暗射地図②

 ムディールは新聞から目を上げて、

「おや、これからお出掛けですか?」

「夕食をいただいたら、少し歩いてきます」

 中年紳士は意味ありげな笑みを浮かべて、

「夜遊びといっても、この辺りでは、カジノも一軒だけですしな。まぁ、その……」

 言い掛けたところへ、ルゥルゥが料理を運んできた。ムディールは咳払いして、

「お口に合えば幸いです。どうぞ、お楽に」

 鼻眼鏡を外し、席を立つと、フロントへ戻っていった。

「何のお話ですの?」

「いや、別に」

 娘は楽しそうに次々皿を並べた。パンとディップ、豆類のスープ、野菜と羊肉の煮込み、川魚のオーブン焼き——疲労のせいで、あまり食欲はなかったが、青年は世間話に適当な相槌を打ちながら、何とか非礼にならない程度に片付けることが出来た。

 デザートは断った。コーヒーを飲み終えて、彼は立ち上がった。

「遅くなるようでも、気にしないで」

「はい——」

 彼が出ていくと、再び支配人が現れて、

「料理はお気に召した様子かね?」

「ええ。でも……」

「何だね」

「ちょっと変わった方のようですわ」

 ムディールはフム、と呟き、しばらく口髭を弄っていたが、

がおありなのさ。だが、詮索するんじゃないよ」


 シュグルが夜の街へ出たのは、情報屋と接触するためだった。こんな時間でなければ、よそ者が連中に近づくのは極端に難しいのだ。

 運よく縄張りの元締めに会えた。気前よく札束を放ってみせると、大将は即座に相好を崩した。

 街に網を張るのだと、青年は切り出した。相手には吟遊詩人という決定的な特徴があるが、手掛かりは少ない。

「何しろ変装が得意らしくてね」

「へぇ。じゃあ、この辺りに目星をつけたのはどういう訳で?」

「ここか、あるいは隣の街が奴の故郷だという噂がある」

「ははぁ」

「とにかく、詩を書き殴る奴、また、それを歌う奴——さ」

「怪しいのは片っ端から引っ捕らえて旦那に知らせる、と」

「そうだ。よろしく頼む」

 期限はひとまず一週間だと言い置いて、シュグルは彼らの根城を後にした。

 確かに、ほとんどが噂のレベルだった。唯一の具体的な証拠は、血液である。一度だけ、王宮の警備兵の銃弾を受け、詩人の血痕が残されたことがあった。容疑者の指の腹か、もしくは耳朶から採血して、持参した照合器に掛けるのだ。パターンが一致すれば、お尋ね者アムワージュと断定して連行出来る。抵抗した場合は射殺の許可も出ていた。その際は首を刎ね、頭部を持ち帰ればよい。専用の保冷バッグも用意してあった。だが、帰りにそんなが増えるのは、気持ちのよいものではない。詩人がおとなしく従ってくれるのを願うばかりだ、と彼は思った。

 宿へ戻る道すがら、遊女に声を掛けられた。

「あぶれちゃったの。あら、見かけない顔。旅の人ね。どう?」

 街灯の下、女はあたかもスポットライトを受けた女優のようにセリフを並べた。すらりとした立ち姿。袖のない短い上衣に丈の長い腰巻パレオ。露出した臍にピアスを施している。異国情緒を掻き立てられた結果、青年は彼女の客になろうと決めた。

 娼婦は滑らかな指先で彼の手首を掴み、テントへ案内した。ランプの灯がチリチリと音を立てて燃える。淡い褐色の肌をした彼女の身体は豊かで瑞々しく、初めて口にする一種の果実を思わせた。些か渇いて水気が欲しかったからな——と、彼は自分に言い訳した。

