牛鬼

 ざわざわと草木が揺れる。黒い泡が浮かぶと共に淵の水が瞬く間に濁り、身の丈が八尺はあろうかという影が現れた。牛の頭に、体は筋骨隆々の鬼ときている。左腕は肘のあたりから斬り落とされており、断面は汚い肉塊となっていた。

 角に巻き付く色褪せた臙脂の組紐と、腰回りを包む藁の腰巻の他は何も身につけていない。水面から突き出た岩にどっかりと腰掛けて暫し遠くを見つめていると、呼びかけるものがあった。

「猛(たける)、何を物思いに耽っておるのじゃ。まさかまたあの女のことではあるまいな」

「すまん。どうしても頭に浮かぶ時があるでな。許してくれ」

「妾は彼奴が嫌いじゃ。次に罷り間違ってあの姿に化けた暁には、この淵ごと斬り捨ててくれようぞ」

「手厳しいな。某とて気を遣ってはいるのだぞ」

「ふん、どうだか。まぁ良い。それよりも久方ぶりに美味そうな匂いがするではないか。早う肉を切り裂いてみたいのう」

 楽しそうに笑う声を聞いて、牛鬼も口元を緩める。変に噂が広まったのか近頃は通りかかるもの自体めっきり減ったが、此度はまともな食糧になりそうだ。自然と口の中に涎が溜まり、鼻息が荒くなる。

「腹が減っておるのじゃろ。しかし急いては事を仕損じる。うまく化ければ妾もたんと力を貸す故、焦るでないぞ」

「おうとも」

 牛鬼はひとつ返事をすると、岩から離れてざぶりと水を掻く。一歩進むごとにその体が小さくなり、岸に着く頃には痩せた人間の女性の姿に変わる。人の気配はもうすぐそこだ。2人組の男が通りかかるのを見計らって、女は彼らの目の前へ力無く倒れ込む素振りを見せた。もちろん牛鬼の演技だ。

 震える体を抱きかかえるようにしながら、か細く助けを呼ぶ。物陰から突然現れた女に男達は面食らっているようであった。しかし二人は顔を見合わせると、女を助け起こそうと背負っていた籠を下ろして近寄る。

「もし、具合でも悪いのかい」

「今起こしてやるからしっかりしんさい」

 一人が女の腕を掴んで起き上がらせ、もう一人が脇へ体を差し込むようにして支える。二人で左右から肩を貸し、ぐっと持ち上げようとしたところで急に女の体が岩のように重たくなった。あっという間に女の体は膨れ上がる。

「っ……!?」

 支えていた男たちは地面に押さえつけられそうなほどの重さに身動きが出来ない。

「助けてくれてありがとう」

 にぃと牛鬼が笑うと、背後から風を切る音が聞こえた。男たちが気付いて振り返る間も無く二つの首が宙を舞う。空中で器用に一回転して刃についた血を振るうと、刀は牛鬼の目の前に突き刺さった。

「相変わらず恐ろしい切れ味よの。某まで斬ってくれるなよ」

「きちんと避けたじゃろ」

 悪びれもせず述べる声に、牛鬼は肩を竦める。だが左腕がない今、助力があれば狩りが楽になるのは事実だ。あまり不機嫌にさせては本当に斬られかねない。ここは大人しく黙るが吉と判断し、牛鬼は首の落ちた死体を肩に担ぎ立ち上がった。

 八尺の体が地面をめり込ませる。その後を楽しそうに跳ねながら少女がついていく。食事の時間だ。


***


 百鬼夜行が桑名に差し掛かったあたりで、大蛇は雲を降りた。総大将に一声かけるべきか迷ったが彼のことだ、新顔は把握しているだろうし方針的にも勝手に抜けたところで責められはしないだろう。

 懐かしい紀州の山に思いを馳せる。宴の夜からずっと深雪のことを考えていた。だが、何も手掛かりがない。それでも結ばれる運命だというのなら、まずは自分と縁のある地で探そうと思った。

