宵と縁

 こんこん、と。控えめなノックの音。


 対策本部北支部研究棟、白幡研究室。デスクで伏したままの浅い仮眠が覚めて、昨日張った付箋紙と目が合った。頭が勝手に文字を読み取り、自動人形のように動いた手足が来客を招きいれる。

 サイズの大きいラフなパーカー。厚い布地の黒色が日焼けて褪せた、妹の部屋着。

彩姉あやねえ、ねぐせ」

「……シャワー浴びてくる。研究室には鍵かけて。誰か来ても居留守でいいわ」

 土曜も八つ時を過ぎている。夜通しで解析を優先し、朝日を拝んだのが裏目に出たらしい。幸い化粧は、昨夜の榛名はるなが落としてくれていた。

 中途半端な時間帯のシャワー室は空いている。張りつく汗を流し、髪を乾かして、多少さっぱりとした気分になれば、夏の湿気もいくらか不快ではなかった。

 研究室、応接用のソファに体育座りした紫乃しのが、落書き帳に鉛筆を走らせている――「おかえりなさい」「ただいま」。

 ふにゃりとした妹の笑顔に、榛名もつられてしまう。

「ついていけなくてごめんね。検査、どうだった?」

「大丈夫。もう経過観察も要らないってさ」

「そう……よかった、」

「ちょっと寝てただけじゃんか。彩姉、おおげさ」

 タオルをなおす手が止まる。

 紫乃の隣に腰を下ろし、柔らかい身体を抱き締めた。

「……大袈裟じゃないから、心配してんのよ」

 普段の睡眠を緩慢に引き延ばした、ゆるやかな無音の一週間を――目覚めなくなった紫乃を前に、胸を占めたうろを、思い出す。

「……ごめんね、ありがと。すきだよ彩姉」

「ふざけないで。あたしだって大好きよ」

「へへ、……うん。ちゃんと、知ってる」

 のんびりとした笑い声に、安堵する。抱き締め返してくる妹を愛おしみ、榛名は目を閉じた。

――大丈夫。きっと、大丈夫だ。

「念のため、測定は続けてもいい?」

「うん。彩姉がいいって言うなら大丈夫なんだなって、安心するし」

 急変はいつ起こるか分からない。いち研究者でしかない榛名にできることはたかが知れていて、もしかすると、気休めでしかないかもしれないけれど。

 手のひらサイズの持ち運び式、白い機械の電源を入れる。週に一回、その開始の合図に、紫乃は慣れた様子で左手を差し出した。

「ちょっとだけ、ちくっとするわね」

 指先に、赤い雫が隆起する。


 北支部正面の自動扉が、ぎこちない振動に軋みながら開く。

 湿った熱気が肺に絡みつく。日中照りつけた熱は未だ辺りを蒸しあげて、夕暮れの涼には程遠い。冷房を恋しがる紫乃の声が、暑気ですっかり茹っている。

「部活のほうは、どう? なにか描いてるの」

「……何枚か、描きたいやつがあって、さ。総文祭の絵、先生に相談して決めようかな、て……あづ、」

 駐輪場から引き取った自転車に寄りかかる。ぐったりとハンドルに体重を預ける猫背を横目にした榛名は、妹の長袖を肘まで捲り上げた。

「……やだー彩姉、焼ける……」

「顔真っ赤よ。日焼け止めなら貸してあげるから」

 建物が陽を遮る。目に焼き付く陽光の名残は極彩色に滲み、濃い夏の影を色づける。

 底の抜けた青色と、眩しい白。彫りの深い夏空の下、夕べを知らせるひぐらしの声が、べたつく暑気に拍車をかける。

 影が途切れた。また、視界が白む。

 思わず瞼を閉じた瞬間、榛名はそれに気付いた。

 足を止め、赤い鳥居が連なる参道の前で「それ」を――煙の匂いの根源を思い出す。

「ねえ紫乃。すこし、寄っていかない?」

 甘辛い刺激臭と白煙。近所の子どもたちで賑わう、ささやかな縁日の香り。



 各地区の町内会が指揮を執り、寺社仏閣の敷地内でひらく宵宮よみやは、夏の数か月にわたり開催される。

 多くは小規模で、屋台が十ほど。期間中、三日に一度といった頻度で現れる非日常は今日、北支部から徒歩圏内の神社に巡ってきていた。

「町内会のかたにご挨拶してきました!」

 ほつれの無い隊服がはためく。輝く表情をきりりと引き締める新人隊員を前に、冬部は担いでいた金属の支柱を下ろす。

「風見のやつ、たぶん遅刻くせぇんだ。悪ぃが、それまで頼めるか?」

「もちろんです。任せてください! 屋台の組み立て、お手伝いしましょうか?」

「いや、こっちは気にすんな。知り合いの手伝いしてんだ」

 張り切る和泉が脱ぎかけていた隊服は、袖を捲るのみに留まる。

 少し肩を落としながらも、宵宮の進行表を確認し、駆け足に立ち去った。前のめりに有り余る熱意は、本来の職務、宵宮警備に向け直されたらしい。

 テントは組み上がり、境内中央の参道両脇、予定されていた六つの店が出揃う。

 冬部が頭に巻いたタオルは、手のひら越しにも蒸れていた。頭と顔を何度拭えど、一瞬で汗が吹きだす。

「筋肉だ――!!」

 頭に巻き直す途中、二の腕に、知った顔が飛びついてきた。

「紫乃、と……、……榛名?」

「たいちょっさん。そのはち切れんばかりの腕さわらしてください。ああそうですはい、そのまま、力入れた感じで。うおおすっげ動いてる……」

「紫乃。良くないわよ、やめなさい。……隊長さんも。嫌なら断ればいいし、要求の意味が分からないんなら、分からないなりに疑問を持ちなさいな」

「あー、ああ、そうだよな、……? ……面白れぇんだか知らねぇけど汗で汚ねえし、あんま触んねえほうが」

「、……あなたって、意外と押しに弱いのね」

 青い瓶ラムネを両手に歩いてきた榛名が、一本を紫乃に手渡す。「隊長さんも飲みたい?」との勧めは辞退した。助力の報酬に貰ったスポーツドリンクが、まだいくらか冷えている。

