アリソンの夢のなか(3)

 怪物の体当たりは、軽々とアリソンの身体を弾き飛ばした。どおん、という衝撃音と、地面から無理やり引き剥がされる感覚。

 恐怖に怯えすくんだ身体では、避けることは叶わなかった。


 アリソンが地面に叩きつけられる直前、煙のドレスが瞬間的に風船のように膨らんで、衝撃を緩和する。

 とはいえ、それで衝撃力の全てを殺せたわけではなかった。背中から叩きつけられたアリソンの肺腑は痛みで痙攣し、呼吸もままならなくなる。


『とにかく動け!』と、コーシャーソルト少年の声。耳からの音と一緒に、煙の粒子の振動が肌を伝わって、直接聴こえてくる。


 アリソンは無我夢中で地面を転がって、冒涜的な生き物の追撃をかわす。砂粒や埃が彼女のドレスを汚した。


 不幸中の幸いと言うべきか、先の突撃で、恐慌状態だったアリソンの心身はある程度の平衡を取り戻すことができていた。

 直接的な痛みが危機感に変わり、天秤の反対側に置かれる。重たくのしかかっていた恐怖心の反対側に。脅威に立ち向かうには足りないけれど、なんとか身体を動かすことはできた。


 怪物の嬰児はみたびアリソンに狙いを定め、突進してくる。跳ね回る死体袋に似た、奇怪な動き。

 アリソンは反射的に目を瞑り、拒むように両手を突き出す。ドレスが彼女の危機感を読み取って、背中側からもう一対の腕を形成する。

 煙の腕は、仔羊とがっぷり四つに組み合って、突撃を押しとどめた。


『迎撃して!』


 けれど少年の細腕では怪物には旗色悪く、じりじりと押し込まれてゆく。


「できっこない!」


『いいからやるんだ!』


 アリソンの鼻先に獣じみた生臭く湿った吐息が吹きかけられ、何ともつかぬ粘液が薄桃色の頬を汚す。


『やれ!』


「わあああああ! こなくそ!」


 やけくそで抜き放ったアリソンの杖先で、青白い理力の光が破裂する。

 単純発理シングル・リアクション

 かたちや指向性を与えられていない、理力マナの発散。術式プロトコルによる制御と洗練を経ない、の暴発。

 それは術理とは到底呼べない代物で、言うなれば〝理力のくしゃみ〟だ。派手なのは音と光だけで、衝撃力はほとんどないに等しい。


 それでも、一定の効果はあった。

 眼前で爆ぜた理力の光は、産まれたばかりの嬰児の眼と耳をくらませる。

 瞬間緩んだ拘束を振り解き、アリソンは飛び退すさるようにして立ち上がった。


 やぶれかぶれ、まぐれの反撃に狼狽えたのは悪夢の怪物だったけれど、もっとびっくりしたのはアリソン本人だった。

 おどろおどろしく名状し難い化け物が、たったの〝くしゃみ〟で目をつぶし、耳を塞いでいる。

 獰猛で残忍な爪を持つその怪物の臆病さにアリソンは虚を突かれ、それからはたと気づいた。


 なるほど、これは確かにわたしの〝鏡〟だ。

 アリソンは、この醜悪で攻撃的で、ひどく臆病な怪物に自分自身を見た。

 より正確に言えば、それはアリソンがもっとも目を逸らし遠ざけておきたい自分自身だった。彼女の深層心理の防衛機構が産み出した怪物は、同時に意識の水底に眠る、いびつな鏡像だ。清廉たれ、勇敢であれと、祈るように自らに課すアリソンが、押し込めてきた不浄と不安の集積体。


 ――眠りの中で自らの深層心理と対面し、己が獣性と向き合うんだ。


 アリソンの脳裏に、眠りにつく前にコーシャーソルト氏から投げかけられた言葉が蘇る。


『沈黙の森で瞑想し、暗闇と踊るものだけが真に勇者たりえる。どうだろう、ミス・シュリュズベリー。きみは弱虫なのか?』


 夢の中のコーシャーソルト少年が、煙の魔術師そのものの口調で続けた。うんざりするくらいにそっくりなその物言いは、この場にあっても的確にアリソンの神経を逆なでし、とこさせた。


「弱虫じゃない」


 ひとつまみの怒りが天秤に乗せられ、かたんと音を立ててひっくり返った。それがコーシャーソルト少年の意図したものだったのかどうかは、わからない。


「弱虫だなんて、言わせない」


 体勢を立て直しつつある山羊の怪物を見据え、アリソンは自分を奮い立たせる。この生き物が自分自身の弱さや汚さであるのなら、やはりそれを倒すのは自分自身でなくてはならない。


