オバチャン、怒りの炸裂。不幸になるのをわかってて差し出すわけには行かない。


「ごめんねアレクサンドル、探したよ…無事で良かった!」


 女は滂沱の涙を流しながら、手を伸ばした。…何に対してって…茂吉にである。

 …待って、何お前。そんなかっこいい名前なの? ずるくない?

 当の茂吉はぱぁっと表情を明るくさせて、パタパタしっぽを振っている。お前、この人間を許せるのか? それとも何をされたか忘れちゃったのか?


「……もしかしてこの子の飼い主? チラシを見て来たの?」

「…はい…ご迷惑おかけしました…」


 塀越しに話すのは何かと不便なので、こちらに回ってもらうことにしたのだが、オバチャン宅に上がるなり、女は茂吉を抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と謝罪していた。

 …茂吉をあの河川敷に捨てたときと同じだ。一度捨てたくせに何をしているんだろうか。


 飼い主が見つかってよかったねとそれを見守るオバチャンには悪いが、私は冷めた目でそれを見てしまう。茂吉が捨てられる瞬間を見ていたからだ。

 この期に及んで何の用だこの女。

 

「まだ子犬なのだから目を離しちゃダメよ? ここのポンちゃんが保護してくれたから何事もなかったけど、」

「…いえ、捨てたんです」

「…え?」


 オバチャンの笑顔が固まった。

 勝手に自供したぞこの女。

 女はしくしく泣きながら茂吉の毛並みに顔を埋めている。茂吉は健気に女の涙を舐めすくっている。…犬というのはどこまでも……

 それが茂吉という犬だから、それを否定はしないが、このままではこいつが損してしまいそうで複雑な気持ちになる。


「彼氏に言われて捨てたんです…付き合っていた彼氏が犬が嫌いだからって…」


 女は「でも、」と更に続けた。


「どうしても…後ろ髪引かれて、アレクサンドルを捨てた後に彼の説得を続けていたんですが……」


 結局彼とは別れました。と呟く女の声がやけに大きく聞こえた。

 まるで、仕方のなかったことのように話しているが、やっていることは男と同じことだ。茂吉を拾ったのか譲渡されたのかは知らんが、捨てたのならこの女も同罪。全く同情はできない。

 この女の言い訳を聞いていると、どんどん気持ちが冷めてく。


 意に染まぬ行いだったなら、なぜ男に言われた時点で行動を起こさなかったんだ。

 そこで別れなかったということは、つまりそういうことなんだろう。


「…男の一声で捨てるなら、あんたには動物を飼う資格なんかない!」


 オバチャン、怒りの一喝が炸裂した。彼女も女の言い訳を聞いて納得がいかなかったのであろう。

 だが私もその意見には同意だ。もっと言ってやってくれ。


「あんたはまた新しい男が出来たら、その男の言うことを聞いて、この子を蔑ろにするはずだよ」

「そんなこと……私はただ…」


 女は怯えた表情でオバチャンを見上げていた。いつも優しいオバチャンはその顔を怒りで歪め、ワナワナと震えていた。拳は握りしめられ、血管が浮き出てしまっている。

 

「犬はね、ぬいぐるみじゃないんだよ。生きているんだよ、恐怖や悲しみをしっかり感じ取る生き物なの。…飼うなら、先のことまでしっかり見通して、最後まで看取る覚悟をもたなければいけないの」


 オバチャンはずんずんと近づくと、女の腕にいた茂吉をそっと抱き上げて引き離した。


「あんたには茂吉ちゃんを返せない。ひとりで帰りな」

「えっ」


 オバチャンはしゃがみ込んで茂吉を床におろした。アホの茂吉は2人が喧嘩しているんじゃないかと心配して足元をチョロチョロしている。

 お前のことで争ってんだよこのアホ犬。


「そんな…ひどいです! 私この子がいなかったら一人ぼっち…」

「ボッチになったのは茂吉ちゃんもだよ。あんたは一度捨てたんだろう。その時点でこの子はボッチにされたんだよ。人間とは違う。捨てられた犬が野良で生きるのは難しい事なんだよ。保健所送りになっていたかもしれない」


 オバチャンの説教に怯えた様子で女はしくしく泣いている。さっきからこの女は被害者ヅラしてるな…被害者は茂吉なのだが…


「私はそんな、保健所送りとかじゃなくて優しい人に拾われたらなって思って……ダンボールにも可愛がってくださいって書いて、この子のおもちゃをたくさん入れてあげてたんです」

