少女と護衛

「妹を探しています」


 少年の声は、凛と鳴った。

 辺りに満ちる喧騒と本質的に異なる声は、聞き取りに難くない。小柄な少年に向かい合うのは、少年よりもかなり上背の高い、大柄な男。

 うかがえる気迫に圧され、男が無意識に半歩後ずさる。


「俺と瓜二つの顔立ちで、家族思いの女の子です。

 笑顔が最高に可愛くて、ちょっと天然が入ってて、他人に嘘がつけません。運動は少し苦手です。自分のことより他の人のことばかり優先してしまうような、心の優しい子です。たぶんすぐ、悪いやつに騙されます。純粋でまっさらで、疑うことをあまり知りません。そこもすごく可愛いです。

 ずっと一緒に生きてきた、俺にとってただ一人の半身です。寝起きがあんまりよくないから、まだどこかで眠っているのかもしれない」


 穏やかに微笑む声色に、冗談の気配は一切無い。

 男は表情を強張らせながら、足裏が床面を捉える感覚を、繰り返し確かめていた。


 ■


 南で聞こえだした春の芽吹きは、北の地にはまだ遠い。

 電車が到着したばかりの駅は、改札から吐き出される人で混雑している。腕時計と時刻表を照らし合わせ、冬部ふゆべは人混みに目を凝らした。

 威圧と違わぬ眼光の鋭さを、多くの人間が無意識に避ける。一部は冬部の服装――肉体労働に向いた作業着、濃灰に緑色を被せた色彩に眉をひそめながら。

「駆除隊の仕事なんて無いだろ。駅だぞ、何考えてんだ」

 仕事はまさに今、到着する予定だった。

 血の赤をした三白眼が、一人の少女を見つける。


 古来よりの伝承、化物達の正体が、人間の成れの果てだと浸透して久しい。

 初めこそ爺の耄碌もうろく揶揄やゆされた発見は、各地で実例をもって許容を余儀なくされた。当時から研究が進んだ現在では、化物の異能を借受ける「呪具」を用いた犯罪すら、珍しくはない。


 個体の多くが有角という特徴から、化物は一律に「鬼」と呼称される。

 鬼に関わる事象の処理を本分とした組織、異類いるい対策本部――通称を対策部。

 その構成員である冬部は、滑らかな黒髪のつむじと向き合っていた。

「ありがとうございます。私、電車ってほとんど乗ったこと無――じゃなくて。本当に助かりました。引き留めちゃって、すみません」

「そうかしこまられる程の手間じゃねえよ」

 改札に引っかかり右往左往する白のワンピース姿は、否応なく目立った。迷子にもさせず見付けられたのだから、むしろ御の字だ。

 顔を上げた少女に、受け取っていた写真の人相が一致する。ぱっちり大きな金色の瞳、猫を思わせる細い光が、ちらと猜疑に揺れかけた。

 案件担当の隊員が迎えに行く話は通している。ただ、少女にとって冬部は未だ、不審な通りすがりに過ぎないだろう。

「自己紹介が遅れて悪い。対策本部北支部所属第四小隊長、冬部ふゆべさくだ。一週間、よろしく頼む」

 作業着のポケットから、身分証を開いて渡す。

 この身長差だ。頭を下げても多少、少女を見下ろしてしまう無礼は、大目に見てほしい。

「……親御さんから聞いてるかもしれねぇが、北支部には女の隊員がいねぇんだ。……話しづれぇだろうってのは百も承知だが、何かあれば、遠慮無く言ってくれ」

「! 大丈夫です。気にしないでお願いします、って言ったお話ですし、こちらこそ――」

 小さなくしゃみが聞こえた。

 外套コートこそ羽織っているが、少女はかなりの軽装だ。元から、立ち話をするつもりも無い。

「詳しい話は北支部でしてぇんだ。嬢ちゃん、いいか?」

 送迎とは要するに、北支部への道案内と荷物持ちだ。――明らかに大人用のキャリーケースへと、手を差し出す。

 少女がきょとんとして、冬部の手を見た。

 他人に預けたくない荷物なら、無理に奪い取るつもりも無い。手を引っ込めようとした、瞬間。

「はい。よろしくお願いします」

 花のほころぶ笑顔とともに、何の屈託もなく手を繋いできた。


「、……嬢ちゃん、あのな、言いづれえんだけどよ」

「?」

「その荷物、俺が持つからって意味で、なにも――」

 視線を感じた。――刺さる圧力がみるみるうちに数を増す。

 