 南伊勢の五ノ浦の淵に牛鬼が出るという噂を聞いたのは、程なくしてのことだった。女に化けて人を襲うという話だ。深雪とは一見関係が無さそうだが、大蛇には引っかかる部分があった。

 なんでも、襲われた者はみな刀で首を斬り落とされているらしい。仲間を見捨てて命からがら逃げ出した村人がそう話していた。しかし牛鬼が刀を携えているという話を少なくとも大蛇は聞いたことがない。

 それだけなら大したことではないが、もっと決定的なのは刀の意匠である。白い刀身に流水を象った鍔、柄巻は牛革。その特徴は大蛇が腰に差している刀とそっくりだ。牛鬼を訪ねれば何か分かるかもしれない。この機会を逃す手はない、と男は南伊勢を目指した。

 人型を取っている大蛇は口の左端から頬にかけて走る傷跡をゆっくりと指先でなぞる。いつの間にか癖になってしまった。引き攣れた刀傷は左側だけ長く垂らした前髪によってその殆どが隠されており、着物も袴も髪も黒い中で血色の悪い肌と血の如く赤い瞳が対照的に目立った。

 ざり、と砂利混じりの土を踏みしめながら山の奥へ進んでいくと、大きな淵が見えるところに出た。さては此処が噂の場所かと大蛇は周囲を警戒しながら近付いていく。一歩、二歩。距離が縮まるたびに淵の水が濁る。ごぽりと音を立てて黒い泡が浮かび、牛鬼が姿を現した。肩には人間と変わらない姿をした小さな少女が乗っている。

(刀はやはり持っていない……)

 八尺ある図体を見上げながら大蛇は牛鬼を観察した。

「何の用だ。返答によっては、不味そうだが此処で喰ろうてやろう」

 牛鬼が鼻を鳴らしながら眼前の大蛇へと言葉を投げかける。事の次第ではいきなり斬り合いになるかと考えていた大蛇は、牛鬼に話を聞く気があることに少し安堵した。大蛇の姿に戻れば牛鬼の体躯にも充分張り合えるが、噂に聞いた刀の存在が気になる。どう話を切り出すべきか迷っていると、牛鬼の肩に乗っていた少女が何かに気付いて口を開いた。

「お主……もしや蛇琵か」

「何故知っている」

「さぁ、何故かのう?」

 けらけらと笑って大蛇の質問をはぐらかすと、少女は立ち上がって更に高い所から大蛇を見下ろす。

「まずは最初の質問に答えよ。いったい何用で此処に来たのじゃ」

「……この淵の噂を聞いた。人間が襲われ、刀で首を斬り落とされて喰われる、と」

「ほうほう。それで敵討ちでも頼まれたか」

「いや、刀について聞きたいことがあって来た。人助けなど請け負っていない」

「ならばその身で試してみるかえ」

 少女は肩の上で下駄を二回とんとんと突くと、一気に飛び降り加速して大蛇に向かってくる。その姿は空中で崩れて変形し、禍々しい気を放つ刀へと変わった。

「……っ!」

 大蛇は咄嗟に抜刀して受けたが、鋭い刃筋は軽々と男を吹き飛ばし背後の木へと叩きつける。その衝撃で幹が軋み、大蛇は血を吐いた。

「口程にもないのう。猛、此奴弱いぞ」

「扱えもしない鈍刀なんぞ提げとるからだ」

 刀は地面に着くと同時に少女の姿に戻っており、声を上げて二人は可笑しそうに笑っている。大蛇は口元を拭って刀を支えに立ち上がった。

「俺は争いに来たわけじゃない。お前たちの縄張りを荒らす気もない。人探しの手掛かりが欲しいだけだ」

「随分と軟弱になったものよな。人を喰い漁っておった頃の方が良い男じゃったのに」

 少女の言葉に大蛇は目を見開く。大蛇が人を喰ったのは雪姫が最後だ。つまり、少女はそれより前の大蛇を知っていることになる。先ほどの攻防と噂に聞く刀の特徴を思い返す。即ち目の前の少女は。

