キングオベイロン 第13Rのダービー馬

おうみとんぼ

序章1

 序章 


 1


 馬群が第四コーナーに差し掛かった。


 それまで団子状に空けていた馬たちの距離が一気に縮まり、ベイト・ボールを形作り捕食者を威嚇する魚群のように一塊の群れとなった。


 最後の直線に入り、鞍上の騎手たちは勝負に出る。


 馬蹄の音が近づくにつれて、スタンドに詰めかけている数万の人間達から発せられる声が大きくうねり、口々が発する叫び声が大歓声の潮流となる。


 馬群が横に広がった。


 熱の籠もった声でアナウンサーが馬の名前を捲し立てる。


 騎手は手をしごいて懸命に馬を追い、鞭を打ちつけて馬に合図を送る。


 競走馬たちが最後の直線に入り、興奮と熱狂が最高潮に達する。


 全ての競走馬が全身の筋肉を躍動させ、狂気に駆られた疾走でターフを抉り、巻き上げる。


 ゴールまであと僅か。


 スタンドは絶叫し、アナウンサーが先頭に躍り出た馬の名をがなり立てる。


 その時、大きく広がる馬群から更に外へと飛び出した一頭に目に止まった。


 彼と一頭は最後方から姿を現し、外ラチ一杯——スタンド前に深く鋭く切り込む。


 巻き上げられた芝生でけぶるコース上、そのただ一頭だけに目を奪われる。


 騎手は全く姿勢を崩すことなく、鞭を馬の横面から前へと一直線に突き出してみせた。


 ——行け。


 まるでそう言っているようだった。


 先頭からはおよそ十馬身、ゴールまではあと僅か。


 本当に届くのだろうか——そんな心配を他所に、その馬の走りが変貌した。


 グッと首を下げ、鬣を靡かせながら前へ、前へ。


 弾けるような脚さばきは、走るというよりも奔る——その馬は風になっていた。


 大外から前を行く馬たちを瞬く間に抜き去り、先頭の馬を差しきってしまったのだ。


 この光景だけが忘れられない。


 その馬の名も、馬を駆る騎手の名も覚えていない。


 ただ、幼少の時分に切り取られた数十秒の記憶の中で、あれが馬の『王様』だと思った事だけは今もしっかりと憶えている。


 常に心の中に在り続けたこの情景が、自分に進むべき道を指し示したのかもしれない。


 あの場所へ、あの鞍上へ——馬の王様と共に——そう願った。




 それから約二十年。


 自分はターフの上にいた。


『各馬三コーナーを曲がります。三番コルクジャッキー、四番トリンロップ、十番ギュンター、先団三頭が固まって来ました』


 競馬学校を卒業し、プロの騎手となって五年目の春。


 思い描いていた将来像とはかけ離れ、去年の騎手リーディングは一三一位、獲得賞金は三千万ちょい、重賞とは縁遠い三流ジョッキーになっていた。


 『新東京国際競馬場』、芝一四〇〇メートル、二歳、五〇〇万以下。


 位置取りは後方二番手。自分が鞍上を務める一〇番人気のマリモナインは、ハミ——馬の口に噛ませる金属製の棒で手綱と繋がっている——が気になるのか、しきりにベロベロと舌を出し、レースに集中出来ていない。


 まだニ歳と幼い部分があるので、レースを理解していないのだろう。


「マリモ、しっかりしてくれよ。ちょっとは良いところ見せようぜ」


 ブホ、ブホ——マリモナインはこちらの気など知らず、相変わらず舌を遊ばせている。


 この分だと坂で嫌気が差し最下位も見えてきた、そう思うと気が重い。


 今日は競馬の祭典、東京優駿『日本ダービー』が開催される日だ。


 もちろん、リーディング下位の自分に騎乗予定は無い。この日に府中で騎乗馬があっただけ御の字というもので、このレースの後はお客さんに混ざり、ダービー観戦をして帰る予定だった。既に今日は一鞍乗って五着。掲示板を確保してはいたが、この一鞍は馬券内の三着にまで持っていきたかった。


