イデオロギーは悪なのか〈10〉

 イデオロギーにおいて人がそれぞれに思い描くのは、それぞれの存在の現実的な条件に対するそれぞれの関係なのだ、とアルチュセールは考える。

 そこでアルチュセールは、一つの考えうる疑問を呈示する。

「…なぜ、諸個人の存在諸条件や彼らの集団的および個人的生活を操る社会的諸条件に対する諸個人の(個人的)関係について、諸個人に与えられた表象は、必然的に想像的なのか…。」(※1)

 想像は現実の回り道だというわけではない。むしろ「近道を必要とする」からこそ、人間は「現実を想像する」のである。「やってから知る」よりも「知ってからやる」方が、何事につけてもそれをするためには近道となるはずだろうと思っているからこそ、人間はそれを「必要としている」のだということである。


 アルチュセールの言葉に話を戻すと、「諸個人の関係について、その諸個人に与えられた表象はなぜ必然的に想像的なのか?」というのは、これは単純に「想像することは、個人の意識においてでなければできないことだからだ」と言える。

 想像されたものを「表象する」のは、個人ではなくてもできる。イデオロギーとはまさしくそれである。しかし「想像する」のは、あるいは「想像することができる」のは、決まって「個人の意識」なのだ。

 また、その個々の存在の諸条件や、集団的および個人的生活を操る社会的諸条件に条件づけられて生きているのは、他でもない「個々の個人」なのである。たとえ「諸個人」としてひとまとめに表象されるのだとしても、実際に生きているのは「ひとりひとりの人」なのだ。

 だから、「想像する」のはそのような「ひとりひとりの人=個人の意識」に他ならないのであり、その個人の意識に与えられる表象すなわちイデオロギーは、「個人の意識が想像できるようなものとして表象されている」わけなのである。


 人が生きるということは、彼の生きる世界と、または社会と、あるいは他の人々と、さらにその他のさまざまな対象と「関係する」ということであり、そのように「対象と関係する」ということは、「その対象が対象化されていることによって関係しうる」という意味で「社会的に関係する」ということであり、それは、「現に関係している対象との関係」のみならず、つまり「現に関係のある対象との関係」のみならず、「関係のない対象」ともまた「関係がないという対象化」によって関係しうるということであり、そのような「関係のない対象と関係する」ということは、「ない」関係を「想像的に見出して関係する」ということであり、ゆえに、関係することにおいて見出されている関係とは必然的に「想像的な関係」なのだと言いうるわけである。

 そのような「必然的に想像的な関係」を想像して、その想像された関係を媒介にして、人は「現実的に関係する」のだと言える。人は、想像することによって、そしてまたその想像を手がかりに、現にある現実と関係し、その現にある現実を現実的に生きるわけである。

(つづく)


◎引用・参照

(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳


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