二章 契約の意味  1




 サラブレッド救済を掲げる競走馬キングオベイロン。


 馬の王の命令に従い、町村は彼が求める結果を出すために奔走していた。


 オベイロンを介した競走馬との『対話』を武器に、馬に競馬を教え込む日々。


 ゲートで暴れる馬から不安を取り除き、レース前の返し馬ではゴール板を位置を教えていった。極めつけは普段の調教の意味合いだ。


 人間が意識して肉体改造に臨めば、ただのルーチンワーク化した訓練よりも効果が望める——町村はこれを馬に適用できないだろうかと考え、オベイロンを通じて競走馬たちに意識して調教に臨むよう求めた。こうすれば身体が強くなる。強くなれば競馬に勝てる。競馬で勝てばご褒美がもらえる。勝ち続ければ、種牡馬として子孫を残せる。


 彼らの霞がかったような漠然とした思考を晴らし、明確に自らの立ち位置を見通せるように努めた。事実、町村が調教で騎乗した馬は一度の接触で変貌を遂げていったのだ。


 だが実際のところ、馬が本当に理解しているのはわからない。


 オベイロンが通訳しているだけだが、走りが目に見えて変化しているという事実を受け、理解しているようだと結論づけている。


 最近では宮下調教師の推薦も貰い、二週間で六鞍も乗せてもらえた。


 そのどれもが下級条件戦であったものの、優勝が四回、二着三着がそれぞれ一回と、当馬の客観的能力以上の結果をもぎ取った。自分に関しても、これまでに比べて目覚ましい成績を上げるようになっていった。




 昼時の小野寺厩舎、町村はエプロンを首に巻いたオベイロンに梨を与えながら、アームで固定したタブレッドを使い、競馬の動画を見せるという奇行に出ている。


 それというのも——。


「貴様はなぜもっと馬に乗らない。こんなペースでは我が同胞の刺身が積み上がり店頭に並ぶばかりではないか。余の力を持ってしてこの体たらく——恥を知れ愚か者めが——リンゴもたまには食べてみたい。ダイヤモンドばかりでは飽きてしまうのだ。なに? 要らないなどと誰が言った。梨は要る。しかしたまには——」


 こんな調子なので、弱い馬探しの一環でレースを見せ、目星をつけた馬で当たれる厩舎を目指そうと思い立ち、この頭のネジが外れたか、ペットを猫かわいがりする馬鹿な飼い主紛いの行動に出ているのだ。


 現実問題として、自分で馬探しをするのに限界を感じつつあった。


 オベイロンはこちらの事情など考慮せず弱い馬を勝たせろとせっつくが、勝ち星を増やし始めたとはいえ三流の評価に過ぎないのが町村優駿という騎手だ。


 競走馬を手配しているエージェント(競馬専門紙のトラックマン)と契約をしてもらおうと、これまで何人かに当たったが、既に定員を超えていたり、契約できても優先度が低く、抱えている馬を回してやるには代打騎乗くらいしか無いと言われ困り果てていた。


「サルよ、この馬はなんであるか。九番の馬だ」


「ん、牝馬だよ。それがなにさ」


「美しい……余の后に相応しい、そうは思わんか」


「それは……自分でレースに勝って向こうから嫁さんに来てもらえよ……ってか、さっさとレースに出ろ、いつまで穀潰しでいる気だ」


 オベイロンの調教は既に始まっている。


 あとは出来を見て使うレースを検討するのだが、未だオベイロンは香澄はもとより小野寺の納得のいく出来に達していないらしい。


「余がいつ出陣するか、それを決めるのは王たる余である。貴様が気をもむ必要はない。それよりも、もっと馬を集めろと言っておるのだ。身を粉にして働かぬか」


「それができるなら、お前に競馬なんて見せたりしてねぇよ……」


 本当に手詰まりで困っている。勝てるようにはなったし、勝算もあるが、鞍が足りない。贅沢な悩みだ。これが実力で成し遂げられたならどれだけ気持ちよいか。


 そこへ、「町村くーん」となよっとした声がする。


 記者の美琴がいつものようにアナログなカメラを手に、パタパタこちらへやってきた。


「えっと、田所さん?」


「固い固い、美琴で良いわ。私たちそんなに歳も離れてないし」


「はぁ、それで、今日は取材ですか?」


「取材というか、ネタ探しかな。ちょっとソレ撮ってもいい? 衝撃的なんですけど」


 そういって彼女はタブレッドで競馬を見ているオベイロンをパシャリと写真に収めた。


「これは町村くんなりの調教なのかな?」


「ああいや、これはオベイロンが見たいって——」


「やっぱちょっと変わってるよねキミ。いや、良い意味でね。普通ここまで馬と接する人って居ないよ」


 美琴は「王様は今日も元気だねぇ、レースみれて良かったねぇ」オベイロンの鼻面を撫でながら可愛がっていた。


 彼の声が聞こえない者からしたら、オベイロンは可愛い部類なのだろうか。声が聞こえてしまった自分には絶対に無理な接し方だ。当のオベイロンは鼻を撫でられながらブホホと啼いて視線を寄越してきた。