 レースの前、返し馬で表に出たとき、よく見かける穴党の馬券親父が声を掛けてきた。


『町村ァ——ッ! 穴空けろよォ! 借金返さなあかんねん! ほんま頼むわァ!』


 騎手というのは難儀な仕事だ。見知らぬ他人の人生まで背負わされた挙げ句に、結果が出なければボロカスに言われるのだから。それでも穴党——人気のある低配当馬券を無視して、人気薄の高配当馬券を追う人たち——から好かれているのは悪い気はしない。


 十回走って、一回穴を開けられたらめっけものだ。


 それに、自分に回ってくる駄馬と言われるような馬で、人気馬をぶっちぎるのは爽快だし、その馬が持つ本来の力を出せてやれたときなどは、騎手冥利に尽きるというもの。


「マッチ君、着いておいでヨ。ボク、道作るからサ」


 いつの間にか隣に馬体を併せてきていたのは、最後方に居たフランス人騎手のアルノー・ブノワだ。リーディングで首位争いをするこのフランス人に、何故か自分は好かれている。着いておいでという彼の意図はわからないけれど、フランスの名手でもある彼に着いていけば、自ずと好位に陣取れるだろう。


「ついでにゴール前でハナも譲ってくれよ」


「ソレは君次第だヨ」


 アルノーはニヤリと笑い、一番人気のジョークンシーを四コーナー手前で上げていく。


 それに続いて自分もマリモに後を追わせた。


『四コーナーのカーブに向かいます。先頭の三番コルクジャッキーです。六〇〇を切ってリードは一馬身、四番トリンロップが二番手で四コーナーから直線。三番手ギュンターが上がって行きます。そして膨らんだ中段から間を割って一二番、一番人気のジョークンシー。ジョークンシーは七、八番手という位置。さぁ、残り四〇〇を切って——』


 東京名物の坂に差し掛かる。高低差二メートルの長い上り坂が約二〇〇メートル。


 心臓破りの坂とも言われるこの勾配を越え、最後の直線へと入るのだが——この坂にやられる馬たちが殆どだ。周囲の騎手は、一完歩ごとに前後する馬の首、その動きを補助するように手を前に出して馬を追い、ステッキを入れる者たちも出始める。


 ラストスパートを掛けて、周囲に熱気が籠もり始めた。


 だがジョークンシーは、ノーステッキですっと前へ出る。流石にここでは力が違うのか、坂道を物ともせずに登り切る。対してこちらのマリモナインも、ブホ、ブホとテンポ良く呼吸が出来ており余裕があるように思えた。ハミを転がし遊んでいた為に、力を温存出来ていたことが幸いしたのか。期せずして道中の馬との呼吸——折り合いがついた。


 理由はどうあれ、スタミナ、位置取り共に問題ないとなれば、欲が出てくる。


『コルクジャッキーを先頭に全頭が坂をのぼる!』


 マリモの手綱をしごいて加速を指示した。


 マリモの反応は悪くない。こちらの指示に従い、ジョークンシーの作った道を駆け上がると、瞬く間に隣り合う馬を抜き去った。


 坂を登り切り、最後の直線。


 ここからは我慢比べ。先を行くジョークンシーを見ながら、先行集団の六頭を窺う。


 どの馬も一杯の様子で、左手前の馬は首が上がり始めていた。限界が近いと見てとれるが、騎手はおかまい無しに鞭を入れ続けていた。


 ジョークンシーは既に先頭のコルクジャッキーを射程に収めている。


 ——いまだ!


 勝負に出ようと、逆手に持っていた鞭をクルリと回してマリモの腰を一発叩いた。


 その時——首を上げて泡を吹いていた左手前の馬がぐらりと揺らぎ、あろう事か自分の進路に突っ込んできた。


「おい馬鹿——」


 それは誰の声だったか。自分の声か。後方に陣取っていた騎手の声か。


 泡を吹いていた馬、その左から抜き去ろうとしていた騎手の声かもしれない。


 しかしそんな事はもはやどうだって良い。


 目の前に寄れて割り込んできた馬の後肢に、マリモの前肢がすくわれてしまう。


 全力疾走している馬の最高時速は七〇キロにも達する。その状態からつんのめる形で前方へと放り投げられ、地面に叩きつけられた。


 芝生が舞っていた。


 空は高く澄み渡っている。


 今日は絶好の——ダービー日和だった。


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