「…あんた、さっきからずっと自分のことばかりだね。そんな虫のいい話あるもんかい。…一度保健所に見学しに行ったらどうだい。…とにかく、茂吉ちゃんをあんたには返さない。話はそれでおしまいだよ」


 建設的な会話にならないことにオバチャンも疲れてきたようだ。オバチャンは正論を言っているが、女がずっとぐずっているので、いじめているみたいな気分になっているのかも。


 だけどこの女は今どんな事を言っても受け取らないと思うぞ。

 



 女が帰る際に茂吉はお見送りをしていた。これは元飼い主だからというわけではない。

 来客の多いオバチャン宅で身についた習慣なのだ。きっと茂吉はガス屋水道屋のおじさんと同じ存在として認識しているに違いない。女が元飼い主だとこれぽっちも憶えていないのだ。


「……アレクサンドル」


 女は出ていく寸前にその名を呼んだが、茂吉は反応しなかった。もう完全に自分の名前が茂吉だってインプットされてるんだ。

 

 玄関の扉がパタンと閉ざされた。

 しばらく怒りが収まらなかったオバチャンは鼻息荒くフンフンしていたが、深呼吸をして自分を落ち着かせていた。


「…よし、決めたよ」


 そして何かを決心した様子で、自分に言い聞かせるかのようにそう、口にした。

 

「茂吉ちゃんはウチで飼う。責任持って幸せにする! 決めた!」


 愚かな飼い主に茂吉を預けるより、私が幸せにすると意気込んだオバチャンは、ここぞとばかりに、近所には貼り付けたチラシを回収しに行ってしまった。


 茂吉がここに来て早ひと月。

 やっぱり名前つけちゃったから愛着湧いたんじゃないのか?




■□■



 正式に茂吉はオバチャン家の飼い犬になった。

 あとになって飼い主になってもいいと言う人が現れたが、オバチャンがすっかり愛着湧いて、茂吉はうちの子! と言い切っていたのだ。

 オバチャンならば愛情持って飼育してくれるだろうと社畜も安心した様子である。

 ……私か? …やかましい犬っころが毎日絡んできて鬱陶しいといいたいところだが、こんなやつでもいなくなると寂しいからな。それにオバチャンやおばあちゃんに笑顔が増えたからいいんじゃないのか?

 茂吉は相変わらず毎日がエブリディ状態だ。つまり楽しそうってことである。元飼い主のことなんかさっぱりきれいに忘れて、オバチャン一家と毎日楽しく暮らしている。


 犬には散歩が必須である。

 てなわけで、正式に飼い主となったオバチャンはお婆ちゃんと一緒に茂吉の散歩に行くようになった。私はそれについていく。家猫といえど、ずっと家の中というのは退屈だからな。猫様はいつだって自由なのだ。家の中には決して縛られるものか。

 陽の光を浴びて皆は幸せそうだ。生き物は古来から太陽の光に恩恵を頂いてきた、日光浴は大事だと思う。


 ……社畜もなぁ、もうちょっと陽の光を浴びたほうがいいと思うんだが……ここ最近また帰りが遅くなってるし、食欲もないようだ。随分痩せてしまった。

 朝はいつもよりも早い時間に出勤して、夜は午前様。自動給餌器を導入されたので、私が空腹にあえぐことはないのだが……

 家に帰ってくるなり食事もしないで倒れ込んでしまう社畜がどうにもヤバげに見えてしまうのだ。


 相変わらず私の奴隷として従ってはいるものの、私と出会った時よりも奴の顔色は悪い。眠りも浅いようで…寝たとしても、いつもだるそうだ。

 キレイとは言わないが、不潔でもなかった室内は社畜の内心を表すかのように荒れはじめ、温和だった社畜もイライラする事が増えた。

 この間まで繁忙期と言っていたが、それを抜けて少し暇になったと言っていたのに……お前は何に追われているんだ。頭を抱えて苦悩して、家にいてもリラックスしない。


 なにがあったんだ、社畜よ。

 私には言えないのか?

 ……お前らしくないぞ。ほれ、肉球触らせてやろうか。


「なぉーん…」


 私は社畜に声を掛けた。

 だけど社畜はノートパソコンを睨みつけたまま、決して振り返ることはなかった。



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