ヒロインの胸に矢が突き立っているようでは色気もクソもない。腕の中にすっぽりと収まるアイリーンの華奢な体は、驚くほどに軽かった。


「しっかりしろ」


 ささやくようなケイの呼びかけに、アイリーンは答えられない。苦悶に顔を歪ませて、ハァッ、ハァッと浅く短く呼吸を繰り返している。手の平を這う、ぬるりとした血の感触に、ケイは顔を青褪めさせた。


 ――失敗した。


 焚き火の明かりを隠すため、こうして木立に身を潜めていたが――その考えが甘かったということが、最悪の形で示されてしまった。


(ゲームの中でさえ、警戒が必要だったっていうのに……!)


 盗賊NPC、火を恐れない夜行性のモンスター、あるいはPKプレイヤーキラー。夜に、しかも少人数で不用意に目立つ行為は、ゲーム内ですら危険だった。


 


 せめてもう少し、草原側にも目を向けていれば、とケイは己の迂闊さを呪う。アイリーンは『視力強化』の紋章を刻んだケイほどは夜目も効かないし、"受動殺気パッシブセンス"にも長けていない。最高レベルの視力、弓という遠距離攻撃の手段、そして殺気に対する感受性。それらを兼ね備えたケイこそが、警戒役を引き受けて然るべきだった。


 少なくとも、暢気におしゃべりを楽しんでいる場合ではなかった――


 ぐらぐらと視界が揺れるような感覚と共に、自責の念に押し潰されそうになるが、


「う……ケ、イ……」


 腕の中、額に脂汗を浮かせたアイリーンが小さく呻く。それを見て、ぐるぐると渦巻いていたケイの頭の中が、すっと冷えた。


(――今は、どうするかだ)


 時間が惜しい。思考を切り替えた。




 そっと壁の陰から頭を出して、辺りの様子を窺う。焚き火の光が失われた今、夜の木立は僅かな星明かりに照らされるばかり。それは、ほぼ暗闇に等しい空間であったが――強化されたケイの瞳は、そこに潜むものを鮮やかに映し出した。


(三人、……五人、いや六人。見える範囲でこれか)


 草陰にうずもれるように蠢き、徐々に距離を詰めようとする人の影。壁の死角も考慮すると、伏兵があと二、三人はいると見ていい。完全に囲まれていた。


 この襲撃者が何者なのか――ということは、この際おいておく。


 重要なのは、連携する程度に知性があり、弓矢を保持した人型生物に包囲・攻撃されている、という事実だ。


「……Oй……Пoчe……y……」


 細かい震えを起こしながら、アイリーンがうわ言のように呟く。よく聞き取れず、意味は分からなかった。ぼんやりとした目つき、焦点が合っていない。暗がりで見えないが、顔色も悪そうだった。


「喋らなくていい、じっとしてろ」


 耳元に囁きながら、どうするべきかを考える。



 ――決断は、早かった。



「ミカヅキ、サスケ、来い」


 呼びかけに、ぶるるっとミカヅキが答える。アイリーンの傷に障らないよう慎重に、しかし素早く、ケイはミカヅキに跨った。


「アイリーン、ちょっとの辛抱だ。耐えてくれ」


 ケイの言葉は届いたのか。アイリーンは小さく何事かを呟きながら、曖昧に頷いた。


「行くぞッ!」


 ミカヅキの横腹を蹴る。果たして褐色の馬は、いななきの声ひとつ洩らさずに、滑るようにして走り出した。


「馬だッ」

「逃げるぞッ!」


 壁の裏から飛び出したケイたちの姿に、伏せっていた襲撃者たちが立ち上がる。


 カヒュカヒュン、と弓の鳴る音。


 ケイの顔が強張る。咄嗟に手綱を引き、ミカヅキの進路を横にずらした。


 唸りを上げて、一瞬前までケイの胴があった空間を、黒い矢羽が引き裂いていく。


(やってくれるッ!)