「お前が……雪姫の刀そのもの……?」

「嗚呼、その名は嫌いじゃ。妾を押さえつけ従わせ……鞘に閉じ込められ、あの頃は力の半分も出せなんだ。忌々しい」

「そういえば、お前は俺を殺したがっていたな」

 初めて雪姫と蛇琵が出会った日も、雪姫の刀は殺意に満ちていた。それを思い出しての発言だったが、少女は首を傾げる。

「妾はむしろ感謝しておるのじゃぞ。お主が彼奴を喰い殺してくれたおかげで妾は」

 解放された、と言い切る前に蛇琵が横一線に振り切った刀が仰け反った少女の前髪を掠めた。そのまま地を蹴ってくるりと後方に回転し、何事もなかったかのように着地する。

「争う気はないと言うておったではないか。話を出した途端その反応……よほど悔いておると見える」

「翠(みどり)、そろそろ遊びも終いにしてはどうか」

「まぁ待て、猛。どうせ此奴に我らは殺せぬ。少し昔話をしてやろうではないか」

 そう言うと、少女は蛇琵の返事を待たずに牛鬼の肩に飛び乗って話を始めた。


***


 雪姫という女は、妖怪退治を生業とする一族の長の娘であった。一族が所有する武器庫には数多の武器が納められていたが、その中でもとりわけ危険とされたのが翠霞流水剣(すいかりゅうすいのつるぎ)という曰く付きの妖刀だ。作者は無名の刀匠だが、創り出した刀は強力だった。鞘から刀を抜いた人間は、死因は様々であれど例外なく早逝した。持ち主の寿命を削り取って喰らい妖力を増幅させるとも言われており、部外者は勿論のこと一族の者ですらまともに刀を扱える者がいなかった。

 そんな状況を一転させたのが雪姫だ。黒塗りの鞘から白い刀身を抜き放ったときの彼女は、弓も槍も薙刀もしっくりこなかったがこの刀は不思議と手に馴染む、と宣った。

 禍々しい気を放つ刀は持ち主となった雪姫すら斬り殺そうと時に暴れたが、女にしては腕っぷしの強い雪姫に押さえつけられ敵わない。刀すなわち翠はそんな雪姫のことが心底嫌いで、早く斬り捨てたいと苦々しく思っていた。黒漆を塗った鞘は翠の力を封じ込め、雪姫が鯉口を切らなければ抜け出すことも難しい。抜刀している間は雪姫がしっかりと握っているので、これまた翠にとっては面白くない。暫し両者の争いは続いた。

 扱いにくさはあったが、こと妖怪退治において翠の殺傷力は非常に役に立った。本気を出せばもっと簡単に殺せたものを、とは翠の言である。雪姫は「弱きを助け強きを挫く」を体現する人物であり極悪な者は徹底して排除したが、弱い妖怪や改心の見込みがある妖怪については命まで取ることはしなかった。

 そうやって見逃された妖怪のうちの一匹が蛇琵である。初めて雪姫と出会った時、蛇琵は小さな蛇だった。大した力もなく、妖刀である翠に怯えて逃げ出したくらいだ。端的に言って弱い妖怪であり、雪姫も刀を抜かず優しく対応した。この時かけた「怖がらないで」という言葉は、本心からだったのだろう。雪姫は持っていた握り飯を一つ蛇琵に分け与え、味わう間もなく丸呑みにしてしまう蛇琵を可笑しそうに見つめていた。蛇琵自身はその握り飯の味を美味かったと記憶しているが、遠い記憶の中でその真偽を推し量ることは難しい。

