第18話 アパートを飛び出そう

 午前九時、インターフォンが鳴った。

 昨日よりもちゃんと化粧をしたつむぎが、玄関の外で待っていた。ビジネス寄りな服装をしてくるかと思ったけれど、丈の長いもこもこのコートにロングスカート、ふわふわのマフラーにニット帽という女子感満載の服装で現れた。


「女として振れって言ったのは玲くんだよ?」

「まぁ、そうなんだが」


 これは大丈夫だろうか。逆に期待させてしまわないだろうか。


「さぁ。アッシーやってくれるんでしょ。連れてって」


 昨日べそをかいていた人間とは思えない。一切の迷いなく、つむぎは私の腕を引っ張っていく。

 覚悟が決まったのだろう。

 その変化が微笑ましい。娘の成長を見守る親の気持ちだろうか? そんな歳ではないけれど。

 スニーカーを履いて私も103号室を後にする。

 今日も空は晴れ渡っていた。




 駅ロータリーの送迎レーンに車を停車させた。日曜日の昼間とあって、駅から流れてくる人は多い。電車に乗って帰ってきた人たちが、帰りを待つ人と会って、楽しそうな会話をする姿が妙に印象的で、私はずっとその光景に見入っていた。

 時刻は午前十時。つむぎがタカヒロくんと約束した時間である。

 私たちがここについたのは三十分も前のこと。寒いから時間まで中にいたらいいという私の忠告をやんわり断り、つむぎは車を降りバスを待つためのベンチに腰かけて待っている。彼女なりのけじめなのかもしれない。

 手を擦り、白い息を吹きかけながら待つこと三十分。イケメンで優しいタカヒロくんは、約束した十時ぴったりに姿を現した。


「頑張れよ、つむぎ」


 フロントガラスの向こうで立ち上がるつむぎを見つめ、願いを託すように言葉にした。



 ※※※



 近寄ってくる男の子の姿が視界に移り、あたしは握った手をぐっと胸に押し付けた。

 スポーツマンらしく短く借り上げた髪、筋肉質な手足。すらりと伸びた伸びた背は、もうあたしよりも高い。同学年の中でも頭一つ飛び出ている高身長は、いつの時代も変わりなく女子たちからの受けがいい。

