第18話 巴哈阿旨


 未だ長くはない人生だが、虎昴は、意識を失った経験が何度かある。しかしこの時の感覚は、これまでのどの時とも違っていた。


 仄暗い場所にいる。

 目の前に巨大な何かがいる。

 ――それを、認識できている。


 自分という存在がここにあると、確かに思える意識がある。仄暗い水に浮かんでいる。

 驚き戸惑う虎昴に、目の前のそれが、語りかけてきた。


『人の子よ。我を手にかけしものの血のえにしよ』

「……!?」


 悟った瞬間、それが龍の姿をとり現れる。かつて話に聞いたその姿――どんな獣にも似ない長い鼻面。巨大な口の奥まで生えそろった、鋭い牙。丸太のように長くうねる身体には、端から端までびっしりと鱗が重なり並び、玉虫色に輝いている。蛇とも獣ともつかない黄金の目玉が、ぎょろりと動いて虎昴を見る。


『我を捕らえる悪鬼の鎖を、よくぞ解き払ってくれた。礼を言う』


 深い水の底で割れ鐘を叩くような不可思議な声。それが紡ぐのは漢語でも大凌の言葉でもなかったと、今この時にはどうでもいいはずのことを、虎昴は呆然と考えた。

 呆然としたまま、その問いは、口をついて出た。


「あ、あなたが……おれを、殺すのですか?」

『殺さぬ。もはやお前を殺す意味もない。それよりも、お前にはやってもらうことがある』

「――おれに?」


 龍の長い尾がうねる。するとそこに、異形の化け物が現れた。作り物のように動かず、存在感も薄いが、それは先程、虎昴が見た化け物に違いなかった。


『かの怪物の母を、巴哈阿旨バハアジュという。東の谷の龍の血を継ぐ神人が殺した、人を喰らう獣だ。かのものと我は、この地で長く争ってきた。何度も破り、同じほどにも破られながらも、決してこの地を渡すまいと戦い続けていた。――それを終わらせたのが、あの男だ。怪物の甘言に狂わされ、欲に負け、我の首を撥ね飛ばした。首と胴さえ繋がっておれば、宝珠の恵みで、再び戦える身体となったものを』


 悔やむべきは、人里に着いた己かな、と龍は歯噛みする。

 そして黄金の目で、虎昴を見た。


『我が末期まつごの呪詛は、人の子どもの死をもって我に返ってきた。だが、生き永らえたお前には、我が最後の呪詛が宿ったままだ』


 虎昴は片腕の龍鱗を握る。ざらついた肌が、なぜか今、不思議な熱を放っていた。仄暗い水の中で、それは、青白い星のような輝きを帯びている。

 眼前の玉虫の龍鱗が、ほのかに宿しているのと同じ色彩の輝きを。


『――人の子よ。幼き子よ。我にその力を貸せ。憎きあの怪物を噛み裂き、切り刻み、この地のすべての穢れとともに消し去るために』

「…………。おれは、どうすればいいんですか?」

『我のために歌え。天高き峰々の呪術師よ。我とともに、かの怪物を討ち果たせ――!』





 虎昴の意識は龍潭村に戻っていた。

 目の前にはタオホアが輝く翼を広げ、近くにはチェダが昏倒し、小藍の鈴の音が未だ続いている。そして巨大な化け物と己の間を裂くように、透き通った青玉虫の龍体があった。

 その長い背を押すように、虎昴は、朗々とした声で歌い上げた。


「……〝大昔、上界の神話は儀礼であった。下界の神話は牛の毛ほどに多かった。天上の神話の中心は太陽と月である。地上の神話の中心は白雲と黒雲である。空間の神話の中心は神と鬼である。野原の神話の中心は雲雀である。杉林の神話の中心は猛虎である。……〟」


 尾を引く鬨の声を上げ、二足で爪を振りかざす化け物と、蛇体で牙を剥く龍が激突する。薙ぎ払い、絡み合い、互いの傷を増やし合っていく。


「〝……樹木には十二あり、その中心は藤である。人間には十二あり、その中心は母親である。神話は三つに分けられ、黒神話は万物の源であった。花神話は獣の源であった。白神話は人類の源であった。……〟」


 霊体は、生体の覇気にとても弱い。最初は押され、霞みかけてすらいた龍の魂は、しかし、虎昴の歌で次第に力を得て、化け物を押し返した。逃れようと宙に飛び上がった化け物もすぐさま捕らえ、巻き付き、もみ合いながらも致命傷を与えていく。