「休日なんでしょ。なんで作業着なんて」

「動きやすいだろ。わりと気に入ってんだ、これ」

「その芋つなぎ着たがるの、北支部でもあなたくらいよ」

 和泉もいるはずだ伝えると、紫乃は一転、ぎくしゃくと冬部を解放した。支離滅裂な大義をだしにそそくさといなくなる彼女は、いやに赤い頬を持て余していた。

 残された二人が木陰で肩を並べる。冬部には見慣れた景色であるものの、榛名の肩は随分と低い。

 木に体重を預けてしゃがみ、榛名を軽く見上げた。

「お前ら、姉妹だったのか?」

「そうよ。あら、わからなかった? あたしと紫乃、よく似てると思うんだけど」

 いつもより近い気がする笑顔は、やけに柔らかく映る。目元をきりりと強調している化粧が、幾分か薄いためだが――「機嫌がいいのか」と解釈した冬部には知る由もない。

 穏やかな横顔に、紫乃と近い面影を感じ取る。

 彼女の視線は、境内の賑わいへと向いた。

「紫乃と来たいなって思ってたの。縁日なんて、あの子が小学生の頃行ったきりで」

「そうなのか。昔から、仲良かったんだな」

 何の気なしに口をついた相槌に、返事はなかった。

 榛名の表情が青い瓶で遮られて見えない。

「……それだけ長い間、あの子とまともに話してなかったってことなのにね。……これでちゃんとした姉のつもりでいたなんて、いま思えば呆れるわ」

 独り言、自嘲に近しい声色は、誰かからの返答を待つものなのか、分からなかった。

 言い淀む冬部を置きざりに、榛名の興味は宵宮に戻ってきた。ふと目に止まったそれを、冬部にも指し示す。

「あれ、雑誌か何かの取材じゃない? 宵宮って意外と有名になってるのね」

「は? ……いや、取材なんか普段いねぇぞ?」

 遠目にも派手な見た目の記者は、首に大きなカメラを提げ、屋台の面々と打ち解けた様子でころころ笑っている。

 和泉の耳に入れておくべきか。いや、取材許可の有無を記者に確認するのが先か――腰を浮かせた冬部を、飲みかけのラムネ瓶が制した。

「あなたは非番でしょ。それ以上は、過干渉じゃない?」

「そりゃ普段なら手ぇ出さねぇよ。つっても、テレビだ雑誌だって奴らの対応なんざ教えてねぇし、」

「注意事項を連絡しておくくらいでいいじゃない。別に大したメディアでもないでしょ。町内会の縁日よ?」

 いやに制止が強い。新人に厳しく接するそれというより、――目前の大男に対して。


 蝉の声が近い。

 じゃわじゃわとした賑やかしにも負けず、その声は冷えていた。

「一応、聞いておきたかったんだけど。あなた安岐君のこと、まだ『護衛対象』として見てるとかじゃないでしょうね」


 和泉はもう、「彼女」ではない。


 れっきとした「彼」であり、北の一員として強くなることを望み、入隊した。対等な仲間だ。

 新人である故に必要な指導と、庇護を、履き違えたつもりは毛頭なかった。

「過保護にしてるつもりはねぇよ。ただ俺みてぇに、無駄に頑丈ではねぇだろ。訓練も、多少は気ぃ回しちまうっつーだけだ」