 この場からの一刻も早い撤退を、直感が叫んでいた。

 二十余年と生きてきた。己の強面が堅気には見えないことくらい、とうに骨身にしみている。



 駅からほど近く、表通りから逸れた裏路地の奥。常は穏やかに来客を知らせるドアベルがけたたましく鳴り響く。

 少女と荷物を両脇に抱える大男に目を剥いた店主だったが、それが馴染みの顔とみるや、拍子抜けたように緊張を解いた。

「……誘拐犯か、百歩譲って押し込み強盗だぞ」

「仕事で護衛だ。……店長、ちょっとの間だけ、頼めねぇか?」

 喫茶店は安心の閑古鳥だ。奥まったテーブル席を目で示す店主にありがたく従い、感謝と店の存続の為に、二人分の注文を伝える。

 未だ目を回している少女――安岐あき和泉いずみは、ある鬼から命を狙われている。


 彼女の住所は、北支部管轄地域の南部に含まれる。地元の北支部分局に持ち込まれた案件が、鬼個体の危険度を鑑みて、北支部本部へ引継がれた。

 強襲は一週間ほど前。和泉本人と両親が怪我を負い、通報に駆け付けた地元隊員も重傷。鬼が提案した仕切り直しで気まぐれに繋がった命が、現在の和泉だ。

「十年待った」。鬼は、そう言ったらしい。


 幼少期を施設で過ごした和泉が、現在の養父母と養子縁組を行ったのが、ちょうど十年前にあたる。


 人を鬼へと変ずるものは、強い感情だ。いち個人への執着、怨恨であることも珍しくない。

 しかし、当時五歳の少女が何の恨みを買うのかと聞かれれば、本人に原因があるとは考えづらかった。和泉の記憶も曖昧という話で、報告書は空欄――感情というのは、向けられている当人の自覚の有無に関わらず、湧く代物ではあるのだが。


