慙愧

 盲目の男が怪物に挑む。

 この短文を読んで人々はどう思うだろう。何を想像するだろう。

 例えばその背には愛する者がいて、その人を護るため盲目ながらも死を賭して無謀な戦いを挑む死にたがりの図だろうか。

 まぁ大抵は、そんな光景を思い描くことだろう。

 盲目故に聴覚や嗅覚が発達し、常人以上の強さを発揮する者など、今や二流作家が多用する絵物語によく出てくる設定だ。実際、そんな人間がいるはずもないと誰もが知っている。

 篝の感覚も常人のそれと近く、読書は趣味としてなくてむしろ苦手なくらいだったが、同じ文章を見れば現実的に見て無謀としか思えない構図だなと初見で思うだろう。

 しかし今、実際に構図を目の前にしながら、篝は無謀などとは思えなかった。

 出会ってまだ二四時間。一日すらも付き合いのない男が怪物を相手に躍り出る様を見ても、なんら無謀だとは思えなかった。それどころか、その先の展開すらも予測できた。

 首が飛ぶ。怪物の首が軽やかかつ鮮やかに、噴き出す血飛沫を力として闇に飛ぶ。

 それが至極当然と思えるくらいに、鯉口を切った男の剣は鞘から抜かれて怪物の首に迫っていた。斬る側でも斬られる側でもないのに、怪物の首に刃が飛ぶ瞬間が遅く見える。怪物が走馬燈を見ているのだろうことすら理解できて、同情すらしてしまった。

 直後、元の感覚に戻った篝は怪物の首が刎ねられた様を見る。刀剣が描く白銀の軌道が、怪物の首を両断して漆黒に濁り切った血液を斬り払っている様を、まじまじと見つめてしまった。

 一切の抵抗もしなかったわけではない。

 重くなり過ぎた右腕では間に合わないと、怪物が左腕で頭蓋を握り潰さんとしたのは見えた

 が、それよりもずっと速く首が飛んだ。

 それだけだ。

 動かす頭を失って、頭蓋を砕かんとしていた左腕が力を急速に失って垂れ下がっていく様は、怪物の命が絶たれたことを物語っていた。

 誰が見たって無謀にしか見えない構図から、何事もなく戻って来た男は血を払って刀を収める。よくよく考えてみれば、彼には無謀にしか見えない構図もそれを無謀だと見る人々の目も、見えてなどいなかった。

 何故か、言うまでもない。

 彼が盲目だからだ。

「申し訳ない、篝殿。避難誘導は無事済んだだろうか」

「無事に済んだからいいものの、急に斬りかかられては私も困る。不測の事態だったようだが」

 怪物が鬼道に注入しようとしていた得体の知れない何かが入った注射器を、布で覆いながら取る。注射器の中、布で覆っていても隠し切れない異臭に鼻を突かれ、篝は思わず鼻を摘まんだ。

「これは、毒の類か……あまり吸い込まない方がよさそうだ」

「そうですね。医療班を呼んで回収、分析して頂きましょう。それと篝殿、少しお付き合い頂いてもよろしいだろうか」

 そういえば、怪物と対峙したときあの杖はどこにあったんだろう。などと考えながら、篝は彼の後をついて歩く。

 ただ平地を歩くときは篝とほぼ同じ速さで歩くものの、階段となるとやはり勝手が違うらしく、一段一段確認しながら昇るので途中から篝が補助した。

 そうして辿り着いた高層住宅の一室。標的の自宅だ。結婚した妻と二人の子供がいることも、調べはついている。

 事情の説明でもする気なのだろうか。と思っていると、扉に手を伸ばしかけた鬼道は一度躊躇って、ドアノブを掴む。そしてまた躊躇すると、開けるまえに断わりを入れた。

「篝殿。私は盲目です。故に、私はこの中の光景を語ることができません。ですが、それ相応の心の準備をしておいた方がいいかもしれません。ここの部屋を開けたとき、鍵を貸してくださった大家が酷く恐れて悲鳴を上げてしまったので」

