四章 待ち人 2


 残りひと月でニシノライラックを仕上げなければならない。

 当初はオベイロンの手助けがある物と信じて疑わなかったが、レースに未だ使えないあの穀潰しの王様の計略にはまって梯子を外され、重責を一身に背負う羽目になってしまった。馬主の西野もその気になっており、もう引くに引けない。

 町村はともかくあがくしかなかった。

 他厩舎の調教を最小限に、ライラックを優先して乗り込んでいく。

 初めて騎乗したライラックの乗り味は小気味よく、背中に返ってくる感触は上等なバネを感じさせる。肢さばきにも何ら不満は無く、淀みのない手前肢の交換、ギアが一段上がった時のスピード感、どれをとっても申し分がない。

 ニシノライラックは騎乗前の私見を一八〇度一変させるほどの素質馬であった。

 ——それなのに。


 坂路調教を終えると、神妙な面持ちの香澄が待ち構えていた。

「ダビ夫、どうだった?」

「悪くない……っていうか、良い。もしかしたら俺が乗ってきた馬の中で一番かも」

 お世辞抜きに思ったことを率直に答えると、謙遜の『け』の字もなく自信に裏打ちされた声音で「そんなの当たり前っしょ」とそっけなく香澄は返した。

 しかし、だからこそ疑問が浮上する。

 本当にライラックは凄まじい馬力と瞬発力を秘めていた。それだけでG1レースでも互角に戦えてしまうんじゃないかと錯覚してしまうほどの感触なのだが……成績がこの馬の力に比例していないのだ。

 このことを香澄に伝えたところ、「そんなのあたしが知りたい!」と、不機嫌そうにライラックを連れて行ってしまった。

 鞭を尻のポケットに突っ込み思案する。

「困ったぞ。調教だけ走るパターンなのか? 何が原因だろう。馬ごみが怖いのか、競馬場が嫌いなのか……だったらメンコとかブリンカーとか、とにかく試さないと——ってそうだ」

 落馬して馬の王国を訪れる以前のような考えを巡らせてから、頭上のヘルメットにへばり付く珍奇なクリオネ馬に視線を向ける。

「お前はどう思う? どうしてライラックはレースで走らないんだろう」

 オベイロンはぶふー、と鼻を鳴らして、幽体だかエクトプラズムだかの身体をうねうねと身じろがせた。

「ライラックの力は申し分のないものだ。実力者であることは明白。余の家来に相応しいではないか」

「そういう話はしてないってば。厩舎に戻ったら始めるからな」

「ふん、そのくらいは手を貸してやらんでもない。余には肢しかないがな。はっはっはっ!」

「何も面白くねえよ」

 厩舎に戻ったら始める、というのは、他の馬では用いない工程——聞き取り調査だ。

 先々に不安を抱えながらも、調教で乗る為に馬を連れて待っていた宮下厩舎の厩務員の下へと向かった。


 早朝からずっと頭に張り付いていたオベイロンがむくりと体を起こす。

 クリオネ型軟体類のようなヘンテコな身体をボキボキと鳴らし、おっさんのようなうめき声をあげてから自分の身体へと戻っていく。

 本番はこれから。オベイロンの馬房のお向かいさんであるライラックとのコンタクトに臨む。

「ライラックよ、もうひと月もない内に、貴様は大一番となる戦へと赴くことになる。そこのサルが貴様の屋根を務める故、不本意ではあろうが、自身の為にターフを駆けるのだ」

 これもオベイロンがいるからこそのアドバンテージだった。

 馬はいつどこでレースが行われるのか、その日、レースの直前になるまでわからない。

 だがオベイロンを介することで、レースを事前に報せることが可能だ。

 馬たちの精神世界を想像するのは難しいが、この事前告知をするようになってから、自分が調教した馬たちはレースで興奮しすぎるという事は無くなっている。

「オベイロン、ライラックは力があるのにレースで結果に結びついていない。何か精神的な理由があると思うんだ」

 二頭の間で、声なき対話が行われている。傍目には二頭が向かい合っているだけにしか見えず、犬猫のように「ワンニャン」と鳴き声で何か意思の疎通が行われている様子はない。テレパシー的なものかと、想像するしかない。

