第2話


 その週の土曜、閉店間際にその女が来店した。途端、俺のテンションが上がった。


 ラストソングを急遽、『青い影』に変えた俺に、ベースのジローが不平を込めて、ひょっとこみたいな顔をした。


 イントロが流れた途端、女はカウンターから俺を見て微笑んだ。俺も笑顔を女に向けた。



 今回は泣いてなかった。


「いらっしゃいませ」


 前回と同じシチュエーションだった。


「あ、こんばんは。『青い影』をありがとう」


 女はカクテルグラスを手にしながら、虚ろな目を向けていた。酔ってるようだった。


「ああ、いいえ」


「覚えてくれてて、ありがとう」


 女は、鶯色のセーターだった。柔らかそうな毛先が肩の辺りでカールしていた。


「……俺、ユキオって言います。良かったら名前を教えてください」


「……ナミ」


 偽名かも知れないと思ったが、俺は頭の中で、“奈美”という漢字を当てはめていた。


「奈美さんか……。明日は休みですか? 仕事」


「ええ。だから遅くまで飲んでるの。あ、良かったら、何か飲んで」


 奈美は思い付いたように、酒を勧めた。


「あ、頂きます。ビールを」


 カウンターで飲んでいる俺の知り合いの女性客を相手に、ジョークで笑わせていた相楽に注文した。


「はいよ」


 相楽は返事をすると、冷蔵庫からビールを出した。


「ね、ユキオ。カッコが電話頂戴って」


 女性客の一方、ナオミが声をかけてきた。


 カッコは、この二人の友達だった。


「……ああ。するって伝えといて」


「分かった」


 ナオミは返事をすると、もう一方と話を始めた。


「はい、お待ち」


 相楽がビールの小瓶とタンブラーを置いた。


「あ、注いであげるわ」


 手酌しようとした俺に奈美が言った。


「あ、どうも」


 俺は瓶とタンブラーを手にすると、奈美の傍に行った。


 丸椅子一つ間隔を置いて座ると、瓶を持った手を伸ばした。


「届かないわ。横に座ったら?」


 奈美が潤んだ目で見た。俺は言われるがままに奈美の傍らに行った。仄かな甘い香りがした。


 瓶を持った奈美の指は細く、エナメルのマニキュアをした楕円の爪は、背中に食い込む程よい痛みを想像させた。


「モテるのね?」


「えっ?」


「電話してって、さっきの話。女の人でしょ? カッコって」


 確かに、カッコは克子という女のニックネームで、一度だけ関係があった。


「モテないですよ。じゃ、頂きます」


 その件に触れたくないと言わんばかりに、俺は奈美の持ったグラスにタンブラーを近づけた。


「ええ。どうぞ」


 奈美もグラスを傾けた。


「カクテルが好きなんですか?」


「ええ。カクテルには色んな色があるでしょ? ブルーだったり、グリーンだったり、ピンクだったり。その色を見ていると、その瞬間だけでも別世界に行ける。夢心地になれるの」


 奈美は現実から逃れるかのように、その翠色のカクテルを見つめると、自分の世界に陶酔していた。


 エメラルドのプチネックレスが鶯色のセーターとマッチしていた。


 色々と聞きたかったが、余計な詮索をして嫌われたくなかった俺は、共通点を見出だし、サンタナやプロコル・ハルムの話をしながら、閉店までを無難にこなした。


 帰る頃には、奈美は足をふらつかせていた。


「外まで送ります」


 階段を上がる奈美をエスコートした。俺の腕に身を預けた奈美の髪から、高級シャンプーの香りがした。


 人通りのない店の裏に奈美を連れていくと、不意に唇を奪った。


「うっ……」


 奈美はもがくように、俺のジャケットを引っ張って抵抗していたが、やがてその指先は俺の背中で翻弄し始めた。


 全身の力を抜いた奈美の、釦をしていないコートの中から手を入れると、その引き締まったヒップを触った。


「あ~、ダメ……」


 べとついた口でそう呟きながらも、奈美の腰は、俺の太股に擦り寄ってきた。


「……ホテルに行こ」


 奈美の耳元に囁いた。


「……今日はダメ」


「いつならいい?」


「……来週の、……土曜」


「ホントだな? 嘘つくなよ」


「……ええ」


 奈美は小さく返事をすると、背を向けた。

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