 縁故理由は問題でない。

 討伐に必要な調査は、差し迫った脅威の分析と戦力評価。


――とはいえそれらは担当の研究員が処理してくれている領域であり、冬部は全くの門外漢である。

 鬼が再び和泉を襲いに来ると宣言した日取りまで、一週間。

 襲撃からの護衛任務は、「鬼殺し」と揶揄されるのが常の対策部には珍しい。

「冬部さん。あの、駅から逃げてきたのって、何か……?」

「……こっちが面倒かけちまっただけだ。何でもねぇから、忘れてくれ。酔ったりとかはしてねぇか?」

「……元気です、よ?」

 折よく飲み物が届いた。和泉の喜色を見る限り、体調は悪くなさそうだ。

 橙色の満ちる縦長のグラスを、小さな両手が包んでいる。濃い柑橘の酸味が、冬部の頼んだ珈琲の湯気と混ざった。

 赤いストローにもてあそばれ、からからと氷が回る。

「ジュース飲んで、ゆっくりしててくれ。車回してくる」

 人相の悪い大男が、いたいけな少女をかどわかそうとしている――などという不本意なほとぼりも、そろそろ冷めた頃だろう。


 残された和泉が店内を見回す。カウンターの向こうで帳簿を付ける、黒いベストの背中――「あの」「? どうした」寡黙な店主は、案外と気さくに振り向いた。

「このお店、お一人でやってるんですか?」

「不定期でバイトが来るんだけれどな。ほとんどは一人だ」

 冬部に向けた呆れ声より角が丸い。彼自身、子供を邪険にしたがる気性でもなかった。

 お喋りが咎められなかったことに、和泉はほっとした。

「ちょっとだけ、緊張してたんです。静かにするお店かなって」

「暇な合間だし、いいんじゃないか?」

「ありがとうございます。コーヒー飲めるようになったら、また来ますね」

「ああ、それはいい話だ。有難うな、お嬢さん」

 ちらと、冬部のコーヒーカップの中身が見えた。飲み残しは半分ほど。

――冷めちゃっただろうな。

 和泉の顔が曇る。店主があっさりと続けた。

「戻ってきてから一気飲みだろう。冷めてることに気付くかどうかも、微妙なところじゃないか?」

「え」

「味の善し悪しはよく分からないとも言われたな。店としては、複雑だ」

「……っふふ、そうですよね」

 ドアベルがからころ鳴る。

 顔を出したのは、和泉の予想通りの男だった。店主と言葉を交わし、勘定を頼んで財布を出す。

 無骨な指がコーヒーカップを摘み、ひと息に飲み干し戻された。

「……嬢ちゃん、何で笑ってんだ?」

「なんでもないです、から……」

 北支部で手続きを済ませた頃には、日が暮れていた。


 護衛生活は、拍子抜けするほど穏やかだった。

 隊員向け宿舎として管理されているアパートのひとつは、鬼の襲撃の恐れをみて、他を全て空室にしている。そんな配慮を嘲笑うように、物騒な影は、気配すら窺わせない。

 一週間。指定した期日まで本当に待つつもりなら、律儀な話だ。

 日々は、宿舎と北支部の往復だった。冬部が離れる間は代理に預けていたのだが、その間何が起きているやら、和泉は北支部の様々な部署で縁を広げていた。

 大抵その手には何らかの菓子を持たされており、――本人も楽しく交流に興じているらしく、土産話は多種多様だ。

「料理、好きなんです。冬部さんがよければ作りたいんですけど、いいですか?」

 コンビニ弁当が二日続いたあと、三日目に提案があって、近所のスーパーマーケットまで行った。

 自炊が常でない身としても、和泉の手際は慣れたものに映った。野菜の選び方、調理の技量、処理と保存の知識。台所周りは和泉の管理になり、冬部はありがたく相伴にあずかった。

 どちらが保護者か分からない。

「親御さんが教えてくれたのか?」

「いえ、えと……こっそり練習してるので、秘密にしててくださいね」

 五日目の晩に、来客があった。

「何かあったら呼んでくれ。玄関にいる」

 引き戸で隔てられた個室に声を掛けると、「はーい」と返事。玄関前には、既に人影がある。

 昼にも打ち合わせで会った顔の彼女――榛名はるな彩乃あやのから、緊急で届いたという書類を受け取った。頭を下げると「いいのよ。あたしの帰り道だし」。

 言われてみればその通りだが、白衣ではなく、冬物のコートを着ていた。

「ところで、ちょっと呼んでもらえる? お話したいの、安岐さんと。

 別に作戦どうのの話じゃなくって。個人的なお節介。なにか入り用なら、あたしがいま買ってこられるんじゃないかって」

「……多分無えと思うぞ? 買い出しってのはありがてえが、頼むほどのモンも」

「女の子のもの、よ。隊長さんに言えるわけないでしょ。玩具おもちゃなら持ってるから、安心して、話し声の聞こえないところにいなさいな」

 鞄から、黒い金属がのぞく。

 街に馴染む一般市民の風体に、その一点のみが浮いている。含みのある笑みで催促され、冬部は素直に和泉を呼ぶため踵を返す。

合図銃声が鳴ったら、来てくれるんでしょう?」

「当たり前だ」

 物騒なものがちらついたお陰か、居間に置きっぱなしの武具が目に入る。屋内戦も視野に入れて借りたものだったが、手入れ以外では触っていない――、

 余所見をしていて、気付くのが遅れた。

 