 雪姫が蛇琵に入れ込んでいると感じていたのは翠だけではなかったが、不服ながら常に行動を共にしているだけあって翠には雪姫の変化が手に取るように分かった。この頃には既に抜け出すことより妖怪を切り刻むことに楽しみを見出していた翠は蛇琵を斬ったら楽しそうだと考えた。

 どうにかして雪姫と蛇琵を引き裂けないか。翠の出した結論は、大人しくしていることだった。格段に扱いやすくなった刀を雪姫も一族の者も重宝し、雪姫は遠征も任されるようになっていった。出世と呼ぶのが正しいかは分からないが、遠くへ出向けばそれだけ蛇琵と会う時間は減る。

 翠は狡猾であった。蛇琵が人型に化けられないことも知っていたし、だからこそ雪姫が見逃していると承知していた。本人に自覚がなくとも、蛇琵が雪姫を慕っていることも明白だった。待ち侘びた蛇琵は必ず力を求める、そこに人を喰えば強くなれると何処からか吹聴すれば必ず人を喰う。雪姫に匿われて世間をあまり知らない蛇琵は純粋故にそうすると翠は確信していたのだ。

 翠の思惑通り、蛇琵はどんどん力をつけていった。最初は死体からだった。それを知った雪姫は驚いていたが、一族の者には知られないようにと厳しく叱るに留めた。この時点で彼女が退治屋として揺らいでいたことは説明するまでもないだろう。雪姫が長期の遠征に出ることになった時、翠は遂に機会が訪れたとほくそ笑んだ。半年の間、人を喰い続けた蛇琵は最早人間の顔の判別もろくにせず喰うようになっていた。

 帰路の途中で一族の里が襲われたと知らせを受けた雪姫は、まさかと思いながらもまだ蛇琵を信じていた。人間ほど表情が動かず分かりづらいが、少なくとも蛇琵は雪姫の前においては暴走の兆しなど見せてはいなかった。事実、彼は暴走などしていない。ただ、純粋に。悪いことだとは微塵も思わずに。雪姫の隣に人の姿で並びたいと願っただけだった。

 里から蛇琵が隠れ住む洞窟まで続く血痕を追って雪姫は歩いた。里には父の姿が無かった。それでも一縷の希望を抱いて蛇琵の元へたどり着いた彼女を待っていたのは、自分の匿った妖怪が無残に肉塊と化した愛する父親を喰いちぎりながら笑顔で踏みつけているという残酷な現実だった。

 雪姫は「弱きを助け強きを挫く」を体現する人物である。弱い者、改心の見込みがある者は見逃してきた。だが、生かしておいても大丈夫と判断した相手でも強くなりすぎれば刃を振るうことが出来る人間でもあった。抜刀の勢いは凄まじかったが雪姫の体は可哀想なほど震え、そして今にも泣き出しそうな表情をしていた。

「私は、お前がいればそれだけで良かったのに……っ」

 ついに溢れ出した涙で歪んだ視界と震える手元では、強くなった蛇琵を捉えることは出来なかった。もう一度構えろと翠は訴えたが、雪姫は茫然としていて刀を持ち上げない。大蛇の姿に戻って大口を開ける蛇琵にも目の前の雪姫の姿はもはや見えていないようだった。勝手に斬ってやろうと思ったが、雪姫は刀を離さない。仕方なく翠は予定を変更し、雪姫の腕を斬り落として呑み込まれるのを避けた。

 ずる……ずる……と大蛇の巨軀が洞窟のさらに奥へと消えていくのを見届けて、翠は腐り始めた雪姫の手を振りほどいた。大蛇の毒が滲みた雪姫の腕は酷く醜い色だ。鞘と持ち主がなくなったことで本来の力が戻った翠は、およそ百年振りに人型を取ると意気揚々と洞窟を抜け出したのだった。


