第27話 越える瞬間


目を開けると薄暗い天井があった。


円形蛍光灯に被せられた丸いカバーが白くぼんやりとある。



なんてことない。

いつも見慣れた光景だ。




隣で妻、紗矢子さやこが寝息を立てている。


結婚生活23年。

いまだに寝室を共にしているなんて言うと、

周りから「仲がいいね」なんて言われるが、そんなことない。


いやいや、仲が悪いわけではないけど、

ただ…





(頭がぼんやりするな。起き抜けだからか。)






ああ、たしか。


結婚して10年経った時、

客室が欲しいねって話になって

部屋を一つ空けようと、

今までバラバラに寝てたのを

ニ人望んで、この狭い6畳間に詰め込まれたんだ。




ぐっすりと寝る紗矢子。


同い年の40代としては、若々しい印象であるが、昔のような熱情は湧かない。


恋ではなく愛になったからだろう。

手を繋いだときがいつか思い出せないほど、紗子との付き合いは長い。



同窓会で再会して、付き合って、結婚して、それで…。


…。


そうだ、結局子供は出来なかったけれど

それなりに充実した日々を過ごしている。


とにかく、若い頃はこんな日が来るのはもっと先だと思っていたけれど、あっという間だった。




それにしても、夜中に目が覚めるとは、もう年だということだろうか。



数えてみれば今年で48だ。

50手前だという事実にうなだれる。



睡眠が短くなるというのはこのことか。

寝覚めが悪く、頭がぼんやりしているのにも

加齢を感じる。




(今、何時だ?)




タンスの上においてあるデジタル時計は

1時32分を指していた。



この時間ならまだ、いつもの起きる時間まで一寝入りできる。



が、ちらっと紗矢子の方を見て、出来心がわいてしまった。

上下する肩を越え、頬に触れると、

眉間に寄ったしわに意思が表れる。



手を引っ込めて、素直に布団をかぶって目を閉じた。


やにわに枕元で眩しい点滅とバイブレーションが起こる。

嫌でも目を開けさせてきやがった。




(紗矢子ほどではないが)眉間にしわを寄せ、顔の見えない相手を威嚇しながら、「誰だよ。」とスマートフォンを充電器から外す。





「は?」




画面に表示されたのは見覚えのない名前。



【辰也】



いや、番号ではなく名前が表示されたということは、電話帳に登録していることは明らか。


恐らく“たつや”と読むのだろう。

どんな関係でどんな人だったか思い出せないが、下の名前だけというところに、

親密な仲だということが分かる。



中学の頃の同級生か、親戚の誰かか…



(顔を思い出せないってどういうことだよ…)



大きなため息が出る。



相手が誰だか知らないけれど

こんな夜中に電話してくるということは

よほどのことがあったに違いない。


頭がぼんやりして瞼も重いが

受話器のマークをスライドさせて

スマートフォンを耳に当てる。





「もしもし?」

『…ザッ…ーッ…ザザザー……』



ノイズが酷くよく聞こえないが

どこか山道を歩いているような音がする。



「は?もしもし?」

『…ザッ…ザザッ…プツッツーツー』

「…なんだよ。」



せっかく出たのに電話が切られると

むかっとするもんだ。



ポケットに入れていたスマートフォンの

変なところに触ってしまって、

勝手に電話を繋いでしまったというオチだろう。




(だとしてもこんな時間に山って…。

 いや、深く考えるのはよそう。)





俺は大きなあくびをして、

手元をよく見ずに、スマートフォンを元々置いていた台へ置く。



その時、手になにか触れた。





カチャンッ




「〜あーっもう、ちっ。」





つのった苛立ちを、

頭をかいてごまかしながら、

枕元に落ちた何かを拾い上げる。





暗闇にすっかりなれた俺の目は、

手の中のそれに釘づけになった。




それは写真立てだった。





どこにでもある簡素な作りの写真立てで、

落ちた衝撃のせいか、ガラス板にヒビが入っている。




俺が動きを止めたのは、ヒビのせいじゃない。

中に入れられた写真のせいだ。





そこには、俺と紗矢子がはにかみながら、フォーマルな格好をして写っている。




その、二人の間。




俺よりも背の高い、袴姿の青年が照れ笑いしていた。

撮っていた場所は、実家の前だ。


どこからどう見ても、自分の子供の成人式を祝う写真だ。







(どういうことだ?なんだこれ?

 俺には、俺達には子供なんて…。)





子供…、息子。




その単語によって、記憶が溢れ出す。



写真を持つ手が震えた。





(子供がいないって、何言ってんだ?

 結婚して2年目に子供を…辰也を

 授かっただろ?

 こうやって狭い部屋に二人いるのも

 あいつの子供部屋作るためだ。

 なんだ、客室って。

 つい昨日の夜、辰也も大学2年生かって

 話したばっかりだろ?)