――男の声。


「ッ――和泉!!」

 戸を開けると同時に、風の塊が吹き付けた。咄嗟に目を瞑る。

 部屋が暗い。掃き出し窓は開いていた。長いカーテンが大きく翻ったかげで、びくりと華奢な肩が揺れる。

「ご、めんなさい。ちょっと外が見たくて――」

「……今さっき居た奴は、」

 一瞬、叱られる前の、怯えた子供の顔が見えた。


『ほな、な、おひいさん。明後日、約束やで』

 一週間が終わる日。――鬼が、和泉を殺しにくる日。


 だから。声の主は、知れている。


 和泉は答えない。何度か開いた唇が小刻みに震え、きつく引かれた。俯き、顔が見えなくなる。

 口を塞がれでもしていたなら、冬部を呼べなかったのは道理だ。ただ――和泉の意志で誤魔化すというのは、話が違ってくる。

 自分の命を狙う相手を匿う、庇うかのような行動。

「……なあ、嬢ちゃん。一つだけ、答えてくんねぇか」

 しゃがんで目線を合わせるも、身体を背けられた。拒絶に近いかたくなさを感じた。

 朗らかで子供らしい和泉からは連想し得ない、初めて目にする側面――裏側、なのかもわからない。

 和泉にはきっと、明かしていない事情がある。それも鬼に関わる何か。

 ただ。いま知らなければならないことは、一つだけだ。

「俺の護衛は、要るか?」

 和泉は、――



 弱く、頷いた。


「……玄関に、嬢ちゃんの鬼を担当してる人間が来てんだ。別に固い用事じゃねえから、とりあえず行ってみてくんねえか?」

 これから行われることが、本人の意思に沿うものならば、それでいい。

 変わりなく、迷いなく。刀を握ればいいだけだ。

「……冬部さん、」

 地元対策支部の隊員は太刀打ちできなかった。意識の戻った隊員の一人に詳細な聞き取り調査を行い、当案件の危険度が推測のち確定された。

 呪力値D、角無、最終決定した危険度はS。自我喪失・暴走状態の鬼のうちでも、最上級に匹敵する。

 和泉の苦い笑みが、どうしてか、これまで見た笑顔のどれより晴れやかに映る。

「これからも、和泉って呼んでください。嬢ちゃんって呼ばれるより、好きです」

 討伐に、彼らがそうなった縁故理由を知る必要は、無い。


 手元から妙な音が聞こえた。すっかり忘れていた件の書類が、握り潰れている。

 酷い折り紙だ。テーブルに広げ、一枚ずつ、細心の注意を払って伸ばす――文面が、目に入る。

「……な、」

 そうして、期日の夜が訪れた。


 ■


 北の地方都市、色町と郊外の境目に、放置された廃墟地帯が存在する。

 色町の路地に迷い込んだ人間が辿り着くのは、廃ビル群と住人のいない宅地が少し。行政によって所々、申し訳程度に立ち入りを警告したロープは、とうに草臥くたびれ千切れている。

 対策部の手を逃れた鬼たちの巣窟、吹き溜まり――「裏街」。

 北における裏街は、国内でも最大規模を誇る無法地帯。スラム街。鬼の非合法自治区。汚点。「住まう鬼すべてを狩ることは困難である」と放置された現状は、北支部の下馬評にも大いに泥を塗ることで名高い。

 対策部の領分ゆえ警察も手出しが難しいグレーゾーンは、鬼に留まらず、法律を疎む職種の人間までも引きつけた。ポピュラーな犯罪者から眉唾物の呪具商まで、治安の悪さは折り紙付き。

 通称を「狭間通り」とは、そういう一帯を指す呼称である。


 晴れた夜空を、満月が照らしている。

 ぼやけて光るコンクリート街は、それ自体が意思をもって、呼吸を殺しているかのような静けさだ。狭間通りの中でもとりわけ郊外に近いここ一帯は、無人区域だと確認が取れている。

「ウインドブレーカー、貸してもらっちゃってすみません……」

「……気にすんな」

 罠を張り終えた廃ビルのフロア内、もたれている柱の向こうからは、身じろぐ音がさらさら聞こえる。

 狙撃に氷崎ひざき、ビルから少し離れて待機する風見かざみ、安全圏から指示を出す榛名。作戦に協力してくれる三人も各々に準備を終え、既に待機位置についていた。

「昨日の夜、どこ行ってたんですか? 冬部さんの分の晩御飯も用意してたのに……私の朝ごはんになっちゃいましたけど」

「……悪い」

「それと。昨日来てくれた時、氷崎さんがお土産にって、アップルパイをくれました。冬部さんの分も冷蔵庫に入れておいたので、忘れちゃだめですよ」

「……ああ、食う」

「……あの、冬部さん」

 皺の寄った書面が脳裏を過ぎる。いくら払っても、頭から離れない。

 迷うな。

 迷うくらいなら、考えるな。

「……言っておくべきだと、思ったんですけど」

 請けた仕事は、和泉の護衛だ。なら、やる事はひとつだろうが――



「おーひーいさん」

――その声はただ、知覚のすべてを白く染める。


 通信より先に、段取りよりまず、足が動いた。

 この瞬間の為に用意した罠も、囮という職務を全うしようとする和泉も、すべて。細められた瞳に捕えられるより速く、和泉を抱えてビルの窓枠を蹴った。三階から外へ、無理矢理の脱出は、身体能力にものを言わせた強行突破。

