韮山城の勇将

 侍女のおぬいが茶を運んできたことで、話はひとまず中断した。二人の前に椀を置き、急須を添え置いた縫が手をついて下がると、忠次は氏規に向き直った。


「寒い折にはぬくい酒と行きたいところだが、”身体に障る”と、あの縫めが許してくれんでな。茶ですまぬな」

「なんのなんの。それにしても、音に聞こえた三河の左衛門尉さえもんのじょうが、侍女の尻に敷かれておいでとは。やはり歳ですな」

「ははは。言うてくれるわ。とはいえ弱っておるのは本当の所でな。特に目がいかん。外に出るときには、縫に手を引かれてでないと、辺りが解らず歩けないのだ」

「それはまた。養生して下され」

「ああ。儂になんぞ頼みがあるのであれば、早くするのだぞ。儂の目が見えなくなる刻限までは、そうは長くないからな。さ、話せ」


 忠次が水を向けると、氏規は深々と頭を下げて話し始めた。


「実は、それがしの元に治部じぶ殿より内々に打診が来ております」

「ほう、光成みつなりめから」

「はい。氏直様にはご子息がおりませぬ。このままではお家は断絶し、拝領したばかりの領地も召し上げとなります。それを憂慮した殿下が、我が息子の氏盛うじもりを氏直様の養嗣子とし、名跡と遺領を継がせてはどうか、と仰られているそうです」

「なるほど。願ってもない話ではないか」

「はい。北条家にとってはありがたい話です。ですが、後を継ぐのであれば氏直様の御舎弟である氏房うじふさ殿が筋ではないかと」

「ふむ。太田家に入ったという御仁か」

「左様で。この話を受けたものかどうかと」


 忠次は腕を組んでまじまじと氏規を見つめ、呆れたようにため息を吐いた。


「助五郎、相変わらずよのう」


 思わず幼名で呼ばわると、氏規はにっこりと微笑んだ。


「言わずともわかっておろう。受ければ良い。主家に対する体面の問題ではないぞ。光成めがわざわざ打診してきたという事は、何か腹に一物あるという事よ。彼奴め、お主が主家に遠慮して辞退することを見越しておるのだ。そして辞退をすれば殿下の差配を断ったと吹聴し難癖をつけ、北条の者どもを諸共路頭に迷わせる魂胆よ。織田家の信雄のぶかつ殿のようにな」

「は」

「こと光成めは、北条に対して忍城おしじょうで恥をかかされた恨みがある。それを見抜けぬお主ではあるまい。受けろ受けろ。安心せい。儂も家康様も、氏盛殿の相続を後押ししようぞ。そうか、さてはお主、その念押しに参ったのか」

「さすがは小五郎殿。物が良く見えておいでです」

「見えぬと言っておろうが。まったくお主という奴は。気を使ってばかりのただの柔和な男かと思えば、戦も世渡りも、随分と上手くなったものよのう」


 忠次が呵呵と笑うと、氏規は軽く頭を下げた。


「いや、これで安堵いたしました」

「おう。任せておくが良い。お安い御用よ。それに案ずるには及ばん。お主は殿下の覚えがめでたい。先の韮山にらやまでの奮戦が効いておるのだろうな」


 先の小田原征伐の折、攻める秀吉軍は東海道を抜け関東の北条領へと攻め入る手はずとなっていた。守る北条方は、最前線となる関東への入り口に位置する二つの城、北の山中城やまなかじょうに南の韮山城にらやまじょうを増補し、関東への進軍をこの地で止めんと待ち構えた。


 氏規は、二つの城のうち南側、伊豆半島の付け根に位置する韮山の地にて籠城戦の指揮を執った。守る軍勢は三千五百余り。それに対し、韮山に当たる豊臣軍は四万とも五万とも号していた。


 寄せ手の大将は、織田信長の遺児、織田信雄おだのぶかつ。右翼には蒲生氏郷がもううじさと稲葉貞通いなばさだみち。左翼には細川忠興ほそかわただおき森忠政もりただまさ。そして中央には蜂須賀家政はちすかいえまさ福島正則ふくしままさのりと、錚々たる武将が名を連ねていた。だがしかし、氏規は巧みな指揮により苛烈な攻撃を撥ね退け続け、四カ月もの間持ちこたえた。士気の差であるか、総大将の差配の差であるか、いずれにせよ、山中城がわずか一日で落とされたのに比すると、驚異的な粘りであった。氏規は、山中城を抜いて進軍した敵軍により次々と北条方の城が落ち、本城である小田原城が囲まれてもなお籠城を続けていたが、家康や忠次を始めとする諸将の説得により遂に開城した。


 幼少時からの温厚な姿を知り、普段は北条方の外交役として氏規と接していた家康や忠次は、思わぬ武勇に驚かされたものであった。北条方の猛将と言えば、氏規の岳父に当たる北条綱成ほうじょうつなしげ、さらには弟の氏照うじてる氏邦うじくにの名が轟いていたが、それに負けぬほどの戦上手ぶりであった。


「あの折は必死でしたが故に。徳川殿の小牧・長久手の戦いに倣い、手強いと思わせて条件良く降伏する道を探ったのですが、力及ばず無念です」

「なに、十分よ。おかげで殿下はお主を高く買っておられる。わざわざ本家とは別に所領を与えたのがその証左よ。かつては毛利の小早川こばやかわ、上杉の直江なおえ、そして不肖、徳川のこの儂。殿下は他家の気に入った者には、主を飛び越して領地や官位を与えようとなさる。ま、あわよくば本家との関係を悪化させ、分断させる糸口としようと目論んでいるところがあの御仁の食えない処でもあるがな」

「それで忠次殿も、京都に」

「うむ。家中には頼もしい後進も育ち、丁度潮時であったしな。家次いえつぐめに家督を譲った所で、折よく殿下から京へ来ないかと声がかかった。これ幸いと、うかと誘いに乗ってこの地に移り、屋敷と侍女を賜って楽隠居よ。うっかり断って機嫌を損ねるわけにはゆかぬ時期でもあったしな。それに、上方には上方で、仕事がある。京の情勢をいち早く殿に知らせたり、徳川を出奔して豊臣にくみした石川数正いしかわかずまさらめが悪さをせぬよう睨みを利かすという仕事がな」

「成程。流石は徳川随一と言われる忠義者。見習いたいものでございます」


 氏規は、急須から椀へと手酌で茶を注ぐと、ちびりとひと舐めして遠くを眺めるように目を細めた。


「とはいえ、某の主家はもはや風前の灯火。某もすっかり、一族の者を見送るのに慣れてしまいました」

「助五郎……」


 その顔を見て、忠次は氏規がひた隠しにしているだろう心をおもんぱかった。

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