 少なくとも一人は、腕のいい弓使いがいる。振り返れば、黒い革鎧を装備した男たちが、手に手に武器を振り上げて騒ぎ立てていた。


 ケイは手綱を操り、木立の間を縫うようにしてジグザグに不規則機動を取り始める。生い茂る木々が障害物になったこともあり、襲撃者たちの狙いに迷いが生じたらしい。追加で放たれた矢はどれも見当違いの方向へと逸れ、虚しく木の幹に突き刺さる。


 見た限りでは、騎乗生物の影もない。――逃げ切れる、とケイは確信した。


 そのまま木立を抜け、草原を東に突き進む。


(……さて、となると治療だが、どうしたものか)


 ケイは心配げに腕の中の少女を見やった。馬の揺れに耐えるように、苦しげに眉根を寄せるアイリーン。


 右胸の矢傷。辛うじて動脈の位置からは逸れているものの、鏃の形状によっては血管が傷ついている可能性もある。少なくとも肺に穴が開いているのは確実だ。このままでは呼吸もままならない。また、これだけの傷を抱えたまま馬に揺られるのは、お世辞にも体に良いとは言えないだろう。


 しかし、先に治療するという選択肢はなかった。


 確かにポーションを使えば、傷そのものはすぐに完治するかもしれない。だが、先ほどの手の平の傷を治した際の苦しみ方を考えると、これほどの重傷を治療した場合、すぐに復帰するのはおそらく不可能だろう。最悪、痛みで気絶してしまう可能性すらある。


 治療中は完全に無防備。その後も、気絶したアイリーンを庇いながら戦う羽目になるかもしれない――そういった諸々を考慮すると、おのずと安全な選択肢は限られていく。


 すなわち、逃げる。


 周囲の地形は既に把握済みだ。このままミカヅキに駆けさせていれば、追っ手は完全に撒けるはず。ある程度進んでから、アイリーンに治療を施して再び距離を取ってもいい。


 もしくは、容体が安定したところでサスケにアイリーンを任せて、ケイが単独で遊撃に回るという手も――



「バウッ、バウッ」



 と、背後から響いた獣の鳴き声に、ケイの思考が妨げられる。


 弾かれたように振り返れば、地を這うように駆ける、三つの大きな黒い影。


「――"狩猟狼ハウンドウルフ"!」


 黒色のぼさぼさとした毛並み、ぴんと尖った耳に、星明かりの下でも不気味に輝く両眼。首にはめられた革の首輪が、野生ではなく調教テイムされた個体であることを示す。



 ハウンドウルフ。別名、"黒き追跡者ブラックシーカー"。



 ゲーム内で、攻撃補助用のペットとして、非常に人気の高かったモンスターだ。その凶暴性から調教が難しく、手懐けるのは至難の業とされていたが、一度懐けば従順になり、決して主人を裏切らず、あらゆる局面で有能に立ち回る。


 大柄な体躯、それに見合わぬ俊敏さ、底知れぬスタミナに、高い攻撃力。


 そして何よりも恐るべきは、そのだ。


 狼としての嗅覚をフルに生かし、どこまでも執拗に獲物を追い続ける。馬の駆け足程度の速さならば一晩中でも走り、三十分ほどならば馬の襲歩にすら追随が可能。


 例え地の果てまで行こうとも、『臭い』が残っている限り、彼らから逃れる術はない。ハウンドウルフが自ら追跡を止めるのは、主人の笛に呼び戻されたときか、獲物の喉笛を喰い千切ったときだけだ。



 そんな、死神の先駆とでもいうべき黒き獣が――三頭。


「……こいつは、」


 厄介だ。ケイは思わず舌打ちした。じりじりと距離を詰めながら、狼の群れがそうするように、散開し追い立ててくるハウンドウルフ。時折、三頭のうちいずれかが足を止めて、夜空に遠吠えを上げている。そうやって『獲物』の位置を知らせるよう、訓練されているのだろう。


 一瞬前までは気楽な逃避行だったのが、今や手に汗握る狩猟劇に様変わりだ。しかも、ケイは『狩られる』側――後ろを走るサスケも、怯えの色を見せている。


「クソッ、弓さえ使えりゃな……」


 左腕にアイリーンを抱きかかえたまま、狼たちを睨み、ケイは忌々しげに毒づいた。


 平素であれば、弓騎兵のケイにとって、ハウンドウルフは恐るるに足る相手ではない。

馬型の騎乗生物の中で最高性能を誇るバウザーホースミカヅキを駆り、百発百中の弓の腕前をもってすれば、ハウンドウルフなど足が速いだけの『的』にすぎない。むしろ、図体がデカくて逃げない分、草原の兎より仕留め易いぐらいだ。