「ふぅむ……なるほど」

 暫くしてオベイロンがそう呟いた。

「何か分かったか? 馬群が怖いとか?」

「いや、こやつは『待っている』と言っておる」

「待っている? 何を」

「『来るのを待っている』らしい。怒りや畏れ、欲求にも拠らない思考は……我らにとって曖昧なものでしかない。我が臣民は余のようにはいかぬのだ。しかし、レースを嫌っているわけではなさそうだ。余を前にしても物怖じしない様は小心者のそれではあるまい。とにかく、ライラックは待っておる。それが何か——余にはわかりかねる」


 待っている。

 これはまた難解だ。馬にも様々な性格の持ち主がいる。

 自分の影にすら怯えて飛びのく小心者もいれば、悟りを開いてしまったかのように超然としている馬もいる。

 ライラックの場合、後者なのかもしれない。

 頭が良い馬はレースで手を抜くようになると言われている。辛いレースで頑張らなくても安全、食、住処が確保されていることを知っているから、騎手の指示にちゃんと従うことなく『そこそこ』の力で走ってしまう。

 俗にいう『ズブい』馬だ。

 もしこれが確かだとしたら、矯正するのは難しいかもしれない。

「一朝一夕にはいかないな」

「時にサルよ。もしこの城が無くなったとしたら、余はどうなるのだ」

 協力的なのか非協力的なのか分からないオベイロンは、呑気に自分の処遇を尋ねてくる。

 なんとなく面白くなくて無視しようとしたが、いつもやり込められている仕返しをしてやりたくなった。

「お前こんなときに……いや、よその厩舎に移籍だろうよ。ここよりめちゃくちゃ厳しいところにな」

「あ、あの小娘よりもか?」

 オベイロンはピンと耳を張り、口をあんぐりと開けてあからさまに狼狽していた。

 いい気味である。

 そこへ、事務所でミーティング中だった香澄が厩舎にやってきて、こちらを見るなりがなり立ててきた。

「あ! あんたミーティングやってたのにどうして来なかったのさッ!」

 彼女はズカズカこちらに詰め寄ると「サボってんじゃないわよ」と尻を蹴り上げてきた。

咄嗟に避けてしまうと、香澄はむっとして柳眉を釣り上げ怒り心頭である。

「待て待て、暴力は止めろって。悪かったよ……何かきっかけが掴めないかと思ってさ。ライラックとコミュニケーションとってたんだ。だって、負けらんないだろ?」

「それはそれ、これはこれ」

 厩舎のピンチだというのに、日常業務を怠らない姿勢は立派である。

 見てくれからは想像できないくらい生真面目、と言ったら失礼な話だろうか。

 それに姉にも似て美人の香澄なら、こんな狭くてしがらみだらけの世界に居なくたって、引く手数多だろう。いつだったかのテレビ取材のときには、姉の詩織と同じ事務所から誘いを受けていた記憶がある。

 それに比べて自分ときたら……。

 脳裏に、マッチレースに負けた後の人生が過ぎる。

 もし小野寺厩舎が潰れてしまったら、自分はそれでも手綱を取っているだろうか。

 鞍上からの世界を見続けていられるだろうか。

 オベイロンとも恐らく離れ離れになるだろうし、今までのようにはいくまい。

 母親の薦めのまま、騎手を辞めて専門学校にでも通うというのだろうか。

 そもそも、オベイロンとの契約はどうなるのだろう——そういった様々な思いが頭の中を駆け巡った。


「——夫——おい——ダビ夫!」

「えっ? あ、なに?」

「何じゃない。馬とのお喋りも作戦会議も良いけどさ、もっと自分の乗鞍も大切にしなよ」

「なんだよ、いきなり」

「馬と話し込んだからって勝てるわけでもあるまいし、乗鞍だって選び放題ってご身分じゃないでしょ? ライラックのレースが決まって、あんた調教もレースもかなり絞ってるって、さっき美琴さんに聞いたよ」

