第23話 手が招く



夕飯にと、

会社帰りに買ったコンビニ弁当は、

すでに空にしてゴミ箱の中に押し込んである。



部屋の角に斜めに置いたテレビが眩しいが、

机に肘をつきながら見るというこだわりを曲げたくはない。



机を離せばいい話なのだが、

それだとテレビは見えづらくなるし、

何しろこの部屋の狭さだ、

そう変わりはしないだろう。




それに、

腹ごなしの惰性で適当な番組を流しているだけで、それ自体に執心ではないのだから、

眩しかろうがどうでもいい。




『違いますよ~。』

『はははは!』




今しがた始まったバラエティー番組では、

視聴者の飽きを察してか

派手な笑い声のエフェクトを掛けて

2年前からずっと続いている

司会者と芸人の掛け合いを流している。




右手に掴んだ缶の中にあるのは、

貧乏くさくけちけちすすり、

気が抜けてうまさを感じなくなった

半量ほどのビール。




こんなつまらない生活を吐露した時には、

同期の木山は憐れむような眼を向けて、

「つまらないのは佐藤っていう名字だけにしとけよ。」と俺をなじった。




それは、「ありきたりでつまらないもんだよ。」とぼやきながら、

名字と違い、まだ変えることが出来る生活を、

惰性でだらだらと続けている俺に対する叱責だろう。





何か最近、変わったことがないか…。



考えを巡らせて唯一思いつくのは、

2カ月前、

顔がない異様な男に追いかけられたことぐらいだ。



あの、油絵のように濁ったのっぺりとした顔を思い出すと、今でもぞっとする。




木山に促されて話してはみたものの

信じてはもらえなかったようでいぶかしげな顔をされただけ。




結局、気持ちは晴れず、

怯えながら帰る日が続いたっけ。




帰る道を変えたり、

普段はシャワーですますのを湯をためて浸かったり、早めに寝たり…。


あの突飛な出来事の後、しばらくは生活スタイルが変わった。




しかし、それは男に対する恐怖心があった間だけ。


結局1カ月経つ頃にはすっかり元通りで、

すぐに今までの退屈な生活に納まった。




最近では暇さえあればあの時の光景をわざわざ思い出し、身震いする。



思い出したくもないくせに、何故そんなことをするのか。

自分のことなのに理由が分からず、不思議でならない。









番組は終盤になり、ゲスト俳優やアイドル達による恒例の番宣が行われた。


そして、エンドロールが流れ、CMが始まる。



今は8時。




シャワーを浴びるにはまだ早いと姿勢も変えずに眺める。



CMを流し見るだけの時間ほどつまらないものはあるだろうか。



くるくると色を変える光を顔面に浴びながら、

意識だけが徐々にテレビから遠ざかっていった。






ふと、視界の端に白い1本の筋が見えた。




玄関の隣にある、キッチンの小窓から外灯の光が差し込んでいるだけなのだろうが、

目障りで仕方がなくなり、目をやる。





「…!?」


目の前の光景に、思わず息をのんだ。



自分の部屋から一歩出た先は照明が点いておらず、黒く塗りつぶしたような闇へと続く長い廊下がある。




その左手にはふすまが並んでいてどこも閉まっているのだが、一か所だけ数センチほど開いており、そこから肘から先の白い腕がすーっと伸びていた。




暗闇の中、白さが際立つその腕は、

水中に沈めたタオルのようにゆったりと上下にしなって、

2回だけ招くようなしぐさをすると、

ふすまの奥へと消えていった。





不思議なことに、不気味さを一切感じなかった。



むしろ、程よく肉のついた指先までしなやかに動くその腕の美しさに、心が奪われた。



きっと女性のものに違いない。




考える間もなく、俺は立ち上がり廊下へと歩き出した。






ギシッ…




ギシッ…





床に張られた古い木の板が俺の体重で沈みきしむ。



下手に大きな音でも立てて、あの腕の主を怯えさせてしまっては大変だ。


なるべく静かに足を下ろして、慎重に歩みを進める。


ようやく、ぽかりと口を開けたところへとたどり着き、ふすまに手をかけて自分の体の幅だけ開いた。



敷居に油が塗ってあるかのように、

ふすまはわずかな音だけを立てて滑らかに動いた。





中は畳の敷き詰められた10帖ほどの和室だ。




入ってすぐ正面には、ほの暗い空間の中にぽつんと1つだけ、総桐の背の高い衣装箪笥があった。


全体の3分の2を占める観音扉には真鍮の飾り細工が、

3段の引き出しそれぞれには菊の模様をあしらった真鍮の取っ手がついている。




その厳かさに、思わず側へ寄って正座をした。




俺が座ると同時に、キィ~と音を立てて扉が少しだけ開く。


真っ暗なそこから、あの白い腕がすっと出て手招きをした。



その指先の動きの優雅さったらない。




(なんて綺麗なんだ…。)




手招きに惹かれ、左膝を立ててはっと気づく。







(ここ、どこだ?)






