一章 サラブレッドの王様 3




「これは良いものだ。このような鉄の馬があるのなら、我らを駆る必要などあるまいて、サルどもの考えはわからぬものだ」


 町村は現在、トレセンの中を電動スクーターで移動中なのだが、頭上から文明の利器に感心するオベイロンの声が聞こえてくる。別に馬である彼がスクーターに並走しているわけではない。


 声を発しているのは、ヘルメット越しに町村の頭にへばりつく物体だった。


 ポップな馬の帽子のような顔をして、胴体がクリオネみたいな姿になったファンタジー全開のオベイロンだ。どういうことかといえば、幽体離脱のようなものらしい。


「お前さ、元の身体はどうなってんだよ。死んでんじゃないだろうな?」


「余を侮るでない。同時に二つのことをこなすなど容易いものよ。今もとの身体はあの娘が飼いつけを行っておるところだ」


「ふぅん……」


 今朝、厩舎に顔を出したなり、オベイロンの身体から人魂のようにこのクリオネの化け物がするっと抜け出てきたのだ。もうなんでもありだな、町村はすべてを受け入れる心持だった。


 そして、なぜオベイロンを伴ってスクーターを走らせているのかと言えば、契約を果たすためだ。オベイロンのいう弱者救済は、レースに出なければ始まらない。そのためには、まず乗鞍を確保するための営業活動が必須だった。


「サルよ、何か当てはあるのか?」


「まあ、一応な。有力馬が多い厩舎はまず乗り役が押さえられてる。だからあまり目立たないところが良い。新し目の厩舎なら、きっと鞍上があいている馬がいると思う」


「ふむ、懸命だな。強い馬は余が手を貸す必要もなく、自ら道を切り開く。にっちもさっちもいかない駄馬こそ、余が手を差し伸べてやらねばならぬ」


 お前には脚しかないじゃないか、というツッコみをぐっと堪え、道なりに進んだ。路上に落ちている馬の馬糞を回収している清掃ロボが通り過ぎるのを待って、とある厩舎の前でハンドルを切った。




 厩舎の前にスクーターを止めた町村は、念を押して尋ねる。


「本当に力を貸してくれるんだろうな? 弱い馬だと、本当に俺じゃどうにもできないぞ」


「くどい。サルよ、貴様はすべての馬がレースで全力を発揮していると思うか?」


 それに対して「思わない」と日々実感していることを答えた。


 走る気のある馬と、走る気のない馬、これは大体わかる。大方の騎手はそれを感じ取っていることだろう。真面目に走らない馬は居るのだ。


 うむ、とオベイロンが頭上で首肯した。


「残念なことに、我が臣民はレースを正しく理解できぬ。その成績如何によって、自らの運命が左右されることも。故に、よくわからぬまま走っておる。貴様の任務は、走る気のない強い馬の隙を突き、走る気にさせた弱い馬を勝たせることにある。そのために、余が力を貸すのだ。わかったらとっとと行かぬか! ハイヨーッ!」


 それが出来れば苦労しないのだが、つまりどういうことなんだろう。


 もやもやを抱えたまま歩みを進めると、ちょうど厩舎から宮下が出てきた。


「宮下先生!」


 声を掛け、町村は彼に駆け寄った。


 宮下は変わり者の調教師だ。聞いた話によると、元は畜産系の大学で人工肉の研究をしていた大学教授だったらしい。当時の癖か習慣か、はたまた願掛けかは知らないが、彼はいつも白衣を着ていた。ぼさぼさの髪と眼鏡に白衣、そして長身痩躯の宮下は、とても馬の調教師とは思えない風貌だ。


「君は……確か騎手の町村くん?」


 眼鏡のブリッヂを押し上げて物珍し気な視線を向けてくる宮下。それもその筈で、会話らしい会話など一度もしたことがなかったからだ。


「話すのは初めてだったよね」


「はい。何度かお会いしてますが、面と向かってはたぶん初めてで……それで、不躾で申し訳ないんですが、今空いている馬があれば乗せていただけないでしょうか」


 こんなことを突然やってきて口にするのは気が引けた。


 普段であれば、誰かを介して口利きしてもらったり、自ら話を持ち掛けたりするのだが、それだとどうしても時間が掛かる。今はオベイロンにせっつかれた挙句、強硬手段に出ているのが実情だ。