 隅に弦楽器とおぼしきケースが立て掛けてある。視線に気づいた彼女は微笑を浮かべて、

「私のじゃないわ。預かってるの」

「ふぅん」

 だが、彼はもう興味を失い、代価について考えていた。すると、

「タダでいいわ」

「どうして?」

「気に入ったから。商売抜きで付き合って欲しいわ。い人が帰ってくるまでの話、だけど」

 彼女は寝そべったまま煙草盆を引き寄せると、周辺の特産だと言って煙管キセルに葉を詰め、彼に進めた。回しみをしながら、ねやの戯れ言は続く。

「しばらくこの辺にいるなら、時々逢ってくださいよ。こう独りが続いちゃ寂しくって」

「まあ、考えてもいいかな」

「嬉しい。じゃあ、ちゃんと名乗らなくちゃね。ルシェッタよ」

「シュグルだ。シュグル=ナーディル」

「どこに泊まってるの?」

「古拙庭園の二階の端にいる」

 ルシェッタは、青年の額に掛かった髪を掻き上げてやりながら、

「遠くから来たんでしょう。初めて見た。そんな、翡翠みたいな碧い眼……」

 一匹の蛾が迷い込み、ランプの笠に留まった。青白い鱗粉が微かに漂う。ぼんやり見上げる彼の視界に、女が割って入った。熱い舌が唇をじ開ける。妖しい夜の生き物が繰り出す幻術に、彼は溺れた。

「もうじき、柘榴ざくろ売りが来るわ」

 譫言うわごとのように、女が呟いた。

「柘榴?」

「そう。ここらじゃ穫れないから、向こうの街から売り子が来るの。そしたら一緒に食べましょう」

「何か特別な意味でもあるの?」

「乾いた土地柄だから、果物は大切なの。中でもは特に——神様への捧げ物だから御利益があるって、昔からの言い伝え」

 これ以上、枯渇しないようにと人身御供を差し出す代わりに、最も血肉に近い味がすると言われる果実を奉納するのだという。

「……」

 蛇のように冷たい腕が、首に絡みついた。縺れながら、彼は何故か、不意に家族を思い出した。出発前、母と姉は泣いていたが、父は黙って、それ見たことかと言わんばかりの顔をしていた——。

(……?)

 いや、その記憶はもっと古いものだ。混乱しているのだろうか。ひょっとすると、に関する部分以外にも、剥奪された過去があるのかもしれない。彼はふと、自分に向けて仕掛けられた罠の存在を意識した。


 口移しに与えられた強い酒の影響か、宿のベッドで眠りに就いた青年を、悪夢が襲った。詩人と自分の立場が入れ替わり、相手が自分の斬首を提げて、国へ帰ろうとしている。詩人は彼の髪を掴んでいる。既に殺されたにもかかわらず、何故か頭皮が引っ張られる痛覚をはっきり感じる。詩人の歩みに合わせて、切り口から地面に血が滴る。青年の命の残滓は不毛の大地を僅かに潤し、そこから紅い花が顔を出した。娘たちが花を摘む。祭壇に捧げるためだ。土地の守り神は生贄の化身を貪り、人々の願いを聞き入れるだろう……。



【ⅱ】


 他の宿泊客と共に朝食の卓に着いたものの、もちろん食欲があるはずもなく、シュグルはフォークの先でスクランブルエッグを掻き回していた。何にせよ果物は貴重だと、昨夜娼婦は語っていたが、心尽くしのサービスなのだろう、銀の大皿に、井戸で冷やしたレモンやオレンジが並んでいる。更に、ルゥルゥがワゴンを押して現れた。西瓜バッティーハだ。娘が包丁を入れるのを見て、彼はげんなりした。


 のんびりしている訳にもいかない。彼は自ら街へ出ることにした。港で買った長衣はとうに洗濯され、乾かされて部屋に戻っていた。彼はトランクからブラスターを出し、ふところに忍ばせた。

 成果なし。仕方なく情報屋の根城へ行くと、早くも数人の容疑者が椅子に括られていた。だが、青年は彼らを一瞥すると、大将をめつけて、

「誰が雑魚ザコを集めろと言った」

「取り敢えず怪しいのは片っ端からって約束じゃないですか」

「こいつらの顔がに見えるか?」

「……」

 特徴云々、挙動の不審さ以前の問題だ、とシュグルは思った。奴らは単なる与太者に過ぎない。むかつくほどの高邁な精神とやらで為政者を非難するのが吟遊詩人の仕事なのだ。老若問わず、彼は高潔な人物でなければならない。そうだ、この俺にこんな辺境まで足を運ばせた人間が、ただのならず者であっていいはずがないのだ。

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