――「強くなりたい」と。隊員として、対等な立場を望む和泉に対し、過保護というのは侮辱に等しい。

 つもり、とばかり。実際の態度がそぐわないのだと言われてしまうと、返事に窮することも事実ではあるのだが。

 詰めのはっきりしない冬部に、榛名は矛を収めた。「安岐君の訓練。まだ基礎ばかりだって聞いたの」と。温度を取り戻した声は、幾分かぼやぼやしている。

「この間ね。まだ巡回しかできないんだって、落ち込んでたのよ。だから、……ちょっとだけ疑ったわ。ごめんなさいね」

「、……和泉が、だよな」

「そうね」

 巡回の無い日をほぼ全て訓練に費やし、夏季休暇も毎日北支部に通い詰めると意気込むほどの理由を、見つけた気がした。

 和泉の熱意をそれと喜べないのは、過負荷を危ぶむものか、それ以外かは、判然としないのだが。

「……何か言うなら、少しは休めって言ってやってくれ。榛名から言われりゃ多少は聞くんじゃねえのか」

「あら。休息なんて、訓練教官のあなたが調節するものじゃないの?」

「休みにしたところで、他所の隊の訓練に混ざりに行ってんだよ。聞けば素直に言ってくれる分まだいいけどよ。いつ身体ぶっ壊すか解ったもんじゃねぇぞ」

「……そういう事、考えてるのね。なんだか似合わなくってびっくりしちゃった」

「医者に釘刺されてるってだけだ。細けぇ話ならそっちの方が詳しいだろ」

「確かに人体の勉強はしてるけど、あたしにスポーツトレーナーは専門外よ」

 からりと音がして、青いビー玉が転がる。瓶の中、ラムネの気泡が寄って集って、硝子玉をきらきらと光らせる。

 地面に落ちた青い光に、夜店の橙が薄く、交差していた。

「和泉に警備任したの、初めてではあるんだよな。だからじゃねぇけど、……そうだな。多少、心配し過ぎてたかもわからねぇ」

 スポーツドリンクを飲み干し立ち上がる。夜店にはもう、灯りが点っている。

 徐々に。簡単には気付けないほど、緩慢に。太陽の出る時間は短くなってきている。

「風見もそろそろ来るみてえだし、後は任せて帰るか。気ぃつけて、楽しめよ」

「いいんじゃないかしら。あたしから、安岐君に伝えておく?」

「いや、いっぺん声かけて行くかと思ってんだ、けど、な……」

 境内に目を凝らす。先ほどまで、宵宮のあちこちを駆け回っていた小柄な隊服姿が、一向に見当たらない。

「……やっぱ、頼んでも構わねえか?」

「ええ。お疲れ様、隊長さん」



 宵宮に乗じた演じ物。神社の境内の児童館では、近隣大学の演劇サークルにより、子供向けの演目が予定されていた。

 長机と椅子、雑多な資材の押し込まれた倉庫には、窓がひとつ。夕陽に似た、橙の光が漏れる窓際には、長机に腰掛け足を組んだ金髪の男がいる。

「一年前。人喰から君を助けたいかれ野郎に、心当たりは?」

 演劇サークルの顧問として名を連ねる棗の存在に気付いたのが、少し前。挨拶に出向いたところを大学生らに囲まれ、棗に言伝を頼んで出ていこうとした矢先、当の本人に捕まった。