 が、今はアイリーンで片腕が塞がっている。先ほどから色々と試みているのだが、ぐったりとした彼女を腕無しで支える術がない。ゲームでは常に弓で戦ってきたケイにとって、この状況は想定外と言ってよかった。


 仮に、これがゲームであれば、ケイは即座にアイリーンを放り出すだろう。


 地面に激突した衝撃で死ぬかも知れないし、もしくはハウンドウルフに食い殺されるかも知れない。しかし、その隙に弓を使えば、一瞬でこの黒い獣どもを殲滅できる。


 その後で――生死を問わず――アイリーンをし、治療するなり拠点で再受肉リスポーンさせるなりすればいい。それならば能力低下デスペナ所持品紛失アイテムロストも免れる。なんのデメリットもない。


 しかし、それが現実となると――。


(放り出すわけにはいかないよな)


 腕の中、馬の揺れに耐えるように眉を寄せるアイリーン。


 か弱い少女を捨て置く、ましてや馬から地面に投げ捨てるなどと、そんな鬼畜の所業はやれと言われてもできないだろう。


(ここが【DEMONDAL】の世界なら、復活も可能かもしれんが……)


 ゲームにの異世界、という可能性もある以上、無茶はできない。ぶっつけ本番で試すには、あまりにもリスクが高すぎた。




「ウォン、オンッ!」


 吠え声。そうやって考えている間にも、ハウンドウルフたちがじりじりと追い上げてきている。


 全力で駆けるこの黒き追跡者たちは、瞬間的な足の速さにおいて、今のミカヅキを上回っているのだ。


 ゲーム内の馬型の騎乗生物では最高の速度、最高レベルのスタミナ、そして優れた走破性能を誇るバウザーホース――ミカヅキだが、いかんせんこの種族、加重に弱い。パワータイプではなく、スピードタイプなのだ。アイリーンという同乗者が一人増えただけで、最高速がガクンと落ちていた。


「おいミカヅキ、根性出せ! お前の速さはこんなものじゃないはずだ!!」


 無茶言うな、と言わんばかりにミカヅキがちらりとケイを見る。これでも、よく走っている方だ。筋肉の密度が尋常ではないケイは、見かけに比してかなり重い。そこに重量オーバーで同乗者が加わっているのだから、既にいっぱいいっぱいの状態だった。


(……逃げ切るのは無理だな)


 分かってはいたが、改めて悟ったケイの目が遠くなる。そもそも、ここで少々加速したところで、ハウンドウルフの追跡は止まらない。先ほどから、アイリーンが腰の帯に差している投げナイフが、ちらちらと目に入る。


 残念ながらケイは、ナイフ投げが不得手だ。練習したことはあるが、実戦ではまともに刺さった試しがない。


 ましてや今は揺れの激しい馬上、動く目標に投げつけてみたところで、牽制にすらならないだろう。


(……手持ちのカードで勝負するしかない、か)


 腰のポシェットに手を伸ばす。取り出したのは、ウズラの卵ほどの大きさの、鉛玉。


 つぶてだ。


 対人用のお守り代わりに持ち歩いていたもの。全身が分厚い毛皮で覆われた獣には効果が薄いが、無いよりはマシだろう。


「せめて額にブチ込めれば……」


 右手側のハウンドウルフに狙いを定める。あぶみを踏むケイの足の動きから、その意図を察したミカヅキが、やや時計回りに円を描くよう馬首を巡らせた。


 急激に接近してくるケイたちに、件のハウンドウルフは飛びかかって食らいつかんと、走りながら姿勢を低くする。


 そしてぐっと脚に力を込め、まさにミカヅキに牙を剥こうとした、その瞬間。



 ケイは右手を振り下ろす。



 ビッ、と腕が空を切る音。最適化された動作、並はずれた筋力、それらを合わせた礫が至近距離から放たれる。


 野生の動物をして反応する暇すら与えずに、人外の威力を秘めた礫がハウンドウルフの顔面に炸裂した。


「ぎゃんッ!」


 鼻づらに強烈な一撃を見舞われたハウンドウルフは、短く悲鳴を上げてその場にひっくり返る。地面の上で鼻を押さえてのた打ち回る獣の姿が、すぐに後方へと流れて小さくなっていった。


 一頭が戦線離脱――とケイの気が若干緩もうとしたところで、「ぶるるっ」とミカヅキの警戒の声。見れば左手、いつの間にか至近距離まで迫っていた一頭が、こちらに飛びかかろうと既に身構えていた。


(――いかん!)