 舐めないで頂きたい。私とて、それなりの戦果を潜り抜けている――などと啖呵を切らなくてよかったとさえ思った。

 鬼道がゆっくり扉を開けたとき、飛び込んできた生臭い鉄の臭いの直後、目に入った惨劇に篝は嘔吐した。

 なんて一言で片付けられない惨状だった。言葉にするのも、これから提出しなければならない報告書に記すのも躊躇わざるを得ない地獄だった。

 遅れて、大家が呼んでくれた警備隊が到着。鬼道が事の顛末を説明し、すぐさま事件現場の検証が行われた。

 その際、扉の前の吐瀉物は同僚の物なのでという説明すらされているのが聞こえたが、篝には恥じる余裕すらなかった。

 部屋のある廊下を突っ切って、曲がったすぐ側にあるソファで項垂れたまま震えていた。遅れて鬼道の手が優しく背中を撫でてくれたお陰で、徐々にだが落ち着きを取り戻していく。

「……情けないな」

「このようなことで強がる必要はありません。むしろ人として当然の反応です。私とて、鼻を突く刺激臭に耐えかねてすぐ部屋を出たほどです。無理をする方が体に悪い」

「その割には、随分と平然としているように見える」

「見えてないのでまだマシ、というだけの話です。しかしだからといって、盲目でよかったなどとは思いませんよ。人の悲劇に関与する職務上、鋭く刃を入れねばならぬ関係上、どれだけおぞましくとも、我々は目を逸らしてはならないのですから」

 彼は生まれつき目が見えない。

 だから言える軽口だとさえ思った。

 しかしそう言い切ってしまうには、嘔吐したあとの篝に対する応対はまるで、篝の心が見えているかのようだった。

 に気付くと座らせて、見えないというのに目線を合わせて、深呼吸をするよう促して、震える手をずっと握り続けて、大丈夫と何度も言い聞かせて、後ろに回ると手を握りながら背中をさすってくれて、警備隊が来るまでずっと側に居てくれた。

 篝にと言うよりは、篝の心に直接言い聞かせてくれているかのように大丈夫と言い続ける彼の言葉には、随分と助けられた。

 彼は生まれつき目が見えない。

 汚いものは見えないし、見る必要のないものを見なくて済む。

 だが彼は美しい光景に感動できず、共感することもできない。世界そのものを一度も見たことがなく、光や色という概念がわからない。人の笑顔も恋する表情も、何も知らない。

 彼に目が見えなくてよかったというのはただの暴言に過ぎず、一瞬でも口に出そうになった自身を軽蔑した。

 まだ出さないだけマシだと、思うしかなかった。

「心の鬼を以って心で斬る。これを以て慚愧と呼ぶ。しかしこれを恥とは何事か」

「突然、なんです?」

「私の信条です。慚愧という文字は、聞くところによると心の鬼を心で斬るという形で書くのだとか。私はそれを立派なことだと思っています。しかし辞書を引くと、慚愧とは恥じることを表した言葉だと。私はどうしてもそれが納得できない」

 ゆっくりと周囲に何もないことを確認しながら篝の手を取って、大丈夫だと言い聞かせるようにさする。その口角は笑みを湛えていたが、笑っているようには見えなかった。

「心の鬼を斬れること、退治できることの何が恥ずかしいというのでしょう。そもそも心の鬼を生むなというのなら、それは人には無理な話です。憤慨、嫉妬、哀願、同情、そしてそれらから生まれる信頼と殺意。人の心は様々な形で揺れ動くものなのに、鬼が生まれないはずはない。そしてそれを斬れるとは、素晴らしいことではないですか」

「素晴ら、しい?」

「違うでしょうか。私は盲目故、人の感情は声音で感じます。心が鬼に巣食われているかもわかります。鬼を斬ると、その人の心はわずかにでも救われるのです。それができる人こそ、救世主なのだと私は思っております。しかし人の心に入り込むのはとても難しい。それこそ、恥知らずと罵られることさえあります。が、それでも鬼を斬る意味はある。その人が救われるなら、私は喜んで恥を掻きましょう」

