三章 業界の力学 3




 柴崎浩平の騎手としての武器は、馬の能力を引き出す騎乗技術でもなく、最大限の末脚を繰り出させる腕力でもない、柔らかい当たりで馬を気分よく走らせる——という物ですらなかった。


 彼が自負する騎手としての武器は何といっても、叔父である柴崎哲に可愛がられていることだ。


 柴崎グループ全体のトップに立つこの男は、普段は世界中を飛び回って馬の買い付けを行っていることがほとんど。何度かの結婚も失敗に終わり、子供も居なかった哲は甥っ子である浩平を我が子のように可愛がっていた。


 オーナーブリーダーという立場でもある哲は、その愛情から浩平に強い馬を与え、NRAの全重賞を勝たせみせると公言するほどであった。




 そして浩平はその寵愛を武器に、彼の『主戦場』であるパーティー会場にいた。


 都内の高級ホテルで開かれた催しで、柴崎グループが主催する馬主会だ。


 柴崎系のクラブ法人の出資者だけでなく、個人の大馬主や鞍上を務めた主戦騎手、芸能関係者なども招かれて大々的に行われ、話題性の強さからテレビカメラも入っていた。


「柴崎騎手、それじゃあやっぱり、目標は日本ダービーなのかな?」


「それは勿論、常に狙っていきたいし、目指さない騎手はいませんからね。でも、次の目標はやっぱり次の競馬で勝つことですね」


「いや、流石のコメント。次世代を担う騎手の鏡だよね! ここ、カットしておいて~」


「ちょちょちょ、勘弁してくださいよぉ」


「あははは——」


 テレビで売れなくなった芸人からのインタビューをお決まりの文句と茶目っ気で卒なくこなし、紋切型の抱負を語ってテレビクルーから早々に離れた。


 今回、この会場にやってきたのはパーティを楽しむためなどではないのだ。


 もちろん参加は馬主連中がいる手前、半ば強制ではある。


 しかしピエロは他の雑兵や外人騎手どもに任せておけば良い。


 シャンパンを一口呷り、ビュッフェの前でキョロキョロしているお上りが目に留まった。


 30代の坊主頭で、スーツよりもオーバーオールと麦わら帽子が圧倒的に似合う純朴そうな男。


 彼はつい最近、育成や放牧に利用される柴崎ファームの分派、その一つを任された牧場長の多田であった。


「やあ多田さん、楽しんでいますか?」


「あ、これは坊ちゃん、お疲れ様です。いや、あははは、こういうのは初めてでどうも、手を出してよいのかどうか」


「はは、好きなように取ったら良いんですよ。ほら、これもこれも」


 多田の持っていた空っぽの皿にローストビーフをごそっと盛り付けてやりながら、それはそうと——」と、前置きし、別の皿に寿司を取り寄せて彼の顔を尻目に呟く。


「小野寺厩舎の小野寺先生が、最近多田さんのとこの仕上げの質が落ちたと嘆いていたな」


 この言葉に多田がギョッとして身構えたのが分かった。


 視線を落とし、恐縮しながら何か謝罪の言葉を紡ごうとしているらしいが、彼が何か言う前にすぐ笑いかけて肩をぽんぽんと叩いた。


「俺はそうは思わなかったけどな、乗り味は良くなってた。元々門外漢の人だから、馬の事なんてわからないのさ。多田さんは自信をもって良いよ」


「坊ちゃん、いや、坊ちゃんにそう言って頂けるだけで私は……」


「なんだよ、他人じゃあるまいし。良い馬を作って、見返してやろう」




 簡単なことだ。


 小野寺厩舎の信用を貶める事くらい、自分の立場を使えばこんなにも容易だ。


 数日前、叔父の哲を突いてみたら、あっという間にクラブ馬を転厩させることができた。


 手始めに手駒のクラブを動かして小野寺厩舎から馬を取り上げてやったのだ。今頃あの分を弁えない厩舎は大わらわだろう。しかしこれで終わりにしてやるつもりは無い。


 業界のルールを教え込む必要がある。


 競馬は人脈で出来ている——この基本をはき違えた三流厩舎、三流厩務員には調教を施してやらなきゃ気が済まない。


 頬に残る鈍い痛みと屈辱の記憶は、未だに拭い去ることができない。


 とくにあの勘違いした馬鹿女は後悔させてやる。


 向こうから泣いて縋りつくまで徹底的に叩きのめしてやるつもりだった。


「黙って股開きゃよかったんだ、馬鹿だぜお前」


 ビュッフェのに盛られていたマスカットを乱雑に口に放り込み、次の標的に的を絞る。


 小野寺厩舎はクラブ馬が多くない三流厩舎で、今のままでは嫌がらせの域をでない。


 明確な報復として、ちゃんと本命を残している。


 柴崎の馬を預けてもらえない三下でも、馬鹿な素人は騙されるものだ。口先三寸で言いくるめられた個人馬主があの厩舎の生命線になっている。その中でも、昔からあそこに馬を預けてきていた大馬主がいる。


 西野貴文。


 代替わりしたばかりのELウェストの二代目社長で、現在主流となっている有機情報端末の基幹部品を主に手掛けているメーカーだ。先代の社長が馬好きであったことから、馬主事業を法人化して多数の馬を所有している。