「美琴さん来てたんだ。まあ、せっかく用意してくれた鞍を断っちゃったのは悪いことしたと思うよ」

「そうじゃない。あんたの話をしてるの。せっかく乗れるようになってきたのに、前も言ったけど、調教師の先生だったり馬主さんとの繋がりを軽視したら、あっという間に干されちゃうんだから」

 先ほどから香澄が何を言いたいのかいまいち掴めていなかったが、これはつまり? 

「お前、そんなに俺の心配してくれるの?」

 その途端に香澄の顔が般若のように歪み、月まで飛ばす勢いで町村の尻を蹴り上げた。

「痛っって——ッ! バッカ! 恥ずかしがるにしたってもっと可愛い表現の仕方あるだろ! どんだけ不器用なんだよ、尻が割れちまう」

「うるさいなッ! 人が気に掛けてやったのにおちょくる方が悪いんだ!」

 ふん、と鼻息荒く憤り、腕組して彼女はそっぽを向いてしまう。

 その仕草だけで良いのに、蹴りはまったく余計だ。

 いつもの香澄であれば、不機嫌になったらそこで終了——その場を立ち去ってしまうものだが、今日はなかなかその兆候が見られない。何かを言い淀んでいるのか、彼女の小さな背中がやけに弱弱しく映る。

「ダビ夫……さっき西野さんから連絡が入った。対戦相手は柴崎厩舎の馬じゃなくて……俊平太さんところの外厩で作ってる馬になるって。それに勝てるなら、貴文さんも考え直してくれるって」

「……そうか」

 レースが決まって良かった、と諸手を上げて喜ぶわけにもいかない。

 柴崎俊平太——以前から多少は知っていたが、名前を聞いて改めて調べてみれば御年八〇にもなる名伯楽だ。

 生涯現役を掲げ、トレセンの外から日本に、世界に挑戦し続けている、言ってしまえば伝説だ。

 所有馬こそ多くないが、名の知れた現役のG1ホースが三頭は居た。

 それ以前に、G3以上の重賞勝ち馬も複数所属していたはずだ。

 選りすぐりのエリートを相手に、無冠のニシノライラックがどこまで通用するのか、考えれば考えるほど不安が募る。だが、香澄はもっと不安を抱えているに違いないと、彼女の背中を見ながら思った。

「ねぇ、あんたさ。どうしてライラックの鞍上に志願したの」

「……」

 オベイロンに背中を押されただけ、とは口が裂けても言えそうにない雰囲気だ。

 自分の身に起こった怪奇現象(?)を香澄は知らない。

 何も知らない人は、いったい自分の言動をどう評価するだろうか。

 オベイロンに押され、サポートがあるという確信から手を挙げたのは間違いないが、果たしてそれだけか。

 薄暗い馬房の片隅で、肩を震わせながら縮こまる香澄の姿を目にしたのは間違いなく影響している。

 だが、実際のところ『コレ』と言えるような絶対的な理由は見当たらない。

 ただ言えることがあるとすれば、勝機があるのはオベイロンの力を借りることができる自分だけだと、本当にそう思っていた。

「もしさ、あの時の雰囲気でって、そういうのだったらさ、無理しなくて良いから。あんたはここが無くなっても、フリーで騎手を続けられる。最近乗れてるし、もしかすると柴崎の馬にだって乗せて貰える機会があるかもしれないんだよ。言ってたじゃん、子供の頃、『ダービーを勝って、ダービージョッキーになる。爺ちゃんを見返してやる』って。でもこのレースに乗ったら勝っても負けてもそんな機会——だからあたしからもライラックの鞍上は別の人にって、西野さんに……」