「なるほど、弱小厩舎ならどうせ空いている馬があるだろう——と」


 宮下はこちらの思惑を見透かしたようにニヒルな笑みを浮かべた。


 この切り返しは予想しておらず、機嫌を損ねてしまったかもしれないと焦ってしまった。


「いえ、そんなことはッ――」となんとか弁解しようとした。


「なんてね、冗談だよ。二年前にやっと開業までこぎ着けたのは良かったんだけど、まあ難しい。馬って。自分なりの理論を持って飛び込んできたつもりが、去年一勝もできなかった。さすがに堪えるね」


 宮下の横顔は自嘲気味ており、調教師としての自信を喪失しかかっているように思えた。


 競走馬は高価な商品だ。馬主となるオーナーとの繋がりが必要不可欠で、血統の良い良血馬を集めるには、彼らオーナーに気に入られる必要がある。


 調教師仲間と小野寺が話しているのを小耳に入れたところによると、宮下はコネも何も無い門外漢の新人という難点に加え、営業下手でもあるそうだ。それでは人生の成功者ともいえる馬主たちを抱き込むのは難しい。


 個人馬主の多くは起業家だし、営業のプロだ。


 なので今では馬を預ける預託料をぎりぎりまで引き下げ、人件費を最低限まで削り、どうにか厩舎を回しているらしい。


 このままだと早晩廃業の憂き目にあうとの噂だ。


 疲れ切った顔に張り付く自嘲には、悔しさを通り越した諦めがあった。


 そんな宮下の立つ場所と、騎手としての自分の現状にシンパシーを感じるのはおかしいだろうか。


「サルよ、早く話をすすめんか」


 この王様は感傷に浸ることすら許しちゃくれない。


「宮下先生、試しに俺を使ってくれませんか。俺の乗鞍が少ないのは先生もご存知でしょうけど、穴をあけるのには定評があります。今まではほとんど自厩舎の馬ばかりで、それも数が限られた中でやってきました。でも今のままだと、近いうちに騎手を辞めなきゃならない。下手糞でやめるなら諦めもつきますけど、その見極めもされないうちに、ひっそり居なくなるのは嫌なんです。お願いします! 俺を乗せてください!」


 町村は深く頭を下げ、宮下がその頭をじっと見据えていた。


 「ふぅ」と息をついて彼は無精ひげをひと撫でし、ややあってから、


「わかったよ」


 宮下はレースに使うという三頭の馬を紹介してくれるという。


 この成果にオベイロンは「口は達者なようだな」と皮肉ってくれた。




「うちみたいな所でも、新人は乗りたがるんだ。彼らは減量特典があるから、よくお願いするんだけども……まあそういうことだよ」


 宮下はつまり、ウチの馬は弱いと言いたいのだ。


 斤量と呼ばれる競走馬に背負わされる負担重量がある。それが新人騎手の場合は特典として三キロ軽くして貰える。一キロで一馬身の差がでる競馬の世界ではかなり魅力的な制度だが、町村にはもうこの制度は適用されないため、その不利を承知で任せてくれるというのだ。責任は重大だった。


「ここの三頭をまず任せるよ。調教から乗りたいという話だけど、明日からよろしく。とくにレッドジャスティスとフランベルジェは土曜に使うから、追い切りも頼むよ。私は事務所の方で仕事が残ってるから」


 好きに見てってくれと言われ、しげしげと任された馬たちと対面していく。


「さて、オベイロン。ここまでやったんだから、策があるなら早く教えろよ」


「慌てるでない」


 オベイロンはもぞもぞと町村の頭上でウミウシのように蠢き、顔を突き出してこちらに注目している三頭を観察していった。馬はオベイロンが見えているのだろうか?


「確かに、強者の覇気は感じられぬ。この者たちは弱い」


「そらあ、強い馬が居たら宮下先生もあんな疲れた顔してないだろ」


 それはわかりきったことだ。


「しかし——体調は悪くない。身体もしっかりできておる。食事が良いのであろう」


 食事か、と思い立ったのは宮下が配合した飼料だ。


 伊達に畜産大学の教授職にあったわけでは無いということだろう。馬づくりの基礎である飼料にはこだわりがあるのかもしれない。


 町村は左手首の電子タトゥーに触れ、首から下げた端末を起動させた。瞬時に端末が起動し、前面にホログラムの画面が投影させる。そして試しに目の前のレッドジャスティスを検索してみた。


「うぅん……芝馬としてはマイナーだな。セプラーとか今日日聞かない」


 成績は言わずもがな。


 競馬は馬が七割、騎手が三割。


 馬側の能力が上限四割だとすると、最高の騎乗をしてみせても人馬で計七点のレースになる。騎手にしてみても、三割を実現させるのは難しいし、良血と呼ばれる高馬たちに勝つのは至難の業だ。この安馬たちの力は果たしてどれほどのものか。勝てない馬を持っていても馬主はつまらないだろうし、このままでは競馬から手を引くまで時間の問題かもしれない。


