暗射地図④

 彼女は柘榴の赤い花を髪に挿し、シュグルを顧みて微笑んだ。売り子は新たな実を俎板に載せ、刃物を差し込んだ。

「どうぞ」

 柘榴の細かい粒が口の中で弾け、甘酸っぱく広がった。

「種ばかりで面倒だ」

「でも、美味しい」

 獲物を仕留めた吸血鬼のように口許を染めて、彼女は笑った。一瞬、白い犬歯が鋭さを増して光ったかに見え、彼は思わず瞬きした。

 二人は借りたタオルで手を拭って、売り子に別れを告げた。二道ふたみちの手前で、シュグルは足早に去ろうとする女の腕を捕らえて引き止めた。

「こんな買い物だけで終わりってこと?」

「そう。今日はその為に誘ったのよ。気を悪くしないで」

 彼女はへの土産にと、彼に柘榴を渡した。受け取りながら、彼は相手の隙を衝いて抱きすくめ、強引にキスをした。が、彼女は動じなかった。むしろ、途中から能動的になって彼を戸惑わせた。柘榴の後味が口腔を行き交う中、彼の感覚は何故か、微かな血の匂いを嗅ぎ分け、眩暈に襲われた。果実は手から地面へ滑り落ちた。

 我に返ると、鳶色の瞳が悪戯っぽく笑って彼を見詰めていた。

「わかった? ここでは皆、こうやって生き返るのよ」

 彼女は手提げ袋から新たな実を取り出し、今度は落とさないようにと念を押して、彼に持たせた。

「……」

 悩ましい後ろ姿が遠ざかる。ようやく諦めがつき、足許に目をやると、柘榴は殴殺された子供の頭のように崩れて飛び散り、赤い果汁が砂埃を浸蝕していた。


 情報屋の様子を覗く気にもなれず、真っ直ぐ宿へ戻ると、すっかり馴染んだらしく、ファルーカは屈託のない笑顔で、ルゥルゥと親しげに対話していた。結構なことだ——と、シュグルは黙って二階へ上がった。

 外開きの鎧戸を開け放った、明るい窓際の机に向かうと、彼はトランクから一番新しい地図を出し、文鎮を置いた。淡い薔薇色の大理石を球形に研磨し、その一部を切り落として底面とした立体である。傍らには同じ材質のペンスタンドがあり、羽箒の付いた筆記具が入っていた。

 三日間の、街での往来を白地図に書き記す。だが、詩人については未だ手掛かりすら掴めていない。しかも、カードは使えないし、両替屋もいない。まったく不便極まりない。早く次へ移動するべきだ。

(……とは言ったものの——)

 ファルーカの問題がある。彼の家と連絡が取れるまでは、仮の保護者として傍にいるべきではないか。しかし、彼はそこまで考えて、思わず苦笑いした。自分の頭さえ百パーセント信用出来ない状態だというのに。宿のあるじに心付けでも渡して、任せてしまうのが一番だ。

 乾いた風を頬に受けながら、時計を兼ねた腕の生体反応板を眺める。死ぬか、帰るか。だが、彼は既に第三の選択肢に思い至っていた。——逃亡、である。例えばファルーカを家まで送った後、行方を晦ますというのはどうだろう。しかし、それにはまず、この厄介な代物を取り外さなければならない。

(どうやって? 手首ごと切断でもするのか?)

 針は正確に時を刻み続ける。そのかすかな音に耳を傾けながら、彼は不意に、削り取られた記憶の痛みを感じた。何かを思い出せそうだった。瞼を閉じ、闇の中で必死に目を凝らす。だが、形のない恐怖が素早く襲い掛かり、彼の全身を包み込んだ。