 礫を取り出すのは間に合わない、と判断したケイの右手が、腰の短剣に伸びる。


 ハウンドウルフが地を蹴るのと、ケイが短剣を引き抜くのが同時。


 いかに俊敏な狼といえど、空中で姿勢を変えることは出来ない。ハウンドウルフの首筋に、ケイは真っ直ぐ短剣を突き出した。


 肉を裂き、短剣の刃が首筋の骨に食い込む感触。ぐぼっ、と湿り気のある音が、狼の喉から漏れる。しかし、明らかな致命傷を受けてもなお、怯む様子すら見せないハウンドウルフは、ケイの右腕に牙を立てようと大きく顎を開いて首を巡らせた。


 その執念、そして闘争心に驚きながらも、ケイは咄嗟に短剣から手を離す。


 喉元の支えを失った黒き狩人は、ケイに噛みつくことはかなわずに、そのまま夜の草原に叩きつけられて事切れた。


「残るは一頭……!」


 後方、追い縋る最後のハウンドウルフを見やり、ポシェットを探る。


 残りの礫は、二つ。


 そのうちの一つを右手に構え、慎重に狙いを定めた。


「ぐルルル……」


 警戒するように唸り声を上げたハウンドウルフは、姿勢を低くしながら小刻みに軌道を変え、ケイを翻弄しようと試みる。


 彼は知っていたのだ。ケイの右手から、何か危険なモノが放たれるということを。そして不用意に近づけば、自らのそれよりも鋭く長い爪に、手痛い反撃を貰うであろうということも。


 まったく、賢しらな獣だった。そのことに感心すると同時に、忌々しくも思う。


「ゲームみたいに、大人しく狩られていればいい……!」


 そう、吐き捨て。黒き獣。睨みつける。



(――死ねッ!)



 最大級の殺意を込めて、全身に力を漲らせた。


「!!」


 物理的な圧力すら感じさせる濃厚な殺気。全身の毛が逆立つような指向性のある悪意。思わず震え上がったハウンドウルフの体が一瞬、硬直する。


 その、間隙。


 ケイの右腕がブレた。


 ビシュッと鉛の礫が空を切る。ケイが全力で投じた、必殺の一撃。


 しかし幸か不幸か。ケイは目測を誤った。


 ハウンドウルフの額を狙って投じた礫は、僅かに耳を掠めて、その背中に命中する。


 毛皮越しに鉛が肉を打つ、痛そうな音。が、獣にとってその程度の痛みは、むしろ神経を逆撫でするものでしかなかった。先ほど、ケイに『恐れ』を抱いてしまったことを否定するかのように、牙を剥いた狼は激しく吠えかかりながら突進してくる。


「"能動発気アクティブセンス"は苦手だな……」


 慣れないことして手元が狂ったか、とため息をつくケイ。礫は外れ、血走った獣が目の前にまで迫っているというのに、その態度は落ち着いたものだった。



 なにせ、決着はもう、ほとんど着いているのだ。



 完全にケイに気を取られていた狼が、の存在を思い出したのは、視界の端に褐色の毛並みが映ったときだった。



「ぶるるォッ!」


 ハウンドウルフの後方から、いななきを上げながらサスケが猛然と突っ込んでくる。思わずぽかんと口を開いて呆気に取られる狼。その無防備な横腹に、サスケは右前脚の蹄を容赦なく叩きこんだ。


 キャンバス地が破れるような音を立てて、黒い毛並みの腹が。口から血反吐を吐いてよろけた狼に、止めとばかりにサスケの後足キックが炸裂。ハウンドウルフは、腹から臓物を撒き散らしながら吹き飛んでいった。


Well Doneよくやった!!」


 ケイの快哉の声を聞いて、「ふふん、ぼく強いでしょ」とでも言いたげに得意げな顔をするサスケ。その足の裏、かかと部分の裏側に展開されていた鋭い骨の刃が、音もなく畳まれてただの蹄に擬態した。