 榛名と隊員の二人へ怒鳴るような通信を入れ、それでも一刻の猶予すら無い。


 裸足のまま、音もなく着地した鬼は、既に目の前にいる。

「盛大なお出迎え、えらい悩んでくれたんやろ? お疲れさんやなぁ、おおきに」

 和泉を地面に下ろし、離れて下がらせた。標的はまだ、冬部の得物の間合いの外だ。

 中肉中背、暗い茶髪の若い男。角無。和泉を狙う鬼ということは疑いようもない。

 ひどく、聞き覚えのある話し方だ。

「でも、ごめんな? ワシ、あんさんらぁには興味なぞひとっつもあらへんのや」

 へらりと喋りながら、踏込みは一歩――視界いっぱいに拳。

 いなしたが、重い。武具が軋む。僅かにしくじれば折られていた。

 咄嗟に後退した。追っては来ない。というより、冬部のことなど歯牙にもかけていない。

 鬼の興味は一貫して、和泉にのみ向けられている。

「おひいさん、どないしたん? はよう、こっち来ぉへんの?」

 舌舐めずりしながら、友好的に和泉を手招く。

 助けに入るか迷った足は、たたらを踏んだ。

「……今日まで、待ちました」

 金色の瞳が、見たこともない激しさをたたえている――

「私にかけた呪いを、解いてください」

「へ? 無理やで、そんなん」

 あっけらかんとした物言いだった。


 動かなかったのか、動けなかったのか。

 ようやっと、鬼の言葉を理解――したくなさそうに、泣きそうな声が続く。

「無理って、……この間の話じゃないですか、解けるなら今日だって言ったから! だから……!」

「せやで? このお月さんのいっちゃん強うなったときが、ワシの絶好調の日やさかいに。……でも堪忍な? ワシ、術の解き方は教わってへんのや」

 ごきり、と。

 鬼の右腕が様相を変えていく。質量を増す。

 腕全体が一回り膨張し、構成する筋の一つ一つ、見える限り全てが頑健なつくりに組み替わる。掌の輪郭が筋張り、刃に似た鋭利な爪が伸びた。

「十年お行儀良ぉ待ったワシに、まーた一週間『待て』やなんて。焦らすにもほどがあるわぁ……お姫さんたら、いけずやねんから」

 赤い舌が爪を舐め取る。ぎらつく獣の眼光が、茫然とへたり込んだ和泉を射竦める。


 食い殺される。

 上着を掴んで思いきり引き――鯉口を切り、大太刀の柄に手をかける。

 追ってきた鬼の鼻を狙って鞘を投げ、長い刀身の鍔から三分の一ほど、防刃布を手早く巻きつける。

 最も自分に馴染んだこしらえだ。手に吸い付く感覚が心強い。

「氷崎!」

『……怒鳴らなくたって、聞こえてますよ』

 耳慣れた冷ややかな声が、無線越しにカウントを始める。


 手筈通りに。

 鬼が飛び退く。狙撃を躱して得意げなしたり顔に、「それ」は当たった。


 辺り一帯を灼く光と、大気をつんざいた音。


 二発、思考の隙を与えない狙撃が続く。鬼狩りのセオリー通り、人間の造形を保った部分――左腕の二の腕から下が、火力任せに吹き飛ばされた。

 冬部は耳栓を捨て、高く弧を描いた血飛沫をくぐって間合いを詰める。目を開けられていない鬼に、目測で大太刀を振り抜く。

 防御の手応えがした。初めから、猫騙しひとつで仕留められるとは考えていない。

 斬り合いの中で、獣の手が腕を掴んだ。反射で関節を固め背後に脱け出す――鬼の身体能力は人を超えるが、身体構造は人のそれと大差ない。だが頑健ゆえに、並の攻撃で体勢は崩れない。