「〝……七地の夜が明ける前。暁ではあるがまだ暗い時。怪物はひどく苦しんだ。怪物の口からは魂が溢れ出た。怪物の子が逃げた後、怪物はこうして死に絶えた。この時から後、怪物は二度と姿を現さなかった。……〟」


 戦いの終わりは、ちょうど、大凌に伝わる英雄神の怪物退治を歌い終える頃だった。

 虎昴たちの頭上で、今や山のように膨れ上がった龍体が、瀕死となった化け物をひと息に丸呑みした。虹が溶けた空色の中で、化け物がもだえ苦しみながら息絶えるのが、静かに見上げる虎昴の目にもわかった。


 雲の合間へと昇った龍は、そのまま、ほどけるように掻き消えてしまう。――同時に、強い風が村を吹き抜けた。温かく、生気に満ちた春の風だ。それは廃屋の間を駆け抜けて、この村に澱み、滞っていたものをすべてさらって舞い上がる。


 龍も化け物も消えてしまった。村人の霊も去っていった。

 ただ――終わったのだ、という確信だけが、そこに残っていた。


「う……ぐ、げほっ!」


 近くで聞こえたひどい咳に、はっと我に返る。起き上がったチェダが、胸に溜まった悪いものを吐き出すように咳き込んでいた。木の枝でしたたかに痛めつけたことを思い出し、虎昴は慌ててその背を支えた。


「す、すいません……大丈夫ですか?」

「げほっ! い、いや……おれの方こそ……」


 チェダは俯き、ばつが悪そうに顔を歪める。


「実を言うと、村に入った直後から頭がはっきりしなくなって……だが、何かきみに、とても悪いことをしたような覚えがあるんだ。その……本当に、すまなかった」

「……いえ。怪我はないですし、言われたことは全部、本当のことだったので」


 あの言葉の数々は、自分の中にもあったものだった。

 チェダにとっても、あの時のすべては、まったく思ってもいないこと、ではないのだろう。それでも、別に構わない。この青年が、他の人々が自分にどんな思いを抱いていても、虎昴だけは、自分を認めていればいいのだから。


 その時、いつの間にかそばにいた小藍に、肩をつつかれた。

 彼が指さす方向を見ると、すぐ近くに、四歳児の姿の妹が立っていた。


「……桃花」

『にぃに。これ』


 差し出されたその手に乗っていたのは、七色を宿した丸い宝玉だった。幼い桃花には両手で、受け取った虎昴には片手でちょうど持てる大きさだ。まさか、という思いに桃花が答える。


『りゅうの、たからものだって』

「龍の……宝玉……!?」


 信じられない気持ちで、七色の輝きを見る。

 手にしたものの望みをなんでも叶えるという龍の宝。この村を死で満たしたその元凶。昔話の中にしかないと思っていたそれが今、自分の手の中にあるなどと――。


『にぃにに、つれてかえって、って』

「連れて……」

「――おい、それってまさか、如意宝珠じゃないのか?」


 桃花が見えず、聞こえても漢語はわからないチェダが、虎昴の手の中を見て声を上げた。

 大凌に伝わる如意宝珠も、龍玉と同じく、持ち主の意のままに願いを叶える宝玉だ。それと悟ったチェダは、興奮した様子でまくし立てた。


「フーマオ。きみが何をしたのか、おれには正直よくわからない。でも、その宝珠があれば、ミイルを助けられるのはわかる。きみが生きたまま、どんな神霊の力も借りず、彼女を取り戻すことができるんだ……!」


 言われて、そうか、と思い至る。どんな願いも叶えるのならば、それだって容易なことなのだ。取引などする必要もなく、ミイルの魂を取り返すことができる。

 だが、虎昴は首を振った。


「……これは、あの龍女に返します」


 チェダは目を丸くした。


「どうして」

「これは、おれたちが持っていていいものじゃない。彼がいなくなったのなら、その妻に返すべきものです」


 思いもしない化け物が絡んでいたとはいえ、人間の欲望で奪った伴侶の、その遺品まで奪うことはできないだろう。これを返し、ミイルが再び目を開けて笑ってくれさえすれば、虎昴はそれで構わないのだ。


(今、生きているだけで、奇跡みたいなものだしな……)


 三年前のあの時から、うんざりするほどいろいろあった。そのことをしみじみと思い返し、そして、まだすべてが終わっていないことを再確認する。


「歩けるようなら、すぐにでも出ましょう。早く、ミイルを迎えに行かないと」




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