第34話 ピアニスト・クライシス②
雪姫がいつもと違う。そう思った。
耳を手でおさえて、なんだかぐったりした様子で、足を引きずるように歩いている。
教室の壁にもたれかかり、重そうなまぶたに抗って、どうにか目を開けているよう。右目は開いているが、左目はずっと閉じたままだ。眉はくるしげに、眉間にしわをよせていた。
線が細く、背の高い雪姫がふらついた。
細い肩が俺の肩に寄りかかって来る。雪姫は腕を回して、俺を抱き寄せる。
「ざつ、おん」
声を聴いて、ただごとじゃないなと思った。でも、俺まで慌てたらいけないと一生懸命、気をひきしめた。
「今日も機嫌良さそうじゃないか。どうした?」
「ふふ、あー、雑音だ。なに言ってるかわかんないけど、またバカなこと言ったのはわかったよ」
俺がそういっても雪姫は俺の口をじっと見つめている。俺より背の高い雪姫は、つかれたように俺の肩にもたれかかる。教室のなかで、抱き合うような恰好になった。ロマンチックさなんてかけらも感じない。いま、雪姫がいったことに違和感しかなかった。
耳の良い雪姫が、俺の言うことがわかんなかったって?
俺の動揺が雪姫に伝わったと思う。腕の中にすっぽりおさまる雪姫が、耳元でささやいた。
「うん、うん。耳、ちょっと聞こえないんだ。目も回って、回転してるみたいで気持ち悪いし、倒れそう。たすけて、時雨」
「任せろ、雪姫」
俺は目を見て、ゆっくり言った。
「ふふ、いまのは、わかったよ。あたしの父さんさ、病院の先生なんだ。どうすればいいかアドバイスぐらいはしてくれると思うから、一回電話してみてほしいんだよ。自分じゃ、できなくてさ。両方、聞こえないんだ、耳」
スカートのポケットから、雪姫が携帯を渡してくる。細い指が、危なげにロックを解除した。
携帯のOSが俺と同じだったのが幸いした。直感的な操作で電話の記録を開く。父親のような名前を見つけて、雪姫に確認を取ってから電話をかけた。
しばらく電話のコール音が続く。平日のこの時間、大人は仕事中だと思う。けれど、昼休みとかで電話に出てくれないかなと願いながら電話をかける。
「はい、はい、はい。すみません、奏です」
優しそうな男性の声があわてながら、雪姫の携帯から聞こえてきた。
「えっと、いきなりですみません。娘さん、雪姫さんの友達の天宮っていいます」
「はい、こんにちは。僕になにか用事ですね。どうぞ、おっしゃってください」
落ち着いた男性は、こちらが話しやすいように言葉をかけてくれる。
「あっ、はい。えっと、雪姫さんなんですけれど、いま耳が聞こえない状態で、めまいがして、頭もいたそうで、ちょっと動けないそうなんです。よければ、病院に連れて行きたいと思うんですけれど……」
「はい、連絡してくれてありがとうございます。すみません、よければ雪姫を連れて、奏総合病院のほうに来ていただきたいです。自分で歩けないようならば、救急車も検討していただいて良いです。市内で交通事故が重なっているようですので、タクシーなどで来られる場合は時間がかかると思います。来られるまでの間、雪姫の物の見え方が変になったり、言葉がでにくくなったり、けいれんなどが見られた場合、すぐに連絡をください。……すみません、失言ですね。不安になるようなことを言ってしまいました」
電話口の男性は、すこし落ち着くように息を整えた。
「ひとまず、消防119番に電話していただき、雪姫の状態をお伝えください。救急車がこられた場合は奏総合病院へ事前に連絡してあることをお伝えください。こちらで受け入れの準備をしておきます。ぼくの携帯電話の電話番号を伝えておきます。ちかくまで来られたら、また電話ください。天宮さん、ありがとうございます。娘をよろしくお願いします」
俺は自分の携帯に電話番号を打ち込んで登録した。