写真立てを戻し、スマートフォンの電源をつけ、通話履歴を見る。





(辰也…辰也だ。たしかに辰也からの着信。

 記憶がごそっと抜けてから

 辰也からの電話が来るって、

 これ、何かおかしいぞ。)



胸騒ぎが、

辰也の身になにか起きていると訴えている。



(辰也は今日、友達と遊びに行くとか

 言ってたな。

 とりあえず電話だ。

 何もなかったら笑い話ぐらいになるだろう。)



履歴から通話を試みるが、

留守電になることもなく、呼び出し音だけが虚しく響く。


「…くそっなんで出ないんだ?」




だんだんと焦りが増してきた。

さっきあったノイズ混じりの通話が

不安を煽ってくる。



視界の端に、人影が揺らいだ。




「ひっ…!…なんだ。」




それは紗矢子だった。


ベッドから上半身を起こした紗矢子が

背を丸めぼーっと遠くを眺めている。



普段まとめている肩上までの髪が、

ちりじりと広がって顔を覆っていて

少し不気味だ。



「ごめん。起こしたか?」


俺はスマートフォンを側に置き振り向いた。


「…。」

「あのさ、紗矢子、辰也ってどこ行ってるか

 知ってるか?」

「…たつやぁ?」



寝ぼけているのか、口調がゆっくりだ。





「電話が繋がらなくて…。

 いや、何かあった訳じゃねえんだけど

 気になって…。ははは。」

「…たつや、たつや……。」




紗矢子はゆっくりとこっちを見た。


魚みたいに、感情のこもってない瞳だ。

そして、「誰?」とだけ呟く。



今までかいたことのない脂汗が滲んできた。




「お、おい、どうした?

 辰也だよ。…息子の。」




紗矢子は口をあんぐりと開け、

目だけで上を見る。




「む、す、こぉ…?」




顔が右に傾くのに合わせて

両方の目が、ずるっずるずるっと

右端に落ちていく。



そして、口端からよだれを一筋垂らした。




全身に鳥肌が立ち、俺は紗矢子に飛びついて

両肩を掴んだ。




「辰也だよ、息子の辰也だっ。

 俺達の息子だ。

 誰?じゃないだろ?」



肩を揺さぶり、声をかける。


が、変わらず遠くを見たままだ。


俺はこのまま紗矢子が辰也のことを忘れてしまうんじゃないか、そんな危機感を感じて、

より強く肩を握り、声を上げる。



 「名前は辰也がいいって言ったのも、

 子供部屋作ろうって言ったのも、

 成人式は袴がいいって言ったのも、

 全部全部お前だろ!紗矢子!

 しっかりしろよ!」

「…あ、わああ!私、私…!辰也ぁ…!」




紗矢子は顔を覆って泣き出した。




息子を忘れたショックが濁流のように襲ってきたらしい。




元々、繊細な紗矢子は一度泣き始めると冷静に会話ができなくなる。



俺はただ、紗矢子が辰也のことを思い出せたことにほっとしていた。




『…し…おーい…。』



遠くから聞こえた声にはっとして、

俺はスマートフォンを耳に当てる。



『親父、何?』

「辰也か?」


辰也が笑う。


『辰也か?って親父がかけてきたんだろ?』

「そうなんだけど…。おい、今どこにいる?」

『え?…今?…あー、友達の家。』

「本当か?」

『ほ、本当だって。ははっ何?』

「帰ってこい。今すぐ!悪いけど!

 今すぐそこから離れろ!」

『は…?な、なんで…。てか、誰か泣いてる?』

「そんなこといい!とにかく早く帰ってこい!」




自分でも馬鹿なことを言っていると思ったが

とにかく、その場所から辰也を引き離さなければならない気がして、必死に訴えた。



辰也は『分かった。すぐ帰る。』と

しぶしぶ了承して電話を切った。



俺は声を引きつらせて泣く紗矢子の肩を

抱いて背中をさすった。










落ち着きを取り戻した紗矢子と話すと

紗矢子も俺と同様に、

辰也に関する記憶が抜け落ちていたことが分かった。



肝心の辰也は、明け方になって帰ってきた。



紗矢子はすっかり母親の顔になっていて

「すぐにと言ったでしょ?

 近所の友達の家に行ってたんじゃないの?

 なんでこんなに遅いの。」と

問いかける。




辰也は、顔を真っ青にして

「ごめん、実は…。」と話し始めた。




近所の友達というのは事実だったが、

酒を飲み気分が高まったところで

「暇だし、心霊スポットに行かないか?」

という話になり、

心霊スポットをまとめたサイトで

最恐と太鼓判が押されていたAという廃トンネルに行くことになったそうだ。




近くまで車を走らせ、山道を登り、

いざトンネルを前にしたら、

ライトもなく真っ暗で、おどろおどろしく怯んでしまった。



入るかどうか話し合っているところへちょうど俺からの着信があり、

家に戻ることを決めたのだという。




「お前から電話かけてきただろ?」

と言うと、かけてないけど、と言いながら履歴を見始める辰也。



そして、発信履歴にある“親父”の文字に顔を引きつらせた。



その時間は丁度、山道を歩いていた時だと、声を震わせながら辰也は言った。






後日、Aトンネルについて調べてみた。




ここは本当に恐ろしいところらしく

どこの情報にも、行くなと書いてある。



幽霊が出たとか、心霊写真が撮れたとか

体験は様々だが、必ず共通して

“行方不明者が出た”とあった。





俺は思った。



本当に行方不明になったのだろうか。




実は、本人は生きているのに、

身近な人全員の記憶から消えていて

認識もできなくて

帰ってきたことに気づけないだけなのではないかと。



丁度あの日、俺と紗矢子が辰也のことを忘れてしまったのと同じように。





俺は思う。



あの、辰也の記憶がすっかり抜け落ちたあの時が、

辰也が、生きて帰ってこれるかどうかの境界線だったのではと。




紗矢子が「誰?」と言ったあの時が

その境界線を越える瞬間だったのではと。





俺はあの、虚ろな紗矢子の目を思い出す度、

ゾッとする。





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