「そう。だな。確かに素晴らしい考えだと思う」

 本当に素晴らしいお考えだ。まるで聖者だ。

 目が見えないと人の心が見えてしまえるというのなら、人は目なんて持って生まれてくるべきではなかった。

 人はすぐ他人の弱いところを突こうとする。特に心の弱みはすぐに利用する。そんな人達で溢れている。

 もしも誰もが人の心を読めるようならば、人の心を利用してやろうなどとする浅ましい人を笑い飛ばしてやれるのにだと考えている自分もまた、浅ましい人間に当てはまるだろう。

 心の鬼を斬るだなんて簡単に言うけれど、それができる人はごくわずか。そんなことができる人こそ、人々は偉人として称えてきたに違いない。彼を見ているとそう、思わされる。

 実際に彼の手助けで現場を見たショックからわずかなりとも立ち直れたのだから、彼はきっと心に巣食った鬼を斬ってくれたのだろう。彼もまた、これから先偉人として世間に名を残すことになる人間かもしれない。

 壊刀団に所属さえしてなければ、という前提もあっての話だが。

「壊刀団の方、少しお話よろしいでしょうか」

「はい、話は私が。すみませんが篝殿、しばしお待ちを」

 壊刀団はあくまで幕府が秘密裡に作り上げた、現代では絵物語にしか存在しないはずの妖刀についての事件を専門に当たる組織。

 だが幕末の頃、当時新選組として活動していた隊士らの一部が今の警備隊にて唯一、壊刀団と連携の取れる部署を設けてくれた。名を、妖倒隊ようとうたいと言う。彼らから仕事の依頼を受けることも少なくない。

 彼らの話し合いに聞き耳を立てられる余裕は未だなく、篝は鬼道の言葉を反芻していた。

 人の心を斬れるのなら、恥など構わず踏み込んでいく。それが信条だと言っていた。

 信条にするにしたって、これ以上なく抽象的だ。心の鬼なんて実際にない存在を斬るために努めるなど、そのために命を賭して戦うなど、頭のネジが緩んでもいないと考えられまい。

 だが罵ることはできなかったし、そもそもそんな風には考えられなかったし、思えなかった。

 彼が決して冗談で言ったわけでなく、自分を勇気づけるために作った話でもないからだ。

 冗談ではなく、たった今即興で作った話でもなく、彼がいつからか抱き続け、目標としてきた信条であり、信念であったからだ。

 信じ、努めてきたことだからだ。彼にとっての芯だからだ。笑うことも侮辱することもできない。むしろ彼という人間を知るには、重要な話を聞いた。

「あとは警備隊のお仕事ですので、私達は退散すると致しましょう。ご気分はいかがでしょうか。階段を降りるのを手伝って頂けると、嬉しいのですが」

「……もう、大丈夫です。行きましょう。私が吐いたこと、皆には内緒にしてくださいね」

「内緒も何も、私は盲目。最初から見えていませんから」

 ゆっくりと、階段を降りて行く。そのとき彼の腕を支えて降りたのだが、彼の体が震えていたのに気付いたとき、彼も怖かったのだと気付いた。

 篝には弾けた臓物と、そこから溢れ出た血の生臭さしかわからなかった。

 が、盲目故に異臭と漂う雰囲気から状況を察するしかできず、目で見えていない現場を想像することしかできない。隣で悲鳴が上がっても、何が怖いのか理解し切れない。

 彼とて怖かったのだ。それこそ吐いてしまいそうになるほどに。

 だが隣で嗚咽を漏らし、嘔吐までしてしまった同僚を想い、ひたすら尽くしてくれた。

 わずかに上がった口角は、未だ何も変わらない。その美しくも不格好な笑みの奥に、恐怖で震える姿を隠していたのだと思うと、もう馬鹿だなんて思えなかった。

 だけどつい。なんて言うのか、器用なようで不器用な彼を思っての発言なのだが。

「馬鹿……」

「えぇ、頭は誇れるほどよくありません」

 自分には語彙がないなと、篝は自身の勉強不足を思い知らされた。

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