ウェインライト神経窟(2)

 はじめに呼吸音があった。

 ひきつれて捲れ上がった唇の間には、風化して黄色く変色した歯列があり、整列した干しとうもろこしの合唱団のように見えた。ひゅうひゅうという細く甲高い呼吸音は、もの悲しいソプラノの歌だ。

 その次に、干からびて張り付いた皮膚が波打った。干しぶどうの製造工程を逆向きにたどるように、みるみるうちに張りと色を取り戻し、生気を纏ってゆく。きめの粗い、けれど力強く日焼けした肌と、燃えるように波打った赤い髪。形のよい長い爪。豊満な乳房。

 空っぽの眼窩が煮え立って、水風船が膨らむように金色の瞳が再生される。


 アリソンは片膝をついたまま、いにしえの大魔女の目覚めを見守っていた。おびえたり、すくんだりする様子はもうなかった。

 その頃にはもう、この手の夢の中の出来事にはだいぶ慣れてしまっていたし、怯えて動けなくなっても助けてくれる友人はもうどこにも居なかったからだ。

 マリオン・ウェインライトの逆回しの再誕など、アリソンにとって、突然友人を失う以上の不条理ではなかった。

 

 永い眠りから目覚めたマリオンは、いちど大きなあくびをして、椅子に座り直した。クラシックなくるみ材の椅子が、まるで玉座のようだった。マリオンは頬杖をつき、目だけを動かしてアリソンを品定めする。ほとばしるようなぎらぎらとした目付きだった。


「おはよう。我が母胎。ずいぶんと長旅だったようだね」


 口ぶりこそ落ち着いた静かなものであれ、びりびりと腹の底に響く、大きな声だった。

 

「マリオン・ウェインライト」アリソンは答えた。「やっと見つけた」


 とはいえ、アリソンは目の前のぼろきれを纏った魔女のことを、本物のマリオン・ウェインライトその人であるとはつゆほども考えていなかった。

 アリソンの脳みそは確かに彼女をマリオンだと認識していたけれど、そもそもこれはアリソンの夢の中、アリソンの脳みその中で起こっている出来事だ。おそらく、このいにしえの魔女も、アリソン自身が作り出した虚像に過ぎないだろう。

 フリント少年と違うのは、マリオン(のかたちを取った化現)を生み出した術式が、呪詛に刻まれていることだ。フリントが抗体のようなものであるとすれば、マリオンは病巣、アリソン自身のちからを糧に、アリソンを害する腫瘍であると言える。


「それで、母胎がこのようなところに、何用で?」


 忌ま忌ましい病巣が鷹揚に言い、アリソンが答えた。


「対価を支払いに」


 アリソンは懐から銅貨を取り出し、床に順番に並べる。ぱちり、ぱちり、という小気味良い音が、灰色の空間に響いた。


「ふむ?」


「あなたの残した叡智、自由律魔導百科辞典の使用料を支払いに来ました」


 これは市場に並ぶ標準的なお茶の値段と同等です、と

 頭の奥の痛みは重く鋭く、もはや両手にとんかちを持った凶暴な猿が頭蓋を裏側から叩いているかのようだ。


 ぱちり、ぱちり、ぱちり、ぱちり、ぱちり。

 床に一列に並べられた七枚の銅貨。それをマリオンはつまらなさそうに見下ろす。


「なるほど……つまり我が母胎は――」


「アリソン。アリソン・セラエノ・シュリュズベリー」


「なに?」


「わたしの名前です、偉大なる編纂者。エルダー・シングス魔術学院薬学部二年生、魔女のたまご、シュリュズベリーのアリソン。あなたの母胎じゃない」


 アリソンは、きっぱりと言った。


「わたしはあなたにこの銅貨を支払って、目を覚まして、家に帰ります。わたしにはわたしのやりたいことがあるし、本にはならない。ですから、あなたには、わたしの頭の中を出ていって欲しいんです」


「ふむ……」とマリオンは唸って、銅貨の列から視線を外し、アリソンの頭から爪先までをぎらついた金眼でじろじろと睥睨する。アリソンは大魔女の視線を眉一つ動かさずに受け止めて、答えを待った。


「断る」


 マリオンが重々しく告げ、アリソンは耳を疑って聞き返す。


「なんですって?」


「断る、と言った。確かに、本にはこう書いてある。『マリオン・ウェインライトに、銅貨七枚の恵みを』と。けれどね、我が母胎。私はそんなものよりも、きみに興味があるんだよ」