 視覚と聴覚を奪われたまま、鋭利な爪は狙って急所を引き裂こうとする。致命傷を避けるので、せいぜい――


 判断力を欠いた隙、やむを得ず防御に徹そうとする気配を、待っていた。

 その防御ごと。生物というより金属、無機物じみた塊を力任せに薙ぎ払う。鈍器で殴りつけるに似た感触は、生き物とは信じがたい。

 硬度の有る物質が砕けた感覚を、拾う。

 高く舞い上がった左腕が地に落ちる、湿った音がした。


 硬化した右腕は、表層の大破に留まっている。

 とめどなく湧く血のせいで、傷の深さはうかがえない。左腕があった空白には、骨や組織がむき出しのまま、ちぎれそこなった皮や肉が土埃に塗れていた。

 ただし負傷は冬部も同じだ。獣の爪に抉られた筋が、平行に数本ずつ。傷は無数に、肉を削がれた創部から、少なくない血が滴り落ちては止まらない。

 どちらのものとも知らない血液が、空気を生ぬるく染めている。

 不意に鬼が、斬撃を真正面から受け止めた。獣の右腕から血が噴き出す。

「……やって、くれおったなあ」

 鬼の眼が、薄く開く。

 閃光弾の効果が消える――次の手に移ろうとして、


 ごぼり、と。目の前で、血の塊が落ちた。


 大小様々な滴が意思を持つようにうごめいて、地面でのたうつ。蟲を錯覚したのも束の間、鬼の腕が爆発的に重さを増し、拮抗していた力と大太刀がみるみる圧し戻される。

 うじのように湧き出す血は、もう、目と鼻の先だ。

「ほなま、さいなら」

 記憶のネガを、乱暴に毟り取られたようだった。

 廃墟の外壁に叩き付けられ、衝撃と同時に、肺から空気が押し出される。強制的な呼出に肺は軋み、一瞬、息を吸うことができなくなる。

 冬部を圧し切って突き放し、脚ですこし押し込んだ。鬼がしたのはそれだけ。

 身体に酸素が戻り始める速度は緩慢で、徐々に、内臓に響く痛みを知覚し始める。

「冬部さん!!」

 遠くに声が聞こえた。大丈夫だと言いたい口が動かない。やっとまともに見られた表情さえ、霞んで使い物になっていない。

「もう、いいんです。私は大丈夫ですから。……榛名さんから聞いたんです。ぜんぶ、何もかも」

――本件は現時点より、鬼のサンプル採取を最優先目標とせよ。

 中央対策本部から届いた緊急の書面に、和泉の命を慮る文章は無かった。

「冬部さんが悩んでくれてたのも、最後まで私に言えなかったのも、嬉しかったんです。……本当に、ごめんなさい」

 本来ならば中央本部で取り扱うべき案件であり、北支部には荷が勝ちすぎている。諸君らでは、確実に対象者は死亡する。そうなるくらいなら。何も成果を得られないくらいなら。

 和泉の命を「有効に消費しろ」と。そういう指示だった。

「榛名さん、あの同意書にサインすれば、冬部さんたち、怒られないで済むんですよね」

『……ええ、そうよ』

 聞いていない、と思った。心の声が聞こえたように、榛名が答える。

『隊長さんだって、正隊員になった時とっくに書いたでしょ。死んでも文句は言いません、の誓約書』

 和泉がインカムを地面に置いた。


「ありがとう、ございました」

――ふざけんじゃねえ、すっこんでろ。

 壁から身体を引きはがす。

 上半身を起こし、膝をつき、立ち上がる。単純で簡単な動作だった。

 華奢な身体が飛びついて、地面に引きずり下ろそうと離れない――邪魔だ。軽い。無駄だ。

「いいんです! もう、私の護衛なんか、しなくたって……!!」

 出会ったばかりの冬部を無垢に信じきった、和泉の笑顔を思い出していた。

 差し出された手を何の疑いもなく握った。手を繋ぐ行為が、当然のものとして刷り込まれているに違いなかった。小さくて柔らかい、幸せな子どもの手のひら。

 護衛という理由は、もう無い。無くてもいい。

「ガキ守んのは、大人の務めだ。……退け」

――大人を庇って、子どもが命を張るような真似、ふざけている。

 足は動く。不思議と痛みは無い。刀も、折れていない。

 まだ、戦える。

「それでも死ぬってんならな。大人が、俺が、くたばってからだろうが……順番ぐれえ、守りやがれ……!!」

 

『なら、くたばったらどうですか』


 身に覚えた衝撃は鈍い。低温の声が、耳を撫ぜた気がした。

 不自然な眠気が意識を彼方に奪い去り、何もかも、わからなくなった。



「やー、まあ、おっそろしいヤツもいたもんや。産まれる生きモン間違えたんとちゃうか」

 屋上から屋上へ、屋根から屋根へと、人間ひとり抱えているとは思えないほど身が軽い。着地音の柔らかさとは裏腹に、鬼の踏込みは力強かった。

 着地と跳躍の度にぐんと加速し、和泉の耳元で風が鳴る。

「やわこいお肉食べとうて術かけとんのに、食う前に解いたら意味あらへんやないかワレ! どないすんねん! ってハナシやろ?

 ワシはかしこーいオオカミサマやさかい、ちゃーんとな、分かっとるんやで。残念やったなぁ、おひいさん」

 速さと高度に怯んだのは初めだけ、というよりは、知覚のほうが先に音を上げた。

 地面は上か、空は横か、判断ができない。西の訛り言葉が全く途切れないことだけ、ぼんやりと分かる。

 着地した先、錆びたトタン屋根は、案外やさしいたわみ方をした。

 普通に歩みを止める時と同じくらい自然な着地だ。いつの間にか止まっている――と、気付いて、休む間もない。

 ぶちりと、聞こえた。

「あ、」

 爪が肩口に埋まっている。振り返ろうとした頭に、鬼の顎が乗った。何が起きているかは、見えない。

 聞こえるのは粘着質な音だけ。

 整然とした組織の配列をひっかき回し、千切り出そうとする痛みに、喉から出る音は言語ではない。肉が裂かれ、邪魔な癒着は力任せに剥がされ、時おり骨を抉りかけて、方向転換を繰り返す。