俺の部屋の間取りは1Kだ。



自由に使えるのは、

テレビを見ていたあの場所しかない。



こんな和室なんて存在しているわけがない。



だいたい、先の見えない廊下なんておかしい。


いくら照明が点いていなくても、リビングの光で玄関まで見えるし、第一廊下の床はあんな古い木は張られていない。




違和感に気づいて、さーっと血の気が引いた。




それに気づいたかのように、

目の前で優雅に手招きをしていた白い手が、

みるみるうちに土気色に変わり、

ごつごつと骨ばっていく。




そして、指間膜しかんまくをいっぱいに引き伸ばして広げ、こちらに迫ってきた。





「ひっ!うああああああ!」




慌てて立ち上がり、開いているふすまへと走り出す。


畳で足が滑り上手く走れないのを、

後ろから右足首を掴まれ引き倒された。



片足しか掴まれていないというのに、

力が強くずるずると引かれていく。



無い爪を畳に立て、必死に抵抗しながら、

腹ばいで前へ前へと腕を伸ばす。




(一瞬でも気を抜けば、連れていかれる…!)




「くっ…が…!」



歯を食いしばり、指先に全身の力を込めて体をふすまへと引き寄せる。



足首を掴む手の力はさらに強まり、指が食い込みそうなほど締め上げた。




「くっ!」




その痛みに顔が歪むが、抵抗をやめるわけにはいかない。


右腕を伸ばし、ふすまに指をかけて思い切り体を引き寄せる。


頭が和室から抜け、廊下へと突き出た。










「…はあ!はあ、はあ…。」



息を喘がせ、見開いた目の前には見慣れた床。


耳に聞こえるのは、テレビから流れる流行りの音楽。




(寝てる場合じゃない!あ、あの手は!?)




勢いよく上体を起こして周りをきょろきょろと見渡す。


自分が起き上がったのは、

和室ではなく、

テレビと机だけしかないいつもの部屋。



恐る恐る四つん這いのまま後ろを振り返れば、

こじんまりとしたキッチンと、

短い廊下の先にある玄関が見える。




頭がはっきりとしてきて、段々と状況が掴めてきた。



俺はテレビを見ながら寝てしまい、床にうつぶせになっていたらしい。


姿勢に無理があり、嫌な夢を見てしまったようだ。




「なんだよ…もう…。」

と半身を翻し、足を伸ばしてずきんとした痛みを覚えた。





「痛っ…。」


痛みのある所を見て、目を見開く。



ズボンの裾から出た足首に、くっきりと手の跡が残っていた。




「えっ、えっ!?」



足を引き寄せ角度を変えて見るが、

どこから見てもはっきりと人の手と分かる跡がついている。



後ろから前へと、指がまわっている。



和室で引き倒され、うつ伏せになって引きずられた、あの時についたとしか思えない。




体が震え、冷や汗が背中に流れた。





(う、嘘だろ…。あれは、夢じゃなかったのか…?)





恐怖で支配される頭。




上手く思考できず呆然と痣を眺めているうちに、ふと俺の中に妙な気持ちが湧いた。





(おいおい…なんで…なんで俺は、少しわくわくしてしまってるんだ?)




自分でも訳が分からない。



突然変なところに迷いこんで腕に引きずられて、夢かと思ったら足に痣がついている。




こんなに恐ろしいことにあったにも関わらず、

恐怖で占められた心の中、

ほんのりと温かな気持ちが芽生えているのを感じる。




少し考えて、すぐにその気持ちの正体に気づいた。




それは、嫌だと思いながら繰り返し顔のない男のことを思い出していた謎に通じる答えでもあった。





恐怖の中にぽっと現れた、温かな気持ち。

その正体は、喜びだった。




退屈な日々に突如として現れた恐怖の現象は、

例え負の感情であろうと、

死んだと思っていた俺の心に血を通わせたのだ。




我ながら正気を失ってしまったのかと思う。




ただ、俺が遭遇した顔のない男や白い腕のように、恐ろしいものを探求することは、

代わり映えのない生活から脱却する頼みの綱になる気がしてならない。




右足首にくっきりとついている

赤黒く変色した手の痣に

ありきたりでつまらない日々に変化をもたらす

希望を見いだして、

俺は胸を高鳴らせていた。




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