 どんな繋がりかはわからないが、小野寺厩舎は先代社長から二十頭もの馬を預けられていた。


 どれもクズ馬には違いないが、小野寺厩舎の筆頭馬主だ。


 自分のエージェントに調べせたところによると、西野貴文は代替わりしたばかりの四〇代の若手社長。


 恐らく馬主会に来たのも今日が初めて——恰好の獲物だった。




「西野社長、ELウェストの西野社長ですよね?」


「はい、えぇと、君は確か……」


「お初にお目にかかります。柴崎浩平です。今日は叔父の我儘に付き合って頂きありがとうございます」


「ああ、騎手の柴崎くん。いやこちらこそ、柴崎さんのところに馬を預けているわけでもないのに招いていただいて光栄だよ。馬主会というのはこんなにも盛大にやるんだねぇ。テレビも来てるじゃないか」


 やはりこの業界のことは何も知らないのだろう、読みが当たったと内心ほくそ笑む。


「いつもこんな感じで、業界人は言うまでもありませんが、大企業の個人馬主さんなんかも沢山来て頂いてます。せっかくいらして下さったんですし、手ぶらでおかえしするわけにはいきません。あとでご紹介しますよ」


「そう言って貰えると助かるよ。まだ父から事業引き継いで日が浅くてね、恥ずかしながら右も左もわからないんだ」


「ならお力になります。罪滅ぼしではありませんが……先日のレース、申し訳ありませんでした」


 何のことだろうかと西野は視線を宙に漂わせ、「ああ」とそこで気が付いたらしい。


 おそらく自分の馬が走っているレースもろくにチェックしていないのだろう。


「そうだったね。いやぁ、惜しいレースだった。気にする必要はないよ。ニシノライラックは会社とは別でね、父が個人的に思い入れのある馬だから、父本人が管理しているんだ」


「存じております。僕の力不足でした。ライラックは良い馬ですよ」


「そういってもらえると父も喜ぶだろう。それにしても、君は若いのにしっかりしている。うちの新卒にも見習わせたいよ」


「この世界しか知らない、世間知らずの若造ですよ」


 こんな風に朗らかに笑って謙遜すれば、第一印象は決まっただろう。


 それから、何も知らない西野を招待客に紹介して接待に徹した。知り合いの芸能関係者にも引き合わせ、有意義な時間を演出していく。


 そして、招待客との談笑が一通り済んだ頃合いを見計らい、本題に取り掛かった。


「今日は助かったよ。今まで父が会社を私物化しているんじゃないかと思っていたが、こうした会合だったのなら考えを改めなければね。ライザーヴィックの桧山社長まで来られてるとは思わなかった。良い話ができたよ、君のお陰だ」


「とんでもありません。でも、良かったらまた僕を西野さんの馬に乗せてください」


「ははは、お安い御用だ。うちの馬で良いのなら、こちらから願いしたいくらいだよ。しかし、競馬というはあれなんだろう? 血統がモノを言うらしいじゃないか」


 そこからか、ズブの素人め。


「そうです。馬は血統で大半が決まります。よろしければ、次のセールで良い馬をお教えしますよ。馬を見る目でしたら、小野寺先生よりも——あ、すみません、今のは忘れてください」


「ああ、小野寺先生ね。私はあまりあの人の事を知らないんだ。父と懇意にしているというだけで、結構な数を預けているんだが、正直に言えば……馬主業とはこんなものか、とね」


 来た——獲物が食いついたと浩平は瞬時に判断した。


「僕は厩舎の先生を侮辱するようなことを言える立場ではないんです……ですが、西野さんはまだこの世界に詳しいわけではありませんので、お伝えしておきます。小野寺厩舎では、今以上の成績を上げることはできないでしょう。馬づくりに関しても平凡ですので、僕は転厩をお勧めします」


 西野は少し驚いた様子で、思案気な表情になる。


 わずかな時間ではあるが、この西野貴文という男がどういう人間かを浩平は悟っていた。


 義理や人情で物事を考えるカビの生えたような古いタイプではなく、いかに効率的であるかに重きを置く人間と評価していた。


「転厩か……そういったことは良く行われているのかな?」


「厩舎はサービスを提供しているわけですから、今のサービスに不満があれば、よりよいサービスを受けられる企業に乗り換えるのは、なんら不思議なことではありません。仰って下されば、適切な厩舎を紹介できます。調教師にも得意分野がありますので。ただ、こう言ってしまった手前、僕の父の厩舎に入れていただくわけにはいきません。あからさま利益誘導ですしね」


「その代わり、新しい馬を入れてくれ、という話だろう?」


「ははは、そう取ってもらっても構いませんけど、あまり親子仲が良くないんです。まあ、もうひとり立ちしていますので、時には父もライバルですよ」


「なるほど、奥深い世界だな。実のところ、馬主業は私の代になったら畳もうと思っていたんだ。元々は父の趣味が高じて始まったものだから。だが、今日の会合で視野が広がったよ。この話、真面目に検討してみようと思う」


「お力になります。あと、ライラックの件ですが、お父様の持ち馬という話でしたね」


「ああそうだ。たしか、去年か一昨年に亡くなられた騎手の方かな。その人とダービーを取ろうと誓ったらしくて、どうしても自分で管理したいという話だった。その人とは友人だったようだから、思い入れがあるんだろう」


「井崎修騎手ですね。ライラックも、お二人が目をつけただけあって非常に素晴らしい素質馬です。ですけど——調教がダメですね。元から古馬……四歳以降が本番の血統ですが、今のままでは素質を開花させることなく埋もれてしまいます。担当の調教助手も経験の浅い女性ですし、馬にも舐められている。ライラックこそ、転厩させてG1を目指すべき一頭です」


「うん、それも合わせて検討してみたい。連絡先を教えて貰えるかな」


「もちろんです。今後ともよろしくお願います」




 素人などこんなもの——。


 西野と握手を交わし、踵を返した浩平の顔は嗜虐的な笑みで歪んでいた。

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