 やっと選り好んだ肉片を引きちぎり、大事そうに口内で転がす。頬を染めて満面に笑む鬼と裏腹に、和泉は力なく寄りかかったまま、流れる涙すらぬぐわない。

「おん? あ、堪忍したってお姫さん。ええ加減我慢出来のおて……いやーでも、やっぱワシの目に狂いは無かったっちゅーこっちゃなあ。やわこくて、あまーくて。ええお肉やわぁ」

 鬼は腰を下ろし、和泉を膝に乗せた。破れた上着からのぞく首筋に鼻をうずめる。


 あの時、思わず冬部に駆け寄った。

 後先考えず揺すった肩は、びくともしなかった。脱力した人間の身体は、重い――ぐったりと動かなくて、血まみれで、このまま死んでしまうのではないかと思った。

 死んでしまうことだけは、絶対に、駄目だ。

『御免なさい。あたし達は、あなたを守ってあげられないかもしれない』

 そう、抱きしめてくれた人がいた。本当なら、冬部から事情を話して署名させそうな誓約書を、榛名が渡さなかったのは、わざとだという気がした。

 優しい人なのだと、思った。

『もしかしたら、役に立つかもしれないから』

 ふと気付いた。

 肩だけは食い破られたが、上着の下にこれが隠れていることを、鬼はきっと、知らない――


「……え、」

 拳銃の断面を、初めて見た。包丁で野菜を切った時を思い出す。

 鬼は何も身構えなかった。さっき肉を千切った爪を、蠅を払うのと同じに、軽く動かしただけ。


――迎えに、行けないや。ごめんね。


 ふっと、身体の支えが消えた。


 あまりに急な転落に、悲鳴は出なかった。

 こちらに手を伸ばした鬼の身体も、真後ろに倒れ、視界から消える。

「あ、」

 闇に絡め取られ、切れる。


 ■


 狭間通りには、報酬に応じて依頼を受ける輩も多い。

 ただ――「依頼」だ。受ける物好きがいなければ意味が無い。鬼が絡む厄介事、決行が明日という強行日程なら、尚更に。

 仲介人からの吉報は、作戦直前、冬部が部屋に放置した貸し端末へ、密かに届いていたらしい。和泉の無事という結果を以て、冬部の「依頼」は果たされた。

「不問だそうです。良かったですね、冬部さん」

 現実の話をすると、冬部の行為は、今回の件の機密保持に関する条項他、かなりの文言に抵触する。

 絶対安静、北支部附属病院のベッドに縛り付けられた冬部の枕元で氷崎が告げたのは、そういう意味だ。

 免職の覚悟もしていた手前、それだけなのかと拍子抜け――したとは、言わない。

「たいちょ、あのさ。中央の偉い人に絞られたのオレなのな? おかしくね? すばるからは『もういいからそのまま帰って?』で、拾ったイズミちゃん病院連れてったら小言で、ていうか今回オレなんも変なことしてなくね?」

「貢献もしてないからおあいこ」

「ひでえ」

 咎めようにも、本人が集中治療室にいては出来なかった、というのが本音なのかもしれない。管を巻く風見が、冬部の身代わりで最も割を食ったに違いなかった。

「迷惑かけた。今度メシ奢ってやる、何がいい」

「えったいちょマジ? 肉! 焼肉でおなしゃす!」

「分かった分かった。氷崎も一緒に来ねぇか?」

「ありがとうございます。予定が合えば」

「は、すばる来ねぇの!? なんで!?」

「僕は別に、偉い人から怒られたとかでもないですから。気にしないで、二人で行ってきてください」

「たいちょがいいって言ってんだからいーじゃんかよ! なーたいちょ!」

 平日の今日、学校帰りらしい二人は、隊服ではなく制服姿だった。近隣の高校のブレザーは、北支部でもよく目にするものだ。

 動かそうとした首は固定されていて、やむなく目で頭を下げた。

「……お前らにとっても、気分悪ぃ話だったろ。巻き込んで、悪かった」

 自分と似た年頃の人間を見殺しにする作戦だ。気分のいいものではないだろう。

「や、そこまでじゃねっすよ」「気にしてませんよ」と、けろりとした返事は――……そうだった。こういう奴らだったな。


 和泉の命に別状はなく、ほどなく地元の病院に転院したという話だけ、後から聞こえた。

 北支部がやけに騒がしかったが、噂は出来る限り、耳に入れることを避けた。和泉が助かったなら、それだけで十分だと思っていたから。

 意識不明の重体から驚異的な回復を見せた冬部は、半ば医師の反対を押し切って退院し、何度か無茶をして強制収容された。


「お久しぶりです。お元気そうでよかった」

 また同じ、春だった。


 一年前と全く同じ、悪目立ちする白のワンピース。長い黒髪をかき上げた和泉は、少し背が伸びていた。

 あっけにとられながら、人事の女性職員からの業務連絡を――反芻はんすうしてから、職員こそがグルだと直感した。ぐいと腕を引かれ、人目につかない観光掲示板の裏に押し込まれる。