雪姫の電話を切って、返す。
「おーい、病院、いくぞ」
雪姫は頷いた。
「ありがと、雑音。あと、よろしく」
ジェスチャーでオッケーと返事をする。
「ふふ、雑音。あのね、雑音の声、じつはすごい好きだったよ」
目を伏せて、はにかんだ雪姫が言う。
拳を握り、雪姫の眉間をこずく。
「バカなこと言ってるんじゃねーぞ」
雪姫は笑ってうなずいた。
「しーぐれ、ホストさんは職員室に先生をよびに、セブンさんは保健室に飛び出していったわよ」
いつのまにか、となりに立っていた美月が言う。その目は雪姫をみながら、心配の色を浮かべている。
問題が起こっているのは、雪姫の、それも耳だ。
ピアニストの聴力だ。
どうしても、雪姫が二度とピアノが弾けなくなったらという不安と葛藤する。いつもピアノを弾いている姿、日常的に努力している姿を俺は知っていた。だからこそ、なんとかしてあげたいと思う。自分にはなにもできないけれど。ただ、この細い体を支えることぐらいしかできない。
雪姫がピアノを弾けなくなるとか、俺はいやだ。絶対に、いやだ。
廊下で足音がなった。バタバタと数人が教室に駆け込んでくる。
「天宮、状況は?」
九鬼先生が走り込んでくる。先生はめずらしく、緊張した顔で叫んでいた。
「雪姫の耳が両方聞こえない。あと、めまいで目も開けられない。雪姫のお父さんは、奏総合病院きてくださいって。ただ、交通事故が起こってて、道が混んでるかもしれないってのと、雪姫が歩けないようなら、救急車よんだほうが良いってさ」
「わかった。私から消防に電話をしよう。天宮はそのまま、付き添っていてくれ。できれば保健室に移動させてもらえると助かる」
「セブンが保健室に走ってるから、ちょい待ちー。担架とりに行ってる。なかったら毛布とって来てって言ってあるよん」
「ありがとう、ホスト」
「いやいや、当然っしょ。っま、オレらはここまでかな。なんかあったら呼んでくれていーしね」
ひらひらと手を振って、自分の席に戻るホスト。「集まるな、集まるな。九鬼先生と時雨ちゃんに任せとけ」そう言って、周りに集まる生徒たちを散らした。
「しぐれ、わたしは付き添いたいわ。かまわない?」
「いいと思う」
「うん。なにもしてあげられることがないって、こんなにも悔しいのね」
美月は雪姫の手を両手で握る。雪姫の落ち着かない息遣いが、すこし落ちついたように思えた。
「シグレ、待たせた。これで保健室までいくぜ」
セブンが白い担架を持ってくる。それを広げて、地面に敷いた。
雪姫の肩を叩いて、そのうえに寝てもらう。肩を貸しながら、雪姫はゆっくり倒れ込んだ。
「いくぞ、セブン。せーのっ」
「ほいっと。 イチ、ニッ、イチ、ニッ。揺らさないように気を付けるぜ」
セブンとほかのクラスメイトの手も借りる。呼吸を合わせて、雪姫を運ぶ。美月が先導して、階段など細い通路で人を壁際に立たせてくれた。
保健室のベッドの上に、雪姫を寝かせた。となりには美月が寄り添う。
セブンはその様子を見たあと「またなー」と言って、去って行った。
「いやだなぁ。音が聞こえなくなるの。さみしいよ」
雪姫がベッドの上でつぶやいた。
まいったように、腕で顔を隠している。
なんて言っていいかわからないのは、美月も一緒らしい。唇をかんでいた。
保健室に東条先生と九鬼先生が入ってくる。面持ちは暗い。九鬼先生がいらだちを隠し切れず、足音を大きくしていた。
「天宮、救急車は来れない。市内で交通事故が相次いでいて、そちらに行っているが、渋滞に巻き込まれて到着できていないらしい。それと、耳が聞こえないのは命には関わらないため後回しだそうだ。ただ、はやめに医療機関に受診は必要だとさ」
九鬼先生は静かに言った。
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