 バウザーホース。


 馬型の騎乗生物の中では最高レベルの性能を誇る彼らだが、厳密には馬ではない。高いレベルで馬に擬態した、凶暴な雑食性のモンスターだ。手懐けるのはハウンドウルフ以上に難しいとされ、仮に使役に成功したとしても、その扱いには注意を要する。


「……ミカヅキ、お前もよくやった。ありがとうな」


 ぽんぽんと、ミカヅキの首筋を叩いて、労をねぎらう。言われるまでもないわ、とでも言いたげに、ちらりとケイを見て鼻を鳴らすミカヅキ。


 こうやってきちんと感謝の念を示さないと、ヘソを曲げるのがバウザーホースだ。ゲーム内のAIですらそうだったのだから、いわんや異世界をや。どうにか人里を見つけられたなら、野菜にせよ肉にせよ、何かしら豪勢な餌を用意するべきだろう。


(……だが、今はアイリーンの治療が先だな)


 不安げに眉根を寄せて、ケイは嘆息する。それはそれで、考えると気が重い。


 ミカヅキを早足で駆けさせながら、左手に広がる草原と右手側の森を見比べたケイは、――しばし迷ってから、森の方へと馬首を巡らせた。


 これから行う『治療』に不安を隠せないケイを乗せ、ミカヅキはゆっくりと暗い雑木林に踏み込んでいった。




          †††




 雑木林の中は、ほぼ真っ暗闇だった。頭上に生い茂る木の葉のせいで、わずかな星明かりすら遮られている。


(これだけ暗ければ、人間に奇襲されることはないだろ)


 並みの人間の夜間視力では、歩くことすらままならないはずだ。それでいてこの雑木林は、背が高く幹の細い木々が植生の大部分を占めており、先ほどの木立に比べて視界が開けている。


 ケイが充分に警戒し続けている限り、獣相手でも遅れを取ることはないはずだ。現に、ケイと同様『視力強化』の紋章を持つミカヅキは問題ないようだが、何の強化も施されていないサスケはかなり歩きにくそうだ。今はケイが手綱を引いて誘導している。


「さて……この辺でいいか?」


 数百メートルほど分け入ったあたりで、ミカヅキの足を止める。周囲を見回しても、視界圏内に生物は見受けられない。ミカヅキも平然としているので、頭上を含めた感知圏内にも、敵対者は存在しないと考えられた。


「アイリーン。聴こえてるか?」


 額に浮き出た汗をぬぐってやりながら、声をかける


「где……кто……?」


 目を閉じたまま、悪夢にうなされているかのようにアイリーンが小さく呟くが、発音が不明瞭な上にロシア語なので何を言っているのかさっぱり分からない。


アイリーンを抱えて、ゆっくりと地面に降り立つ。枯葉と腐植土の上にマントを敷き、そっと華奢な身体を横たえた。


「よし。ミカヅキ、サスケ、警戒は任せる」


 ミカヅキが鼻を鳴らして答え、サスケがキリッとした表情で周囲をきょろきょろと見回し始める。暗闇の中、サスケにはほとんど何も見えていないはずなのだが。


「さて、と」


 水筒の水で軽く手を洗い、アイリーンの傷を検める。黒装束のせいで傷口が見えないので、布地を切り裂くために短剣を取り出そうとするが鞘には何もない。そこで、先ほどの戦闘で短剣はハウンドウルフに道連れにされてしまったことを思い出す。


 仕方が無いのでアイリーンの投げナイフを一本拝借し、黒装束の胸元を切り裂いていく。


「……ふむ」


 流石に矢が生えているとなると、いたいけな少女の胸元を覗いても、邪な感情は湧いて出なかった。


「……あと二センチ上に刺さってたら、右鎖骨下動脈がやられてたなコレ」


 肋骨の間にするりと入り込むようにして、矢は刺さっていた。傷口の形状からするに、鏃は『刃』や『返し』が付いたタイプではなく、シンプルな円錐状、ないしそれに近い形であることがわかる。つまり、矢を抜くときに、傷が広がる危険性が低い。


 いずれにせよ、一刻も早く傷を塞いでしまいたいところだが、矢を引っこ抜く前に少しでも体力を回復してもらった方が良いだろうと考えたケイは、


「アイリーン。聴こえるか? ポーション飲めるかー?」


 耳元で呼びかけるも、反応は芳しくない。アイリーンは先ほどからずっとうわ言を呟いているのだが、かすれ声な上にどうやらロシア語だった。


 仕方がないので、口元にポーションを少しずつ垂らす。が、


「……не вкусно……」


 顔をしかめたアイリーンの唇から、そのほとんどが零れ落ちてしまう。何を言ってるかは分からなかったが、おそらく「不味い」と言っているのだろう。いずれにせよ、ずっと意識が混濁した状態が続いており、ろくに意思の疎通も図れていない。