 アリソンは決然と立ち上がり、杖を構える。

 復唱するのは魔術学院の必修科目、近接魔法防衛技術の教え。身を守るための構えだ。


杖構えマスターアーム・オン! 利き足を前に一歩! 体重は軸足へ! 半身に構え、顎を引く!」


 背すじを伸ばす。頭のてっぺんから糸で吊られているイメージ。体幹に埋め込まれた透明な四角い箱を想像する。

 緩やかに杖腕を伸ばし、杖そのものはのように軽く握る。

 敵から目を逸らさず、しっかりと見据える。


 既に体勢を立て直した獣は、恐るべき速度でアリソンに襲い掛かろうとしていた。


「【Aktivigo,発理、】」


 アリソンが理力マナを廻し、術式を構成する。

 胎から心臓へ、心臓から指先へ、指先から御杖へ。

 速やかに伝導された理力マナの光が杖先に灯る。


 ク・リトル・リトルの魔女の主戦場は、言うまでもなく空にある。魔女たちは大空を自由に翔け、光の矢弾を撃ちまくり、敵に甚大な被害を与える。

 空は我々のなわばりで、空戦は我々の専売特許である。それは普遍的な事実だろう。

 けれど、地に足をつけて戦う技術が無いかといえば、それは否だ。


 我々には戦訓がある。金剛鋼アダマンティンの鎧を着込み、剣と槍で武装したダーム・デュ・ラックの騎士たちに領土を穢された、遠い昔の苦い苦い戦訓が。


 死を恐れずに進軍する肉と鋼の暴力に、同胞たちが何人も犠牲になったその教訓から、魔女の国ク・リトル・リトルのあらゆる魔術学校で履修される、たおやかな乙女の護身術がある。


「【Ŝnura kaptilo,転ばしの蔦、】【Resoni!奏でろ!】」


 アリソンが杖を横凪ぎに振るうと、理力マナの撃発が起こる。形成された光の紐は、低空を這い滑るように飛ぶ。化け物の脚に着弾した光蔦は、分銅紐のように器用に両足を巻き取る。


 ひとつ、対手の機動力を奪うこと。

 我々は剣先が届かず、弓矢を番えるいとまがない、魔術の距離で戦う。そのためにまず、魔女は敵の脚を刈り取るべし。


「【Kvin Sagojn光の五つ矢!!】」


 ひとつ、四小節以内の短い呪文で戦うこと。

 破壊力を求め、詠唱の長い術理は使わぬこと。単純な術理で対象を沈黙させることができるのなら、望むべくもない。


「【Resoni奏でろ!!】」


 撃発。鋭利な鏃をかたち作った燐光――五矢のうちの一矢が、音を切り裂く速さで、すっ転んだ化け物の背中に着弾する。二矢、三矢、四矢、五矢と、アリソンは息もつかせぬ速度で立て続けに矢を射掛け続けた。


「【Resoni奏でろ!!】【Resoni奏でろ!!】【Resoni奏でろっ!!】【Resoni奏でろぉっ!!】」

 

 ひとつ、動かなくなるまで攻撃すること。

 自分の身を守るためには、相手を完全に無力化するまで攻撃すること。


 無茶苦茶に矢を浴びせかけられた落とし子は、鳴き声を上げることもできずに沈黙した。


「わたしは、弱虫じゃない!」


 アリソンはほとんど泣き出しそうな声で叫んだ。大山羊にも負けないくらいに大きなときの声は、恐怖と怒りと嫌悪と戦意でぐちゃぐちゃになった彼女自身の精神と肉体を、無理やり駆動させるために必要なものだった。


『まだ来るぞ!』と、コーシャーソルト少年の声。

 はっとしてアリソンが顔を上げると、大山羊の胎から、また一匹二匹と、落とし子が産み出されている。

 目を開き、産声を上げ、二匹のけだものがアリソンを挟撃するようにじりじりと近づいてくる。こざかしくも挟み撃ちを思いつく程度の知性は持ち合わせているようだった。


「先生」油断なく二匹に目線を送りながら、アリソンが言う。「棒を!」


『なんだって?』

「〝感じのいい棒〟よ!」


 たちまちアリソンのドレスが霧散して左手に渦巻き、武器をかたち作る。彼女の意図を理解したコーシャーソルト少年が変身したものだ。

 それはちょうど、誰かの頭を殴り飛ばすのに最適な長さと重さを持っていて、アリソンの手に実によく馴染んだ。


「来るなら来なさいよ……」


 アリソンは右手の杖と左手の棒を、それぞれ二匹の化け物に突きつけながら、自分を鼓舞する言葉をつぶやく。


 集中力を総動員して化け物を牽制するなか、アリソンは足元の奇妙な感触に気づいた。

 

『まずいぞ……』


 例えば、通り雨にあった時のような。

 例えば、不注意にも水溜まりを踏み抜いてしまった時のような。


『水だ』


 靴に染み込み、靴下まで水びたしになる、あの不快な感覚。

 気づけば、広場全体が巨大な湿地帯のように水分を湛えている。


 コーシャーソルト少年が叫んだ。


『鉄砲水が来るぞ!』


 木々を、怪物を、アリソンたちを押し流す濁流が襲いかかって来たのは、そのすぐ後のことだった。

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