***


「お主を斬るというところは失敗したが、まぁ概ね妾の計画通りよ。自分のせいで……等と筋違いの悔恨に浸っているのであれば滑稽じゃな」

「…………」

 楽しそうに翠は嗤う。大蛇は言葉が出ない。ふざけるなと憤りたいのに、それより先に出たのは別の言葉だった。

「なんで、こんなところに」

「?」

 予想していた反応と違ったからだろう。翠は疑問符を浮かべて首を傾げる。決裂が仕組まれたものだったとしても、既に大蛇の中で雪姫のことは決着がついていたのだ。無かったことにはしないが、過去のこととして消化されている。それは紛れもなく、彼の話を聞いて気持ちと記憶を整理させてくれた深雪のおかげだ。彼が今求めているのは深雪であって雪姫ではない。

 ずっと黙って聞いていた牛鬼が口を挟んだ。

「昔話なら某にもあるぞ」

「なんじゃ、猛があの女に惚れた話をする気かえ。つまらなさすぎて欠伸が出るわ」

「むぅ、翠は雪姫のことになると手厳しいな。だが、翠がこの淵へやって来た理由を語るには必要だろう」

 大蛇が知りたいのはまさにそこだった。洞窟から抜け出した翠は何故ここに来たのか。不満そうだが、納得する部分もあったのか翠は黙った。

「簡潔に言えば、雪姫がこの淵に来たことがあるのだ。あの頃も某は常と変わらず女に化けて人を誘い込み、喰らっておった。そこへやって来るなり正体を見破るばかりか、一瞬のうちに左腕を斬り落としおった」

「いきなりか?雪姫はそんなやつじゃ」

 大蛇は思わず反論したが、まぁ聞けと制されて口を噤む。

「どうやら麓の村の奴らの告げ口を聞いて討伐に来たらしかった。某からすれば腕のみ、それも利き腕でない方を斬り落とすだけで刀を納めたのは充分甘い対応に感じた。だが情けないことに某は戦意を喪失し、さらには彼女の美しさに見惚れてしまったのだ」

 翠は不機嫌丸出しでそっぽを向いている。

「人を喰うのはどういう気持ちだ、と聞かれた。某は生きるためだと答えた。すると雪姫は、某を殺さないと宣った。その代わりに村人に教えるから某の弱点と生態を全て曝け出せ、とな。黙っていれば良いものを某は惚けた気持ちで洗いざらい全て白状した。そうして村の者はこの淵に一切近寄らなくなった。某は文字通り毒を吐く。住み慣れた淵の側から離れられん。満足に食事も出来ない日々が続いたが、それでも雪姫のことが忘れられなかった」

「それがこの刀とどう繋がるんだ」

「黙って聞け、この毒蛇。それに妾には翠という名がある」

「それを言うならお前も名前では呼んどらんな」

「……煩い、死んだ女のことなどもうどうでも良かろう」

 翠は遂に完全に背を向けて不貞腐れてしまった。出会い頭の印象とはだいぶ異なる。牛鬼は少し口を曲げたが、話を続けた。

「それからどのくらいだったか、翠が訪ねてきた。少女の姿でな。なんでも一目惚れだとかなんとか言って」

「は、?」

「猛!それは言葉の綾だと何度言えば……ッ」

 勢いよく振り向いた翠の顔は真っ赤に染まっている。すぐにまた後ろを向いてしまったが、あぁなるほどそういう関係かと大蛇は一人勝手に納得した。どうりで妙な組み合わせだと思った。点と点が繋がって謎が一つ解けた気分だ。