「……俺、忙しいんです。棗さんには警備のご挨拶に来ただけですから、また今度にしてくださ」

 ドアノブを掴みかけた手を、ナイフが掠めた。

 投擲した本人はといえば、的を一瞥もせず、赤っぽく照らされる金糸を指に絡ませている。

「僕にだって時間は無いし、君が情報を持ってると確定もしてない。取引が成立するかも曖昧な、信用すらしてない相手に、僕だけはべらべらと機密を開示しろって?」

「そんな話はしてないです。それに、棗さんが俺を信用してるかどうかなんて、俺の問題じゃあない。あなたの、勝手な好き嫌いですよね」

「そうだね。君のこれまでの言動と思考パターン、能力もろもろを判断材料とした、僕の勝手な総評だけど。不満でも?」

 迂遠に無能をなじられ、歯を食いしばった。棗の言葉は止まらない。

「君には関係の無い話だ。だんまりなのは、喋れば君の不利益になるって意味? だとすれば君の秘密は僕にとっての朗報だ。仮にそうなら、告解と引き換えに、君に何らかのメリットを提示してやっても構わないけど」

 流れる弁舌は極めて自分勝手かつ滑らかだ――目の奥にこみ上げる熱を堪え、涼やかな碧眼を睨む。いま必要なのは、涙ではなく明確な言葉だ。

 都合が悪いから黙っていると思われるのは、心外だった。

「人喰の時のこと、俺から話せる事は何も無いです。食べられる直前で急に人喰が俺を離して、助かったけど……そうさせた何かがいたことすら分かってなかった。助けてくれたのが、狭間通りで依頼を受けた誰かだって話も、後から聞いたんです」

 真実だ。棗への開示、という形容に足りそうな情報は、持ち合わせがない。

 和泉の瞳の動き、声音、身振り。棗は全てを吟味し終え、ひと息だけ緊張を緩めた。

「……嘘はついてないね、結構。じゃあ、次の質問」

「……俺はたぶん、あなたを喜ばせる情報なんて持ってないです。聞くだけ、時間がもったいないとか思わないんですか」

「それは僕が決めること。さっき風見も着いたから、急ぐ理由なんかどこにもない」

「っ……やっと、俺が一人前に任せてもらえた仕事です! 後でいくらでも付き合いますから、後にしてくれませんか!」

「初めてがそんなに大事かよ処女厨。仕事ならいつだって出来るし、担保するのは給料分の責任で充分。鬼の処理は二人以上って規定があるからこういうシフトなだけで、宵宮警備は暇だ。万が一に鬼が湧いても、あいつなら一人で事足りる」

 改めて、抉られる。

 次の涙は堪えられそうになかった。咄嗟に俯いた視界が、ゆらゆらと揺れている。


「僕が問い質したい『縁』は、君の妄想のそれと、今の、血の繋がった間柄と。その二つで君に関わりのあった人間について」

――その頭から、血の気が引いた。


 詰問者は、ゆるりと腰を上げる。スラックスの埃を軽く払い、顔を上げない少年に詰め寄る。

「実の両親、兄弟、親戚。血の繋がりも色々だけど、君が孤児なのは事実。生みの親も親戚も、捨てられた側に聞いたところで分かることじゃあない。つまる話が、」

「……て、」

「……は? なに――」

 和泉が掴みかかり、金の瞳と細い瞳孔が、間近に迫る。

 怯えは一瞬で翻った――萎縮していた弱者が、何処にそんな度胸を残していたのか。

「全部、教えてください。『前の』俺の家族は、血が繋がってるだけのひとじゃない。俺の、本当に、大事な人達なんです!!」

「……おい。離せシスコン」

「母さんも、相良さがらも、まさか、なにか危険な事に関わって、」

 和泉の身体が一寸宙に浮き、床へ派手に叩き付けられた。

 綿埃が舞い上がる。塵に反射する橙色の中、苛立ちを露にする寒色の睨みが、床に転がる負傷者を刺し貫く。

「それをこっちが聞いてんだよ。質問してんのは僕だ。君の妄想に余分に付き合わされてやるつもりなんざ更々ねぇからさっさと身の程弁えろ。僕が探してるのは現実の、生きた人間。そいつに対して君の虚妄からアプローチをかけるのは、単なる博打だ」

 棗は、妄想だと鼻で笑うばかりの「前世」を手掛かりとすることに、抵抗はない。

 博打との申告は真実。可能性の一つを検証しに来ただけ。前生の縁など虚言だと一蹴しながら、利用価値は認めている。その虚構が、誰かにとっては無二の聖域であるということも。