(……いや、しかし考えようによっては、これは好都合チャンスなんじゃないか)


 そこで、ポーションを片手に、ケイははたと考え直す。


 ポーションによる治療は、どうやら多大な苦痛を伴うらしい。手のひらの切り傷を直しただけで、アイリーンは冷や汗だらだらの状態になっていた。それが、胸に突き刺さった矢を抜き、その穴を塞ぐとなると――どれほどの痛みに苛まれるのか想像もしたくない。


「……意識が朦朧としてるうちに、さっさと終わらせた方が本人のため、か……?」


 しばし考えて、決断する。


 よし、ひとり頷いたケイは、籠手を外して袖をまくった。念のため、何本か予備のポーションもすぐに使えるよう膝元に置き、ふぅっと息を吐いて矢に手をかける。


「…………」


 ゲーム内ならば、今までに幾度となく矢を抜いてきたが、現実でそれをやるとなると流石に重みが違った。傷口を押さえる左手に、アイリーンの胸の鼓動が伝わってくる。


 深呼吸。


「行くぞ」


 覚悟を決め、ケイは傷を広げないよう慎重に、しかし苦痛を軽減するため大胆に、ズヌッと矢を引き抜いた。


「ぅうッ……!?」


 途端、苦痛に顔をしかめたアイリーンが、うめき声とともに身をよじる。傷口から、黒っぽい血が溢れ出してきた。静脈血。動脈は切れていない。


「さて、怨むなよアイリーン……」


 お前のためだからな、と呟きながら、ケイはそっと、ポーションの瓶を傾けた。


 とろみのある水色の液体が垂れて、――傷口に触れる。


「ッ!!!!」


 ジュッ、と肉の焼けるような音が響き、アイリーンがかっと目を見開いた。


「ぎッ――――!!!!」


 絶叫とともに、跳ね上がるようにして暴れ出した体を、慌てて押さえつけつつポーションを垂らし続ける。ポーションが足りずに、中途半端に傷が塞がってしまうのが、一番避けるべき事態だった。


「ぉぁぁ――――――ッッッッ!!!!」


 よほどの痛みなのか、小柄な少女とは思えないような馬鹿力で、アイリーンはケイの腕をはねのけようとする。そしておおよそ乙女が上げるものとは思えぬような、獣の咆哮のような絶叫。


「すまんッ、アイリーンッ、落ち着けッ許せッ!」


 アイリーンの胸元、水色のポーションは、まるで意思を持つスライムか何かのように、怪しく蠕動しながら傷口に潜り込んでいった。アイリーンの体の中から、鍋の湯が沸騰するときのそれに似た、ゴポゴポという不気味な音が響いてくる。


 やがて、暴れていたアイリーンの体の動きが細かな痙攣に変わり、見開かれた瞳はいつの間にかぐるんと裏返って、完全に白目になっていた。


「げほっ、ごぼっ!」


 時たまアイリーンが咳き込むたびに、口から固まりかけた血液と思しき、赤黒い塊が吐き出される。そしてそれがあらかた出終わった後は、ポーションが揮発したのだろうか、口と鼻から蒸気とも湯気とも知らぬ気体がもくもくと立ち上り始めた。


「……ぁっ……ぅ……」


 最後に、体の痙攣が収まってきたあたりで、口からぶくぶくと泡を吹き始める。ポーションと同じ、うっすらとした水色の泡。


「………………」


 あまりにも壮絶なありさまに、呼吸をするのも忘れてドン引きしていたケイだが、すぐにハッと気を取り直し、慌ててアイリーンの脈を取る。


「……良かった。生きてる……」


 ぴくん、ぴくんと痙攣しながら泡を吹き続けているので、よくよく考えれば生きているのは当たり前だった。しかし自分で『アイリーンの心臓が動いている』という事実を確かめて、ケイはようやく一息つく。