「翠はこう見えて素直なのだ。口は悪いが」

「関係は分かった。その経緯もな。だがもう一つ聞きたいことがある」

 大蛇にとっては一番重要な質問だ。転生後の深雪を探す手掛かりが欲しい。大蛇は手に持っていた刀を鞘に納め、帯から抜いて示した。

「この刀について何か知らないか。何でもいい」

「……雪霞流水剣(せつかりゅうすいのつるぎ)」

「……!」

 口元は見えないが、翠の声で告げられる刀の名前。意匠だけでなくその名まで瓜二つとは。

「妾の写しじゃ。そのような粗悪品と比べられるのも煩わしいがのう」

 くるりと振り返った翠はすっかり調子を取り戻している。本人がそう言うのなら、本歌は確かに翠なのだろう。実際、深雪の刀に翠ほどの力がないのは明白だ。意匠を踏襲しただけで、纏う力の性質も異なる別物である。翠はそれが気に入らないらしかった。

「妾を打った男は生意気にも銘を入れなんだ。それを良いことに勝手に真似て作られた贋作が雪霞流水剣よ。妾と同じように別の退治屋の里の武器庫に眠っておったはずじゃが、お主がそれを持ち歩いておるということは……探しているのは刀の持ち主かえ」

「……あぁ、そうだ。何か心当たりが?」

「ないのう。そも、退治屋なら暴れれば現れるのではないか?のう、猛」

「刀を奪ったなら勝手に追ってくるだろうが、どうやらそういう事情じゃあなさそうだな」

「俺は……一度死んでる。記憶を引き継いだまま転生した」

 どうしても見つけ出したいんだ、と大蛇は深雪とのことを掻い摘んで語った。ひと通り聞き終えた二人は、なんとも言えない表情をしていた。

「そもそも向こうが記憶を引き継いでいるかも分からんのだろう?そんな状態で日の本全て虱潰しに探すつもりか」

「妾も退治屋の里の場所くらいしか渡せるものがないのう。もっとも、それも教えてやるかは分からぬが」

 翠は意地悪く嗤ったが、大蛇はゆっくり頭を下げる。

「……教えてくれ。少しずつ探していくしかないんだ」

 人に化けた蛇琵の黒髪が肩から滑り落ちて流れた。牛鬼と翠は顔を見合わせる。

「本当につまらん男になったものじゃ。里の場所を教えたらさっさと山を出ていくが良い」

「……あぁ、そうする。こんなにきちんと話が出来るとは思わなかった。礼を言う」

「今からでも斬り合うか?妾は一向に構わぬぞ」

「こら、翠。こんな毒塗れのひょろいのを喰ったところで腹は膨れん。むしろ腹を下しそうだ。かといって死体を運ぶのも面倒、ここは借りを作っておくのも悪くないのではないか」

「随分な言われようだな。まぁ間違ってはいない。次に会うことがあったら借りは返そう」

 ふん、と再び不機嫌になってしまった翠を二人がかりで宥め、里への道を聞き出した大蛇はもう一度頭を下げると山を降りていった。

「猛は牛鬼の癖に変なところで甘いのが駄目じゃ。人を喰ってはいるが、本来はもっと獰猛で残忍な種族であろ」

「その方が好みであればそうするが」

「なっ、何を言うておるのじゃ、妾は……!」

「皆まで言わずとも良い良い。某も今の翠がめっぽう気に入っている」

「……ッ」

 言い返す語彙が見つからず唇を噛んだ翠は誤魔化すように刀に変化する。そのまましんと静まってしまった翠を、牛鬼はそっと撫でようとしてその手を引っ込めた。下手に触って切り刻まれたらかなわない。

 思わぬ来訪で少々疲れたことだし、と寝床に転がると間もなく目蓋が重たくなってくる。

(腹、減ったなぁ……)

 睡魔と空腹を天秤にかけ暫くうつらうつらとしていたが、やがて睡魔に負けた牛鬼は大口を開けて鼾をかき始めた。


***


 ごぽり。

 黒い泡が浮かび、淵の水が濁っていく。噂を知らない通行人はそれに気付かない。今日の標的は一人の人間の男だった。呑気に歌を口ずさみながら切り株に腰掛け、昼の弁当を広げようとしている。