 ダービージョッキー。

 ダービーを勝った者にだけ与えられる称号。

 欲しくないわけじゃない。

 その為に騎手をしている部分もある、あるけれど。

 子供の頃にした将来の夢の話を、香澄が覚えていたことに驚いた。

 自分ですら、誰かに話したことすら忘れてしまっていたのに、あまつさえ、その夢を案じてくれているというは意外だった。まともに会話をするようになったのは、つい最近のこと。石ころ程度の認識から、多少は評価が上がったのかと、少し嬉しかった。

 しかし訂正しなければならない部分がある。

 香澄は同情されていると思っているらしい。

 それも正解の一つだと思うし、それをして信頼にたる実績を残してこなかった自分の責任だ。

 不安になるのもわかるし、させてしまうのも悪い——と、どうやって誤解を解こうかとそこまで思い至り、大事なことを忘れていることに気づいた。競走馬の手綱を取る上で、馬主や調教師からの許可以外の大切な工程。

 蔑ろにしてはいけない大事なこと。

「なあ」と香澄の言葉を遮ると、彼女が振り向いた。

「——なに?」

「お前の馬、俺に預けて欲しい」

 馬主や調教師、そして騎手だけでも競馬は回らない。

 四六時中と言っていいほど馬と共に生き、馬が信頼を寄せているのは厩務員だ。

 彼らは馬にとっての親兄弟であり、親友であり、最大の擁護者でもある。そんな彼らからの協力が無ければ、馬は真に心を開いてくれないかもしれない。過酷なレースで、人馬一体にゴールを駆け抜けるコンマ一秒、鼻差の一押しを叶えてくれるのは、彼ら彼女らが馬の為に尽くしてくれているからだと思っている。

「勝ちたいんだ、協力してくれ」

 香澄は目を見開いていた。

 いったい何を考えているのか、傍目には放心しているように見えるが、そんなに意外なことを言ってしまっただろうか。たしかに生意気な台詞だったかもしれないが、彼女に強力してもらう上で、これが自分の誠心誠意を伝える方法だった。

「あ……」と声が出たのは香澄の喉の奥から。

 吃音のような音が聞こえ、次の瞬間には彼女の目が潤みだし、途端に両手が掌底のように突き出され、押し飛ばされる。

「うごッ——」

 鳩尾に良い感じの突きを受けて町村が悶絶している間に、香澄は逃げるように出口へと走り出していた。

「おい——待てって! 香澄!」

 慌てて声を上げて呼び止めようとすると、厩舎の馬たちが俄かに嘶き上げて騒ぎ出す。

 馬たちのちょっとした喧噪に包まれる中、出口の前で香澄は目元を袖口で拭い、キッとこちらを睨みつける。

「絶対、勝ってもらうからッ!」

 それだけを言い残して彼女は厩舎から飛び出していってしまった。

「もう少し素直になれないのかね、あの女」

 香澄からもらった掌底の鈍い痛みに苦笑し、腹を押さえながらその場に座り込んでぼやく。

 すると、背後から怯えるような声音でオベイロンが顔を近づけてきた。

「さ、サルよ。もし別の厩舎に移ってしまったら、余は今以上に坂路コースをやらされるというのか? 出来なくはない。むしろその程度を問題視しているわけでは無いのだ。余の無尽蔵のスタミナがあれば何を恐れることがあろう。しかし、余の実力を鑑みれば果たしてそれは必要かという話だ。時間は限られておるし、有益に使わなければならぬ。それに考えてもみよ、余は王である。であるからして——」

 先ほどの香澄とのやり取りなど全く耳に入っていなかったらしい。

 つらつらとまだ決定したわけでもない移籍先の調教メニューに異議を申し立ててくる。

 個人的には、人生に於けるエモーショナルな場面だった気がしたので肩透かしを食らった気分だ。

 ぼふん、と言い訳がましいオベイロンの柔らかい鼻面を小突いて黙らせる。

「だからさ、この厩舎がなくならないように力を貸してくれ」

 そしてこの日から、さらに頭を悩ます日々が始まったのである。

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