 次に傷口を確認すると、手のひらの切り傷と同様、白い傷跡は残っているが、穴そのものは完全に塞がれているようだった。


 胸に耳を当てて呼吸音も確認する。少し早目だが、規則正しい鼓動の音が聴こえるのみで、呼吸器関連の異常な音は聴こえない。


「ひとまず安心、か……」


 とりあえず、いつまでたっても白目のままなのは、あまりにも気の毒だったので、そっと瞼を閉じてやる。


「……こっちでは大怪我だけはしないように、気をつけよう」


 ――さもなくば、これと同じ目に。ケイはぼそりと呟いた。


「ぶるるっ」


 同感だ、と言わんばかりに、ミカヅキが小さく鼻を鳴らした。








「……ん?」


 そこで、ふと顔を上げる。


 視界の彼方。


 先ほどまで真っ暗闇だった雑木林の果てに、光が見える。



 ゆらゆらと揺れる、オレンジ色の光。



 見ているうちに、ひとつ、ふたつと、数が増えていく。


「"鬼火ウィル・オ・ウィスプ"か……?」


 下位精霊の一種を疑ったが、すぐにそうではないことに気付く。


 あれは、人工の火。松明の明かりだ。


 細かく移動していることから、何者かが松明を掲げて歩き回っていることは間違いないのだが、流石に遠すぎるのと暗すぎるのとで、持ち手までよく見えない。


「……さっきの連中、じゃあないよな」


 方向が逆だ。それに、徒歩で先回りしたにしては、速過ぎる。


「…………」


 どうするべきか。


 しばし迷って、結論を出す。


「行ってみよう。ミカヅキ、頼む」


 アイリーンを抱えた状態で、再びミカヅキに騎乗した。兜をかぶり直し、口布をつけて顔を隠しつつ、一応の武器の確認をする。短剣が無くなり、礫を二つ消費したが、それ以外は全部揃っている。問題ない。


 よし、と小さく頷いてサスケの手綱を手に取り、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。常歩でゆっくりと歩いていく。ほとんど速度は出ていない上、地面も柔らかい腐植土なので、蹄の音は立たない。


 歩き出してみれば、彼我の距離はそれほど離れてはいなかった。距離が縮まるごとに、その明かりの詳細が見えてくる。


「……村か」


 それは、雑木林の中、空き地を切り開いて作られた小規模な村だった。


 一軒の大きめのログハウスの前で、松明を持った数人の村人が、慌ただしく行き交っているのが見える。みな清潔な服を身にまとい、血色や肉付きも悪くない。小さな村ではあるが、それなりに良い暮らしをしているのだろうか。


 向こうはまだ、こちらの存在に気付いていない。接触するにせよ隠れるにせよ、その判断はケイに委ねられていた。それぞれのメリットとデメリットをしばし考えながら、ケイは腕の中のアイリーンを見やる。


(……やはり野宿は避けたいな)


 苦しげな表情。アイリーンは体力を消耗している。可能であれば、せめて彼女にだけでも、暖かい寝床を用意したいという想いがあった。


「……よし、行こう」


 万が一に備え、サーベルだけはすぐに抜けるよう、抱えたアイリーンの位置を調整しておく。改めて気合を入れなおし、ケイはミカヅキを駆けさせた。


 先ほどとは違い、柔らかい土を踏みしめる鈍い足音が響く。最初に気付いたのは、村の広場にいた犬だ。ケイたちの方を向き、激しく吠え掛かる。


「……おいっ、何か来てるぞッ!」

「みんなッ集まれ!」

「篝火だ! 篝火もってこい!」


 遅れて足音を聴きつけたのだろう、にわかに村人たちが慌て始める。


(……英語か。少なくとも言葉は通じるな)


 そう思っている間に篝火がいくつも設置され、勢いよく燃え盛る炎が村の周囲をにわかに明るく照らし出した。あり合わせの武器や農具を手に、十人ほど村人が、ケイの方を向いてそれぞれに得物を構える。


 ミカヅキの手綱を軽く引き、駆け足から常歩ほどの速度に落としつつ、ゆっくりと村に接近していく。


 武器を構えていた村人のうち、短槍を構えた精悍な顔つきの男が進み出て、


「止まれ! 何者だ!」


 と、誰何を投げかけてきた。






 ケイたちが【DEMONDAL】の世界に転移してきてから、数時間。





 ――第一村人、遭遇だった。





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