 竹皮に包まれた塩の効いた握り飯を頬張ると、男の顔が綻ぶ。あっという間に一つ平らげ、水を飲もうとしたところで水筒が空なことに気付く。振ってみてもやはり中身はなさそうだった。男は仕方なさそうにため息をついて切り株の上に弁当を置くと、水筒を持って水辺へ近寄った。ふんふんと鼻歌を歌いながら水を汲もうとした男は、その濁りを目の当たりにして手を止める。

「こいつぁどういうこった……」

 濁りはなお広がり続けており、男の手が届くところまで到達していた。

「さすがに飲む気になれねぇな。場所を変えるか……っと」

 立ち上がって振り向いた男の眼前には美しい女が立っていた。

「もし、飲み水でお困りですか」

「あ、あぁ……あんたは一体……?」

「説明は後で致しましょう。喉が乾いているのでしょう?さぁ、こちらを」

 そう言って女は男の物と似た水筒を差し出した。

「ありがてぇが……変なもんじゃあねぇだろうな」

「疑り深いのですね。では、私が毒味を」

 男の手から水筒を取り上げ、こくりと一口飲む。それを見た男は安堵の表情を浮かべて再び水筒を受け取ると、勢いよく飲み干した。

「よほど喉が渇いていたのですね。もう一本要りますか」

 女は懐から先ほどと同じ水筒を取り出し、一口含んでから渡す。男はもう何も疑っていない。ありがてぇと言いながら、水筒を受け取った。淵を背に立つ男の後ろ。その水面に映るはずの女の姿はなく、映っていたのは八尺ほどある体。だが男はそれに気付かない。

「なんだこの水、ちと苦い、な……ぁ?」

 ぐるりと男の視界が回った。焦点が合わなくなり、胃の腑から湧き上がる吐き気に口元を押さえる。

「が、げぅ……っ」

 吐瀉を繰り返す男が血を吐くようになっても、女は薄く笑みを浮かべるばかりで助ける素振りはない。やがて苦しさに悶える男が倒れ動かなくなるまでただ見つめていた。

「助太刀するなというから黙って見ておれば、これまた今さらといった要領の悪い手じゃな」

「なに、ちと試したかったのよ。某の毒もまだ捨てたものではないな」

「……?どういう意味じゃ?」

「なんでもない。さぁ、腹拵えの時間だ」

「おい、猛!説明になっておらん」

「喰わんのか」

「……ふん。毒と汚物塗れの血など願い下げじゃ」

 ぷいと顔を背けると、翠は猛とは反対方向へ歩いた。

 翠は妖刀だ。肉は喰わないが、刃に浴びた血は翠の力になる。本当は多くの非力な人間よりも、強い妖怪を一体斬る方が効率がいい。例えば、長く生きている者。人を多く殺し喰らった者。強者を斬り殺すたびに翠は強くなる。牛鬼に近付いたのも当初はその目的だった。一目惚れした、などと都合の良い嘘をついて。なのに、いつの間にか牛鬼と仲良く(という表現が適切かは分からないが)人間狩りなどしている。それが当たり前になり、お互い憎まれ口を叩きながらも側にいるのが心地良いと感じるようになってしまった。

 猛から雪姫の話が出るたびに苛々する。旧知の相手にも遭遇して、苛立ちはさらに加速していた。大蛇が探していたのが雪姫なら良かったのに。昔の女を捨てて、一晩を共にしただけの新しい女に走るとは薄情な奴め。あの話を聞いた日から猛の様子がおかしい。急に手を出すなと言ってきたり、何やらこそこそと作っている様子もある。

と、そこまで考えて翠は頭を左右に振り考えを追い払った。

(えぇい。そもそも、牛鬼の癖に優しさなぞ見せてくる猛が悪いのじゃ)