「サルよ、この者は競馬雑誌の記者なのであろう。こやつにエージェントなるものを依頼したらどうだ」


「いやぁどうだろう……ホースマンはそう言うのやってないんじゃないかなぁ」


 オベイロンとそんな会話をしていると、美琴がびっくりした様子で振り返る。


「えっ、なに?」


「ああいや、こっちの話です。なんでもないんです、けど、その、田所——美琴さん。美琴さんに、エージェントになってもらったりとか……お願いできませんか?」


「えーじぇんと……え? わ、わたしが? ムリムリムリムリッ! だって、私この間この世界に入ってきたばっかりだよ! 朝起きるのだって辛いのにお馬さんの手配なんて」


「やっぱりそうですよねぇ」


 ほれみろ、とオベイロンを一瞥するが、彼はぷいと顔を背けてしまう。


 協力的なのかなんなのか、元々サラブレッドの救済とやらは自分の使命なんだろうに。胸中で不満を燻ぶらせていると、美琴が不思議そうにオベイロンとこちらを交互に見やる。


「ちなみにだけど、どうして私にエージェントの話を?」


「その」


 これもまたオベイロンに言われたから——などと馬鹿正直に言うこともでない。いつもこういう場面で苦労を強いられるのは自分だ。元凶の王様は、器用にタッチパネルを唇で操作し、のほほんとレース映像を眺めている。


「乗れる鞍が無くなっちゃって……もちろん、宮下先生の厩舎には沢山乗せてもらってるし、先生の紹介で別の厩舎の馬にも乗せてもらって、有り難いんです……けど——もっと乗りたいんです」


「向上心があるのは良いことよね。最近の町村くん、前の記録と比べると明らかに成績が良いし、もっと馬質が上の馬を回して貰いたいっていうのは理解できる。そろそろ重賞にも挑戦しておきたい歳頃でしょうし」


「ああいや、そうじゃなくて、もっと弱い馬に沢山乗りたくて」


 求めている馬は、良血の素質馬で重賞が期待されているようなエリートではなく駄馬、クズ馬などと揶揄される平凡な馬だ。最近はオベイロンに毎日言われているせいかこの感覚が普通で、口にした時点では気付けなかった。そして美琴が言葉を失い、見開いた目をこちらに向けて来たことで、ようやくその、騎手としての異常性に気づいたのだ。


「やっ、今のは——」


「町村くん、その要望の背景にあるのは、騎乗技術に圧倒的な自信があるから、と解釈しても構わないかしら?」


「違うんです! そんな自信無いです、えと、なんて言ったらいいかな。そう——俺みたいなのには強い馬は回って来ないから、数をこなして腕を磨きたいんですよ!」


 それしか上手くなる方法は無いですからね、と笑ってごまかした。一応、これが当たり障りのない回答なのではないだろうか。


「ふーん」と美琴はしげしげと顔を覗き込んでくる。


 なんだか最近、こうやって訝しまれる事が多い気がしてならない。これもすべて自分の日常を引っ掻き回すオベイロンのせいだ。我関せずな王様を苦々しく思っていると、美琴は見逃してくれたようで「まあいいわ」と追求の姿勢を解いた。


「でも、気が変わったわ。エージェントの件、ちょっと考えてみるから」


 そう言って彼女は来た時と同様にふらっと立ち去って行った。


 危機が去ってくれたことに胸を撫でおろしていると、ブルフフフと鼻を鳴らすオベイロンが目で語りかけてくる——『余のお陰であるな』と。


 それが面白くなく、オベイロンに与える筈だった梨の切り身を自分の口に放り込んだ。




◇ ◇




 美琴は支社に戻る道すがら、小野寺厩舎に所属する不思議なコンビのことを考えていた。


 方や説明不要のコスプレ競走馬、方や雌伏の時は終わったとばかりに結果を出しまくる若手騎手。あの一人と一頭の間に立つと、奇妙なことだが町村一人と会話をしている気にならない。


 もう一人誰かが居るかのような……オベイロンという特異な馬がそんな気を起こさせる。


 馬は賢い動物だ、とはいえ、あそこまで人間味あふれる動物を猿にだって感じたことはない。もしかすると、町村は本当にオベイロンと会話をしている——?


 そこまで考えた美琴は頭振って馬鹿な想像を打ち消した。


 何にせよ、あのコンビへの興味が尽きない。仕事としてネタになるという事もあるが、それ以外にも、個人的にあの不思議な空気を纏うコンビは好ましい。


 町村のエージェントの件についても、弱い馬を探してくれなどという騎手を聞いたことが無い。練習したいからというだけの発言ではないはずだ。野心があるタイプとは違うが、虎視眈々と競馬界でのし上がる機会をうかがっているように見える——。


 美琴は町村優駿という騎手を、もっと知りたいと思った。


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