 使えるものは何だって使う。

 つけ込む弱みが、ひとつ増えるだけのこと。

「君、芸者だったんでしょ。特別、熱を上げられてた客の一人や二人。商売敵やその身内。縁のある人間どれだけ挙げられる? ……付け加えると、君からの認知の有無はさほど問題じゃない。君は『一方的に知られている』だけでいい。勝手に憧れられて、勝手に恨まれる。注目が金になる職なんざ、そういうもんだろ」

「、……俺が。俺も知らないうちに、誰にどう思われてたか、なんて。そんなの知ってるわけないです。……棗さん、探してる人がどういう人か、分かってるんじゃないんですか。特徴とか教えてもらえれば、俺だってもうちょっと役に立つ話、」

「へえ、『接触の無かった人間を思い出せ』、なんて要求の理不尽さは解るわけだ。その程度の知能はあるみたいで良かった」

「っ……いい加減に!」

 革靴が音高く壁を蹴り、和泉が怯む。

 無駄話は要らない。聞かれたことにだけ答えろ。その強要に、和泉は痛いほど覚えがある。萎縮してしまいそうな寸前で、懸命に踏みとどまった。

「君は、君が知ってることを思い出せ。君の妄想の中で、君と交流があった人間。関係の深さは問わない。強いて言うなら『血縁』と『男』が優先条件」

 関節の確りした、細い指が二本。

 てきぱきと端的な言葉が、無知な少年に一方的な要求のみを覚え込ませる。指示は明瞭で簡潔、二度はない。以前に学んだ教訓が、和泉に指示を繰り返し唱えさせた。

 棗が説明しない「何者か」の手掛かりを、自らでも探せるように。


 春も終わりの時期、棗の指揮のもと、とある殺し屋の捕縛を目的とした作戦が決行された。指示の暗記に当時の記憶が重なって、思い浮かんだことがある。

 ただの、当て推量に等しい。

「……俺の知り合いに、いるかもしれないのって。死神ですか」

 碧眼は、ゆるく細められた。


 まなじりがすこし、緩む。

 人の良い微笑みの真意が読めないまま、向けられる笑顔は薄ら寒い。

「もういっぺん、思い出して来なよ。この僕が直々に見せてやるんだから、せいぜい感謝したら?」

「見せ、……? ……あの。前世の記憶って、何時でも見たいときに見られるようなものじゃなくて」

「君らは、雁首揃えて丸っきり同じことをのたまう。なら、やる事はひとつしかない」

 棗が言い終えるなり――脳が、揺れた。


 頭の芯がすっと冷えて、平衡感覚を保っていられない。ぐらぐらと覚束無い、おかしくなった視界が暗くなり、ぐんと床がせり上がる。

「前生の記憶とやらは。夢の中で『観る』んだろ?」


――俺の記憶は、うたの記録だ。


 何処の部屋にも沢山の譜面が折り重なった、森のほとりの小さな家。母さんと、俺と、相良。三人家族で暮していた。

「母さん」が、いつ頃から「歌の先生」になったのかは覚えていない。母さんはいつも子守歌を聴かせてくれたし、俺達も、言葉も知らない幼い頃から、真似っこで歌っていたみたいだから。

 俺達は、……多分、母さんも。生まれた時からの奏者で、その欲求の通りに、うたを歌って生きていた。 


 母さんは、幼い俺たちに、歌の世界を魅せてくれた。俺たち双子を調律して、声のりかたを教えてくれた。

 俺と相良は兄と妹。誰よりも息が合う、ふたりでひとりの楽器だ。レッスンを繰り返す度、音律を掛け合せる度に音は融けて、ぴったりとおんなじになっていった。

 よく、声を取り換えて母さんに悪戯を仕掛けたけれど。騙せたことは一度もない。

「お前達の音を、どうして俺が間違えると思う?」なんて。幼心に不思議だったけど。

 今なら俺も、そう言える。

 母さんの喉である限り、その声が誰に、何に変わったって絶対に解る。お爺さんでも、小さい女の子でも、人間でない何かでも。きっと相良も同じことを言う。

 俺たち家族は皆、お互いの音に惹かれていたから。


 俺にとっての家族は、愛おしい場所だった。心の在処を「うた」に定める稀有なひと。奇跡みたいな縁で結ばれていた。

 家族。血縁。そういう――思い出、は。


 いまさら気がつくなんて、俺は本当に、あの頃が楽しくて仕方なかったみたいだ。

 でも「親」は両方とも、母さんがやってくれていたから。俺が疑問を抱かなかったのも、自然なことかも知れないけれど。


 父親って、居たのかな?