 これでは、まるで。

「……妾が猛に惚れているようではないか」

 少女の姿で座り込み、膝の上で組んだ手に額を押し付ける。この感情に明確な名前を付けてしまったら関係が変わる気がして、どうしようもなくため息が溢れた。これは、ただ心地が良いだけ。それだけだと言い聞かせる。

 ふと、足音が聞こえて翠は頭を上げた。食事を終えた牛鬼が探しにきたのだろう。たったそれだけのことで、猛も側にいることが当たり前だと思っていると知れて嬉しくなってしまう翠自身も、あの日からおかしいのかもしれない。

「此処じゃ」

 翠は木の枝からふわりと飛ぶと、牛鬼の肩に着地する。

「おぉ、案外遠くへは行っておらなんだな。某の探せる範囲で良かった」

「ふん」

 肩に翠を乗せて猛は住処へと踵を返す。腹が膨れ満足げな顔を横目に見ながら、ぽつりと翠が問うた。

「……のう、猛。蛇琵が言うておった心中の話……妙だとは思わぬか」

「突然どうした」

 “満月の夜に心中したものは来世で結ばれる”

 あまりにも都合が良すぎる話だ。迷信と言ってもいい。そんな単純なことで来世が約束されるとは俄かに信じがたい。

「彼奴は信じておるようだったが……つまり生まれ変わった後の因果が強制的に結び付けられるということであろ?」

 所謂、奇跡や運命的な出逢いという括りで偶然前世の相手と結ばれることはあるかもしれない。しかし、話が本当ならそれは最早“呪”と呼ぶべき代物である。

「もしや勘付いていたのか」

「無論じゃ。今の反応を聞いて確信に変わった。猛……お主、鞘を作っておったのじゃろ」

「……いかにも」

 猛は翠が無理心中に持ち込む可能性を考えていたのだ。聞いてしまったからには万が一に備えた策を講じずにはいられなかった。翠を封じるための鞘を作り、一人で狩りをしていた頃のやり方を試し。

「某は、翠を好いている。もう長いこと一緒にいるのだから、そこは信じて貰えるな」

「……」

 翠は黙って頷いた。

「だからこそ、来世まで縛りたくはない。某も翠と同意見だ。あの話は一見御伽噺のように魅力的だが、恐ろしい」

「妾は、己の気持ちが分からぬ」

「……これは驚いた。まだ自覚しておらなんだか」

「?」

 牛鬼は右手でがしがしと頭を掻く。翠は言葉の意味を図りかねて首を傾げた。

「まぁ良い良い。変にしおらしくなられても調子が狂うでな」

「な……また誤魔化しおって……!妾の方が強いのじゃ、少し長く生きておるからと生意気な口を叩くでないわ!斬り伏せてくれようか!」

「はっはっは、その調子だ。翠はそうでなくては」

「……ッ!」

 愉快そうに笑うその姿は、やはり牛鬼らしいとは言えない。鞘は気休めだ。翠がその気になれば、猛が鞘を持ち出すまでもなく一刀の下に斬り捨てられて終わりだろう。それでも鞘を作っているという行為をほのめかす事で、真意を話す機会を作りたかったのだ。

「明日からまた狩りを手伝ってくれるか」

「……猛一人では心許ない故、妾の力を貸してやるだけじゃぞ。毎度血を毒塗れにされては妾の食事がなくなる。あと調子に乗ってあの女に化けたりしたら」

「淵ごと斬り捨てる、だろう。心得ておるよ」

「ふん、分かっておるなら良いわ」

 そう言うと翠は眠たそうに欠伸を一つする。寝床に帰るなり眠ってしまった少女を、牛鬼はそっと撫でた。今なら斬り刻まれることもないだろう。いや、何時でもあってもらっては困るのだが。

 今は透き通っている淵の水は、明日もまた黒い泡と共に濁る。人が通れば牛鬼が誘い、翠が斬って食事になる。何も変わらない。


 ざぁっと吹いた風が、水面に映る満月の形を歪めた。

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