 周りを確認した和泉が、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。冬部さんにお礼を言いたくて来ました。私からは、それだけです」

 言葉はシンプルで、迷いが無い。

 混乱した頭でも受け取れたボールを、こちらからも投げ返そうと腕を振りかぶって、そのまま取り落とす。

 和泉に用意すべき言葉が何なのか、全く分からなかった。


「礼なんか受け取れない」

「そんな事のためだけに来たのか」

「あの鬼はもう見てないのか」

「気にしてないからもう忘れろ」

「どう詫びればいいかわからない」

「怪我の痕は残らなかったか」


「……元気そうだな、和泉」

 和泉が初めに言ったものと同じ、ただのオウム返しだ。

 うまく声が出ず、意味もなく咳払いをする。感情の行き先がひどく心許なく、ぐらついていた言葉を、白い両手が掬い上げた。

 顔を上げた和泉が、真っ直ぐ目を合わせて笑う。それだけで感情は、純粋な再会の喜びに変わった。

「冬部さん。まだあのお店、ありますか? 喫茶店」

「ああ、……、おい、まさか再現でもするつもりか。冗談じゃねぇぞこっちは」

「え、いやいや違いますって。ていうかもう、コーヒーだって飲めるんです!」

 今更ながら、和泉が人目を気にした理由に思い至る。

――もう、一年も前の事だったか。

 当時を思い起こし、苦笑いで済ませられるようになった感覚に、時間の流れを感じる。観光ついで、まずは珈琲でも奢ってやろうかと。ひどく、呑気だった。

「もっとずっと、大事なことです。私の話はこれでおしまい」

 その声が、一段低くなる。

 下りのエスカレーターを目前にして、和泉が立ち止まった。他の利用客の妨げにならない位置で、ぴしりと背筋を伸ばす。


「中央対策本部での訓練課程を修了し、春から正式に北支部への配属が決まりました。至らないところばかりかと思われますが、ご指導よろしくお願いします。冬部隊長」


 冬部には懐かしく、また忘れるはずもないもの。話す内容が半分も理解できていなくとも、その敬礼が示すものは反射で結びつく。

 訓練の初めと終わりに飽きるほど強要される、飾りのそれだ。

「……四月バカにしちゃ、悪質すぎんじゃねえのか」

「本当は隊服で来る予定だったんですけれど、両親がまだ『和泉ちゃん』に夢を見ていて……それに、冬部さんにも、お礼を言えてなかったから」

 中性的なアルトを、和泉はもう、誤魔化さなかった。

「俺は男です。初めから、ずっと昔から。あの鬼に呪いをかけられて、十年、女の子として生きていました。……あなたに言えなかったことの半分は、それでした。

 ……あの夜。絶対に、事情を問い詰められると思ったんです。でも違った。……あなたはただ、ずるい子供に手を差し伸べてくれた。何も聞かずに、俺を助けてくれた。あなたの背中に憧れました」

 朗らかで控え目な少女の面影は薄れ、確と芯の強い、少年の眼差しがある。

 この現実が、質の悪い冗談ではないということだけ、まずは納得させられた。

「俺は、俺の願いの為に来ました。冬部さんに鍛えてほしいのも、強く憧れるのも、その願いが関係してないって言ったら嘘になる」

 誰にも言えなかったこと。明かしたところで、信じてもらえないようなこと。

 微かな影を振り払い、和泉は瞳に決意を灯す。

「俺が動かない限り、絶対に変わらないものがあって――変えられないまま死を覚悟した瞬間、本当にそれを、嫌だと思った。だから俺は、覚悟を決めて来たんです」

――もう一度、あの子を迎えに行く為に。

 慈愛の笑みには一片のかげりもない。ただ静かに、愛しいものを抱き締める熱が、言葉を介して伝わってくる。


 この温度に、覚えがあった。

 何故ならそれは、今まで何度も――何人も、この手で。



「妹を探しています」

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