 マリオンはいったん言葉を切って、玉座に深く座り直した。組み合わされたくるみの椅子が、ぎしりと音を立てる。アリソンをねめ回す視線はぎらつきを増すばかりだ。


「きみの演算野はすごくいい。抜きん出ていると言っていい。素晴らしい才能だし、とても若い。器量は……まあまあだけれど、それは我慢しよう」


 金の視線は犬の舌のように熱く生臭く、じっとりと湿り気を帯びていた。

 アリソンは背中にぞっとするような冷たい嫌悪感を覚えながら、マリオンの言動について考えていた。なぜ、解呪の条件が満たされないのか。痛む脳みそを猛スピードで回転させ、いくつかの仮定を立て、それを打ち消すことを繰り返す。一瞬のうちに、アリソンはひとつの推測にたどり着いた。


 おそらく、アリソンの目の前のマリオンは、自分が本当のマリオン・ウェインライトでないことに気づいている。呪詛として過ごして来た長い長い時のなか、どこかのタイミングで。


 マリオン・ウェインライトが魔導百科に込めた呪詛には、明確に解呪方法がある。夢の中で金銭を支払うというのがそれだ。それはまず間違いない。そうでなければ、呪詛に自分の姿かたちを模した〝端末〟を仕込む合理的な理由がない。

 マリオンはおそらく――なぜそのようなことを望んだのかはわからないけれど――自分の死後も魔導百科を存続させ、利用者に金銭を支払わせようとしていた。本に書き記されているように、未来永劫、そらの終わりまで。

 けれど、マリオンは呪詛者としても優秀すぎた。ただ夢の中でお金を受け取るだけの〝端末〟を、作り込みすぎたのだ。それこそ、「自分は本物のマリオンではない」と気づいてしまうくらいに。

 〝端末〟の自認がマリオン・ウェインライトでないならば、アリソンがマリオンに対価を支払ったことにはならず、呪詛の切除は発生しない。


 アリソンの推測は概ね正しかったけれど、ひとつだけ的を外していた。

 マリオンの〝端末〟は、気づいたのだ。アリソンの並外れた演算野があまりにも正確に、彼女を描画してしまったせいで。けれど、アリソンはそのことに思い至ることは出来なかった。


「きみの肉体は私が貰い受ける。ありがたくね。きみの才能は、持ち腐れだ。この素晴らしい才能を、きみの『やりたいこと』なんかに使うのは勿体無い。きみは本になるべきなんだ」


 舌なめずりをするような下卑た声音に、アリソンは立ち上がり、深くため息を吐いた。太古から世界の終末にまで届く、細く長いため息だった。先ほどまでとは逆に、椅子に腰掛けたままのマリオンを、アリソンが見下ろす形になった。


「この話は終わりだよ、我が母胎」


 アリソンの口から、すんでの所で舌打ちが飛び出しそうになった。

 はっきり言って、アリソンはいい加減うんざりしていたのだ。我慢の限界だったと言っていい。


 ことの発端についてはアリソンにも責任がある。確かにあった。浮かれて馬鹿なことをしでかしたのは、彼女自身の責任だ。それはいい。

 けれど、この仕打ちはなんなのだ?

 眠りの中に潜り、化け物と戦い、迷路のような夢の世界を駆けずり回った。

 友人を喪い、いつ終わるとも知れない旅路を歩き続けた。

 人さまの頭の中で、自分の家のように振る舞う偽物の大魔女にかしずいて、その結果がこれである。

 これが、支払うべき対価だろうか?


 いいえ。

 と、アリソンは思った。


 これは、正当な取り引きディールだろうか?

 

 いいえ。

 と、アリソンは思った。


 いい加減怒るべきではないのか?

 

「聞こえなかったか? この話は――」


 アリソンは、全体重をかけて、マリオンの顔面にコイン・ローファーの硬い靴底を蹴り込んだ。


「【Aktivigo,発理、】 【Forta Lanc峻烈のo de Lumo.単槍】」


 もんどりうって倒れるマリオンに向けて、杖を素早く抜き放ち、術理を詠唱する。実戦的で剣呑で、完璧な発音だった。


「【Resoni.奏でろ】」


 煌めく理力の大槍が、吸い込まれるようにマリオンの頭部に直撃し、紙粘土みたいに粉々に吹き飛ばす。


「いい加減にして」と、アリソンは静かに言った。完璧に、けちのつけようもなく、激怒しているからだ。

 


「わたしの中から、出て行って」


 床に倒れた首のないマリオンの身体が、くつくつと笑った。


「私を追い出すとでも? 尻の青い、魔女のたまごが?」


 どこから声を出しているのか、マリオンは嘲るように言った。

 アリソンはトップ・ハットを深くかぶり直し、闘志に青く燃える眼でマリオンをにらみつける。


 ――やるんだ。

 頭の奥で、男の子の声が聞こえた気がした。


「やるわ」


 アリソンは言った。


 ――やれ。

 男の子の声が、もう一度した。

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