 オベイロンはどうやってこの馬たちを勝たせるつもりなのだろう。


「町む——サルよ」


「そこ言い直すなよ」


「どのように勝つか、それを決めるのは貴様なのだ。他のサルどもにはないこの有利を生かせぬのなら、貴様を生かす価値すらないことを胸に刻むが良い」


「勿体ぶるなよ、どういうことか早く教えてくれ」


「性急な奴め。つまりはこうだ——」


 オベイロンの話を聞いて、その言葉の意味を飲み込んだ。


 町村の胸中では、これならばという興奮と、後ろめたい罪悪感が芽生えた。




◇ ◇




 そろそろ朝の七時を回ろうかというミホのトレセン。


 今年二六歳になった田所美琴は、先輩記者にくっついていき、調教師が調教を観測する調教スタンドに訪れていた。


 霧の立ち込める馬場を競走馬が一頭、また一頭と坂路を駆け抜けていく。その様子を調教師たちが、そして、競馬専門紙のトラックマンらが熱心に観察し、情報端末に記録していた。


「はぁ」と、美琴は温かい缶コーヒーをホッカイロ代わりに息をついた。


 先輩記者の須藤が、山男のようなひげ面を向けてくる。


「田所、そろそろ慣れてきただろ?」


「まだ一週間ですよ? そんな急には……」


 自信なく答える美琴に、須藤は「まあ、そうだわな」と同情した。


 自分の置かれた状況に、美琴は複雑な心境だった。


 美琴は先月まで勤めていた一般紙の政治部を辞め、転職したばかり。


 上司からのセクハラとパワハラに耐えかねての転職で、その際に、よく相談に乗ってもらった同僚の先輩に紹介してもらったのが、月刊誌『ホースマン』だったのだ。


 畑違いではあったが、浮気されて別れた元交際相手が競馬好きであったことも起因し、多少なりとも馬を知っていた。


 そんな縁もあって前向きに入社したのだが、上司からのセクハラ&パワハラに加えて浮気のダブルパンチが重なり、身心が弱っていたところでこの仕事。


 毎朝三時に起きで準備して、トレセンの社宅から支社に向かって取材する。


 正直しんどい。


「ま、身体が慣れるまでの辛抱だな」


「須藤さん、うちって月刊誌なんですよね?」


「紙媒体はな。これから少しずつ任せていくけど、ネット記事はほぼ毎日更新してるし、人工知能予想アプリのデータ収集も必要なんだ」


「そんな手広くやってるとは思ってませんでした」


「はは、お前ほんと飛び入りだったものな。うちの会社、三年近く新卒が来なくてさ。長老は定年で辞めちまったし、どうやって回そうかって頭抱えてたんだわ」


「もっと早く知りたかったです、それ」


「まあそう言うなよ。馬が好きって面接で言ってたじゃないか」


 ほら、いっぱいいるぞ、と馬場を指して笑う須藤。


 確かに馬は可愛いし、傷ついた心は少なからず癒される気がしないでもない。ホースセラピーなんて言葉もあるくらいだ。


「今日もトラックマンで言うところの想定班の仕事だ。お前には俺が回ってた厩舎を少し担当してもらうから、少しずつ覚えて行ってくれよ」


「ハイ、オネガイシマス」


「うんうん、良い返事。ほら、教授——宮下先生のとこの馬だ」


「確か、レッドジャスティス」


「走りをよく見るんだ」


 レッドジャスティスは坂路を勢いよく駆け上がっていく。じっくりと観察してみたが、やっぱりまだよくわからない。どんな走りをしていれば良い状態と言えるのか。


「アドバイスとしては、まずは積極的な興味を持つことだな。好きになった馬とか、騎手を追っかけていけば、覚え方も変わってくるんだろうが」


「好きな馬と騎手……」


 そう言われ、走り終えたレッドジャスティスを目で追った。


 帰り道へ進む人馬を暫く眺めていると、鞍上の騎手が馬の首を撫でている。


 よく見る光景だが、彼は馬に何かを話しかけていた。すると、馬が答えるように首を上下に振っている。その光景がなんとも微笑ましくて思わず笑みが零れてしまった。


「須藤さん、レッドジャスティスに乗ってる人って?」


「ん? 青ヘル被ってるから騎手だな。気になるなら後で宮下先生に聞いてみな。顔も覚えてもらってかないと、ネタは抜けないぞ」


 美琴は先ほどの人馬のやり取りを遠目に見つめ、好奇心が湧いていることに気づいた。




