第11話 近田幸子

「37.8度・・・・」


 体温計の数値をぼんやりと見ながら、近田幸子は額の冷えピタをゆっくりと剥がした。

 前夜からの発熱が下がりきらず、頭や節々が痛み食欲もない。


 とりあえず枕元のスマホに手を伸ばす。

 時刻は午前11時になろうとしている。


「起きなきゃ・・・・」


 何か少しだけでも食べて薬を飲もうと緩慢な動きで身を起こす。


 ピコッ


 スマホが鳴った。

 登録してあるニュースのお知らせ機能だ。

 幸子は何気なく画面に目をやった。


「・・・・?!」


 画面上部に出ている文章の中──見覚えのある名前があった。


「田所松江・・・・え、田所ハイツの大家さん?!!」


 クリックし、すぐに本文を開きニュース全文に目を通した時、瞬間的に幸子の脳裏に負のひらめきが走った。


「ま・・・・さか・・・・」


 1週間前まで自分がいたアパートで起きた殺人事件。

 被害者は大家の田所松江。

 1階自室の玄関内で何者かに殺害をされているのが発見された。

 発見者は近所に住む老人会の友人。

 土産物を渡しに午前9時頃に訪れ、鍵がかかっていないドアを開けたところで目の前に倒れていた、という。

 犯人は捕まっていない。


 幸子は熱によるものとは異なる悪寒が全身に広がるのを感じ、恐怖に顔をこわばらせた。


 頭に浮かぶ人物はただ1人──


「あいつ──」


 証拠はないが根拠はある。

 幸子の記憶が鮮明によみがえる。


 先週までともに暮らしていた男──本山孝太。

 大家の田所松江に挨拶に行ったあと、荒れて悪口雑言を吐いていた本山が口にした言葉──


「俺を舐めやがって! あのババア、ぶっ殺してやる!」


 初対面にも関わらず、幸子の前で自身の無職について嫌みを言われて頭にきた気持ちは分かるが、酔った勢いとはいえ、そこまで過激な激怒をするほどのことだろうか──

 あの日、幸子は荒れる本山をなだめながらそう思っていた。


 それからも事あるごとに大家の悪口を口汚く言い放っていた本山──生々しく思い出されるその姿と形相が今、幸子の中で疑念から確信へと変わりつつあった。


 たぶん──間違いない。


「どうしよう・・・・警察──」


 心当たり、私的根拠──そんな程度の《もしかしたら》を通報したところで取り合ってくれるのかは分からない。

 幸子は迷った。


 加えて、逃げ出した自分をそうとう恨んでいるであろう本山からの報復も怖い。

 今は取り合えずの住み処として逃げ込んだウィークリーマンションがバレてはいないが、この先どこで遭遇するかも分からない。


 もし、懸念通り本山が犯人だとして、自身が指名手配になったことを知れば、幸子が通報したと察する可能性は高い。


「どうしよう・・・・」


 即座の決意がつかず、スマホを手にしたまま、幸子は考えあぐね葛藤をした。


 が、迷いながらも、自己保身よりも逮捕──優先すべきはそれであるとの意識は幸子の中で徐々に高まっていた。








 


 



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