「……!」

 顳顬こめかみが疼き、冷汗が噴き出していた。

「どうかしました?」

 背後からの声に驚いて振り返ると、ファルーカが心配そうに彼を見つめていた。

「真っ青だ。大丈夫ですか?」

 シュグルはタオルで額の汗を押さえ、トランクに地図を仕舞った。

「怪我人に心配掛けてちゃまずいな」

 少年に薬を出させ、相変わらずぎこちない調子で、古い繃帯を解く。彼は一瞬、眉をひそめて、

「治りが悪い。やっぱり医者を呼んだ方がいいんじゃないか?」

 ファルーカは、消毒液の刺激に束の間、顔を歪めたが、

「でも、少しでも手持ちの薬があるうちは後回しだって、来てくれやしません。この辺りじゃ大抵そうです」

「融通の利かないことだ。じゃあ、早いとこ家に帰るのが一番だな」

「……」

 睫毛を伏せて唇を噛む。戻る見込みのない妹を、だが、どうしても諦めきれないのだろう。青年は、かつて悪魔に売り渡したつもりでいた温情が、まだ自分の中に残っていたのだと、唐突に悟った。気づいたときはもう、抑えようもなく差し伸べられた手が、少年の頭を静かに撫でていた。

「済みません、本当に、こんな——迷惑かけてしまって……」

 ファルーカがおもてを上げて言った。両の眼に涙を溜めながら、辛うじて零さずに持ち堪えている。

「気にしなくていい——と言うより、こっちの都合に巻き込んで悪かった。あの無骨な大男に捕まったときは、縮み上がったろう」

 すると、ファルーカは泣き出しそうな顔のまま、口許を綻ばせて、

「凄く怖かった」

 彼らは穏やかに笑顔を見交わした。が、ファルーカはすぐ生真面目な表情になって、

「何か、特別な仕事なんですね?」

「そう。で分かるだろう?」

 彼は半ば自嘲的に言い放ったが、少年は真摯な眼差しを向けて、

「僕に手伝えることはないですか?」

 シュグルはようやく繃帯を巻き終えると、小さくかぶりを振って、

「気持ちだけ頂いとくよ」

 思い出したように柘榴を手に取り、ファルーカに渡した。少年は微笑んで、

「ルゥルゥがソルベを作るって張り切ってたな。上手く出来たらデザートに出しますから、って」

 少年は、熟れた果実を裂け目から半分に割った。赤い被膜に包まれた無数の種子を頬張る。水分を口に含んだ後、残った種を掌に吐き出すと、彼は唇の回りに滲む果汁を舌の先で舐め取って、満足げに小さな吐息を漏らした。

 シュグルは突然、眩惑に捕らわれた。何故か、娼婦と少年が、同じ世界に属する生き物として、二重写しに脳裏に映じた。確かに、今のファルーカの所作は、彼の劣情をそそる性質を備えていた。細い腕を、脚を拉ぎ、柘榴にも似た癒えない傷を指で抉って、泣き叫ぶ哀れな顔を上目に見ながら、迸る鮮血を啜りたいと思った……。

 生唾を飲み込む。と、同時に彼は、全身を覆う気怠さを意識した。寝台にどっと腰を下ろすと、

「具合、悪いんでしょう。もしかして熱があるとか——」

「えっ?」

 彼は額に手を当てた。間違いなく、熱かった。

「やっぱり。そのまま横になった方がいい。薬、呑んでおきますか?」

 立場が逆転したようだった。すっかり元気を取り戻したらしい少年は、てきぱきとその場を片付け、彼を寝かしつけた。

 そうか、調子が悪かったのか。目を閉じながら、彼は思った。疲れているから、あんな妙な気分になったんだ。大体、出発してから動きっ放しだったじゃないか。船でこっちへ来る前だって、ずっと詩人のことばかり考えて駆けずり回っていた訳だし——少し休むか? 宿ここを出るまで、このまま……。

 だが、彼には安らかな眠りなど許されるはずもなかった。夢の中、彼は砂塵が舞う岩山の麓に作られた絞首台の前に佇んでいる。吊されて息絶えた少女の身体が、吹き付ける風に煽られ、揺れる。ファルーカの妹だ。だが、顔がない。最早、潰れた柘榴のような血の塊でしかない。それがだと、無残な死体を見上げて、彼は理解する。謎は解けた。しかし——微睡みの外へ帰ると、すべては白紙に戻ってしまうのだ。

 何を見ていたのかさえ、もう忘れている。ただ、遠い死臭と、少年が繰り返し部屋を出入りしていた気配だけが、記憶に残っていた。

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