◇ ◇




 宮下厩舎のレッドジャスティスに騎乗して坂路を駆け上がった町村は、抜群の手ごたえを感じてレッドの首を撫でてやった。


「いいかレッド、今の感じを忘れるなよ。俺が追い出したときに全力で走る。手綱を絞ったら力を温存する。他のみんなに合わせなくて良い、俺の手綱に合わせて走るんだ——って、これちゃんと伝わってるんだろうな?」


 ヘルメットの上には当然のようにオベイロンが張り付いている。彼はふごふご鼻を鳴らして頷いた。


「あまり多くを理解できぬが、余を介して伝えている分、貴様らサルの指示を受けるより物分かりが良くなっておる」


「頼むぜほんと、宮下先生にでかい口叩いたんだから、せめて馬券にならなきゃ合わす顔がなくなるよ」


「それよりも、レッドが見返りはあるのかとせっついておるぞ」


「見返り? なんだっけ?」


「丸くてしゃくしゃくした食べ物だそうだ」


「ああ、りんごな。用意してある。この後でやるよ」


 その言葉な伝わると、レッドジャスティスは前掻きをして興奮ながら嘶いた。


 その様子に町村の顔もにやけてしまう。


 楽しい——。


 馬との意思疎通が目に見えてわかる。


 これがサラブレッド救済を命じたオベイロンの秘策だった。


 こちらの指示をオベイロンを介して『言葉として』馬に理解させることができる。


 加えて馬の考えをオベイロンが言葉にしてくれる。人馬のやり取りをこんな風に簡潔にしてもらえれば、力の足りない馬だってきっと十分に戦える。


 インチキ——と言われるかもしれないが、オベイロンは自分以外には見えない。


 こんなことバレる筈がない。当初は憂鬱だったこのクリオネ馬との契約だったが、蓋を開けてみればどうだ、こちらのメリットばかりじゃないか。


 町村はもうレースがしたくてうずうずしていた。この成果を早く確認したい。


 競馬をしていてこんなに楽しかったことはない。


 この調子で、オベイロンの助力を得ながら宮下厩舎のフランベルジュの追い切りも終え、今日は二頭の馬とのコミュニケーションを行うことができた。


 最終追い切りの調教を終え、宮下厩舎に戻った町村は人目を盗み、飼い葉桶に二つ分のリンゴをこっそり落とした。


 待ちかねていた様子のレッドジャスティスは勢いよく顔を突っ込み、シャクシャクと音を立てている。


「よーしよし、レースで勝ったらもっと食わせてやるからな」


 気分よく馬の鬣を撫でまわすと、レッドが煩わし気な視線を向けブホ、と鼻を鳴らした。


「町村くん!」


 呼び声に振り向けば、白衣姿の特異な調教師の宮下が厩舎にやってきた。


「調子はどうだった?」


「問題ありません、やれますよ」


 これは気持ちが昂っていたこともあるが、本心だった。自分が手にしたアドバンテージはそれほどまでに強力なものだ。


「はたから見ていても動きが良化していた。確り折り合えているみたいだし、不思議だな。レッドは直ぐに行こうとする馬だったし、手前肢の変換も下手糞だったんだ。まるで昨日までとは別馬になっているみたいだよ」


 流石に宮下も調教師なだけあって気づいたらしく、町村は少しどきりとした。


「相性が良いのかもしれませんね」


「そうか……。それでなんだけど、どのくらい、行けそうかな」


 その質問の真意は、馬券になるかどうかの判断だ。


 勝てない馬を持つ馬主にとって、毎月の預託料はストレスでしかない。それ故に、調教師は馬主を繋ぎ止めておくため、少しでも馬主に還元させようとして、勝負になるかどうかをこっそり教えている。


 俗にいう、インサイダー馬券だ。


 自分で言うのもなんだが、こんな三流ジョッキーの判断を仰ぐのは危ないと思う。


 しかし、そうは思いながらも町村は答えた。


「三着までには必ず」


「……驚いた、そこまで自信満々に答えてくれるとは思ってなかったよ」


「任せてください」


 正直、任せ下さないなどという自身の裏付けなどどこにもなかった。


 なかったのだが、オベイロンというアドバンテージは、町村の気持ちを無意識に大きくさせていたのだった。

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