 倒れ伏した和泉の身体が、革靴で転がされて空を仰ぐ。倒木でも転がす類の雑さは、しかしながら、失神した彼を気つけるまでには至らない。

 隊服の襟首を探り、労せず鎖の留め具を外す。引っ張り出した円形のペンダントを「視て」、棗が嫌悪を表した。

「心底キモいな、……こいつの呪力か、これの呪力か、どっちだ」

 色は、山吹の黄金。粘度の強い蜘蛛の糸が、持ち主と骨董とを細く繋いでいる。

 恐らくは呪具――呪力を宿す装具だ。断言が出来ない理由を挙げれば、――和泉からの侵食、呪力の同調が過ぎていて、装具本体を「視る」ことが叶わない。

 瞬きをひとつ。薄暗く切り替わった視界には、錆色の金属が揺れている。細工は精緻だが、装飾品と評するには不格好だ。この大きさは、丁度。

 写真でも、保管する類の。


 安心毛布よろしく抱える『これ』を、いつ、どこで手に入れたのか。


 中央がこの骨董を検分したがっていた辺り、呪具と確信してよいだろう。否、真実は検分よりも幼稚で――「欲しがった」。危険だ何だと難癖をつけ徴収しようとした、結果。和泉からの信頼を修復不可能なまでに損ねた。

 中央の聞き取りおよび報告書曰く、装具に関わる話の一切を黙秘したらしい。

 確かな話は、骨董が、施設にいた頃からの所持品であるという事実。棗の持ち合わせは、それに伴う推測がひとつだけだ。

「実の親が、棄児に贈った唯一の形見……なんてお涙頂戴なんざ興醒めだけど、今だけはありがたがってやってもいいね」

 現在の血縁と繋がる手掛かり。それが万が一に、「前世」でも繋がっていた何者かであるのなら――


 ぱちりと蓋が開いた。

 長い睫毛に縁取られた碧眼は、微かに動じ、揺れる。

「……いず、み、ん? と――…………」

 見知らぬ気配は、侵入者だった。

 パーカー姿の彼女の顔が、北支部のある研究員と重なる。噂半分に把握していた親族関係が繋がり、彼女の「妹」を認識した。

 棗が口角をすこし上げ、涼やかに微笑みかける。善良な顔で気を引きながら、錆びた蓋を静かに閉じて、掌に収めた。

 彼女の目は泳いでいる。おどおどした挙動も、言葉の迷いとしての吃音も、「姉」とは似つかない。自信の無さそうな瞳は、棗の――

「……それ。……あ、あなたのものじゃない、す。よね」

 細い鎖を握りこんだ手を、真っ直ぐに見ている。

――顔で誤魔化されないのは姉と同じで、だとすれば、多少はマトモか。

「んだよ、知ってんならさっさと言えば? その口は飾りかよ。無駄に愛想振りまいて損した」

 百八十度の反転を目の当たりにし、紫乃が固まる。

 処理落ち以降、復帰しない理解を差し置いて、滔々と流れ続ける非難めいた罵倒は、単語一つと耳に入らない。しかし一先ず、彼の本性をそれと認知させる役割だけは果たしたらしかった。

「ったく、せっかくこっちが『善い人』として接してやってもいいっつってんのに、……ま、僕が心配してやる義理も無いか。知ったことじゃないね」

 骨董を放り投げる。正確に紫乃の手に収まったそれは、彼女自身の動揺により、何度か手元で跳ねた。

 棗がミネラルウォーターのペットボトルを開け、逆さにする。

「て、……っめこのクソ! 、……?」

 透明な液体は、重力に従った。

 ごぽり、ごぽりとペットボトルに這入る空気に押し出され、和泉の顔を濡らす。気管に水を吸って跳ね起きた和泉が、身体を丸めてひどく噎せ込んだ。紫乃が背をさする手のひら越しに、生々しく、胸郭が収縮を繰り返す。

 空のペットボトルは黒髪の後頭部に当たり、床を転がった。

「うすのろが。僕が待ちくたびれてんのが見えないわけ?」

「い、っ……さっきっから何してんだあんた!!」

「、……ああ。そういうこと」

 和泉を背に庇い、睨み付けた先の碧眼は、紫乃を嗤って端正に歪む。

「君もそこのシスコンと同じ、世間様には後ろ暗い仲間?」

「うるっせえな知るか!! いいからさっさと出てけこの悪魔!! 死ね!!」

 

 言い争う声ばかりが聴こえていた。

 生理的に噎せこんだ喉も、鼻も、鋭い痛みが引かない。喉の奥から血の味がして、やっと。止まってくれない咳を、我慢できそうな手応えがした。

 早く、止まれ。どんなに苦しくたって構わない。止まってくれ。

 言葉を。声を、――出さないと、いけないのに。


 俺はまた、動けないまま――


「和泉くん、大丈夫……っなわけないよね、怪我どこ!? 彩姉たしか救急セット持ってるから、連れてくる……!」

 泣きそうな顔が、あった。

 棗はいない。服の裾を捕まえて制止する。咳き込みながら口にした「大丈夫」は、紫乃を場に留めるに足りたらしい。

 まだ力の入らない手を、懸命に伸ばす理由を、紫乃は鋭敏に察した。

「さっきね。投げたりとか、されたから……中、大丈夫?」

「……うん、傷とか、ないよ。守ってくれて、ありがとう。……ちょっとだけ、いい?」

「全然いいよ。わたしあっち向いてるから、どぞ」

「気にしなくていいのに。紫乃ちゃんは元気なのかって、相良、最近よくそわそわした顔するから」

「いやいや。相良ちゃんとの面会はね、お邪魔しないって決めてるし」

 言った傍から背を向ける。和泉の指がもう、蓋を開けているのが見えたから。

「相良。……そっちは大丈夫だった? 怖い思いさせて、ごめんね」

 小さな鏡面から、目を逸らす。


「――今日こんにちはぁ。お仕事中の写真、いただいても構わないかしら? 可愛らしい新人隊員さん」

 媚びを含む甘い声が、場の空気を破った。

 二人が同時に肩を揺らし、闖入者を凝視して固まる。ストロベリーブロンドのゆるい巻き髪が柔く揺れ、華やかな微笑みをたたえた記者は、ネイルアートの光る指先を口元で遊ばせた。

「あら――……あらあらあら。あたしったら、お邪魔しちゃったかしらん。ごめんなさいねぇ」

「いいえ!! あの、わたしただの部外者なんで失礼します! ごゆっくり!!」

 児童館から飛び出した紫乃は、勢いあまって境内を飛び出しかけたところを、榛名に発見された。


 ■


 宵宮帰りの道すがら、自転車を押して歩く紫乃に、榛名は何度めかの問いを投げ掛ける。

「安岐君と何かあったの? 疲れた顔してるわよ」

「……彩姉。悪魔って見たことある?」

「え?」

 自転車のタイヤが回り、ちりりり、と小さく鳴く。かごに入れた海鮮焼きそばとはしまきのパックが、ビニール袋と擦れながら、時おり跳ねていた。

 苦笑いのまま顔を上げる。

「いや、さぁ。別にね。久々にヤベぇの見たってだけなんだけど――」

 夜に潜ったはずの景色が、赤い。


 見上げた空の深い紫紺、遠く微かにうかがえる夕焼けの名残が、街が帯びる赤色と結びつく。降りたばかりの夜の帳に、強烈な異物感をもたらしている。

「……彩姉。なんか、変に赤くない?」

「あら、ほんと。きょう、綺麗な夕日が見えてたのかしら」

 榛名は見蕩れている。「もう、いくつか星も出てるのに。なんだか不思議ね」と。穏やかな姉の横顔に、喉がふさいだ。

 ただの夕焼けだ。

 目の前にあるのに、気付くまでは気配も感じない。見慣れた街の、少し珍しいだけの表情だ。感性は個々人で異なる。

 自分ひとりが、おそろしいと認識しているだけ――

「……なんか、こわい」

――恐れは、口にしていい。

 言ってしまえば呆気なく、胸のつかえは取れている。榛名がはっと紫乃を見て、ひどく、安堵の笑みを零した。

「そっか。紫乃はそう思ってたのね――話してくれて、ありがとう。……早く帰って、ご飯にしましょ」

「うん。バター海鮮、絶対美味しいから。そうだ、彩姉んちに泊まっていい?」

「いいけど、散らかってるわよ」

 夏の香りが、近づく彼岸を報せる。

 人肌に似た、ぬるい空気が纏わり付く、星のうつくしい夜だった。

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