 憧れの的。少女漫画でヒロインが好きになるタイプの、正真正銘の好青年だ。あたしが中学生だったら、きっとお近づきにもなれなかったと思う。

 あたしはベンチから立ち上がりスカートの裾を払った。息を切らした彼の顔が、間近に迫る。


「むぎちー先生。お待たせ!」


 真冬に咲く、一輪のひまわり。


「来てくれて、ありがとう」


 声が上ずってしまわないように注意しながら、ゆっくりと用意していた言葉を吐き出した。


「むぎちー先生じゃなくて、立石先生」

「あ、すみません!」


 言ってから気づく。ここは学校じゃないんだ、と。


「つっても、ここ、学校じゃないですよね?」


 案の定、タカヒロくんもあたしのミスに気付いて、困ったように笑った。

 彼は聡明で、クラスの中でもとりわけ大人びている。そういうところもまた、女子中学生たちには魅力のようだった。


「じゃあ、立石さん」

「……」


 ここで不用意に下の名前で呼ばないのが彼らしい。わきまえている、つもりなのだろう。

 自分は本能のまま好き勝手振る舞う同級生とは違う。

 一人の人間、一人の男として、対等に見てほしい、と。

 最初に告白されたときに、そこまで気付いていればよかった。けれど、私は歳甲斐もなく動揺して、その辺に転がっている言葉を彼に投げつけてしまった。

 ポケットに手を突っ込んだまま、斜に構えて彼が言う。


「用って、何ですか?」


 あたしはこの密会の趣旨を伝えてはいない。二人で会えないか。それだけを伝えた。タカヒロくんも詮索はせず、私が示した通りにここへ来てくれた。


「うん」


 今度はちゃんと伝えないと。

 ぐっと口元を引き締めて、あどけなさの残る表情をまっすぐに見つめた。


「この前のことなんだけど……」


 タカヒロくんの目が明らかに泳ぐ。

 あぁ。そっか。言った瞬間、あたしは悟った。

 彼も強がっているんだ。何を言われるのかわからない恐怖と、必死で戦っている。

 不安を隠すように、タカヒロくんはあたしが続きを口にする前にかぶせるように口を開いた。


「まー、そうですよね。僕を呼び出す理由なんて一つしかありませんしね。でもここじゃなんなんで、とりあえずどこか入りませんか?」


 早口でまくし立てる姿に、いつもの余裕はない。同級生には一度だって見せたことがない、彼の焦りだろう。


「ううん。ここでいいよ」


 あたしは静かに言う。


「長い話じゃない」

「いや、でも! 言いにくいことも、聞かれたくないこともあるし!」

「大丈夫。ほかの人のことは気にしないで」

「先……立石さんが気にしなくても、僕は――」

「教師と生徒の間に恋愛は成り立たない、なんて言って、ごめんなさい」


 タカヒロくんの言い分を半ば遮るように、あたしは頭を下げた。調子よく回っていた彼の言葉が止まる。


「……それは、どういう意味ですか?」


 ぽつりと紡ぎ出された小さな疑問。

 前言を撤回した発言に、本来なら期待を持つところだろうけれど、タカヒロくんの言葉には、微塵の期待も込められていなかった。


「今日は、君への返事を訂正しに来たんだよ」

「訂、正……?」


 吟味して、必死に理解しようとしている。いびつに歪む顔が切なくて、あたしは次に用意していた言葉を躊躇してしまった。


「先生っ!」

「――っ!」


 それでも、前に進まなければ。

 かわいい優秀な教え子のためではなく、あたしを好きになってくれた一人の男性のために。


「あたしは――」

「待って! 聞きたくないよ!」

「あたしはっ!」

「先生っ!」

「一人の女性として、タカヒロくんの気持ちにこたえることはできません。ごめんなさい」


 言い切った。今度は、頭を下げない。

 目をそらして地面を見つめてしまったら、必死に耐えているタカヒロくんに申し訳ないと思った。あたしの気持ちが頑なだと、確実に伝えなければならないから。

 タカヒロくんは一歩よろめいた。あたしが視線をそらさないのを悟ると、ぎっと奥歯をかみしめて、つま先に視線を落とす。

 肩が震えていた。

 放課後の生徒指導室で、一度目の告白を断った時でさえ、彼はこんな表情をしなかった。少しだけ眉を下げて、愛想笑いを浮かべ、こちらこそすみませんと言って去っていった彼が、今は必死に感情を殺している。

 胸が苦しくなった。


「向き合えていないのは、あたしの方だったね。辛い一週間だったでしょ。先生って言っても完璧な人間じゃないんだ」


 あたしが休んだ一週間、あたしのクラスの生徒は誰も欠席しなかったと、校長先生が教えてくれた。タカヒロくんは、あたしのいなくなってしまったクラスで、一人孤独と戦っていたんだ。あたしが気を遣うのは間違っているかもしれないけれど、でも、そんな思いをさせてしまったことには、本当に申し訳なく思っている。


「学校一のイケメンに告白されて、嬉しかったよ」

「――先、生……」


 喉の奥から絞り出すようなか弱い声。嗚咽を噛み殺し、必死に感情と戦っている姿は、一人の男性としてとても立派に見える。本当にいい子だ。そういう感情を、ぜひ大切にしていってほしい。


「ごめん、なにも、言えない……。言えそうに、ないや」

「うん。いいよ。ちょっと休んでいこう。先生が、じゃない。あたしが、人生の先輩として聞いてあげる」


 涙は決してこぼさなかったけれど、振り上げた腕で必死に目元を擦る姿に、あたしも思わず泣きそうになってしまった。

 お疲れ様。

 ようやく、ちゃんと失恋できたね。

 あたしも、ちゃんと、決着がつけられたよ。




 多少の注目は集めてしまったけれど、取り込み中の二人に声をかけようという猛者は現れず、ひと段落する頃には遠巻きに視線を送ってきていた野次馬も、どこかへ行ってしまっていた。

 二人でベンチを占領し、ロータリーに設置されたモニュメントを、見るともなしに見つめる。弛緩した沈黙を破ったのは、タカヒロくんの方だった。


「ねぇ、むぎちー先生」

「ん? なぁに?」


 タカヒロ君の声に、もう震えは混じっていなかった。


「先生、実は彼氏いるでしょ?」

「残念ながら今はフリーだよ」

「そうなんだ」


 まるで授業でわからなかったことを聞きに来るかのように、自然に聞かれる。あたしもあたしで、聞かれたことには素直に答える。告白はお断りしたけれど、学校の外なら、一人の女性として接してあげたいと思った。


「じゃあ、好きな人がいるんでしょ」

「……」


 次の質問にはすぐに答えを返さず、青空を割って飛ぶ飛行機雲をしばらくの間追いかけた。

 ほんの少しだけ躊躇した後、結局あたしはその質問にも素直に答えた。


「……うん。実はいるんだ」

「そうなんだ」


 淡白な感想が返ってくる。


「薄々いるんじゃないかって気づいてはいたんだ。女バスの吉川に聞いたら、先生日曜日絶対に部活に来ないらしいじゃん。男と会ってるってもっぱらのうわさで」


 そんな噂が立っていたのか。まぁ、思春期真っただ中の少女たちだ。そういう妄想をしない方が不健全というもの。先生としては、生徒の自主性を重んじてやる所存だ。


「ノーコメント」


 自主性は重んじるが、真実を伝えてやるとは言っていない。謎多きつむぎ先生に、思い焦がれるがいいさ。

 ノーコメントに対するレスポンスはなく、タカヒロくんはポケットに手を突っ込んで、上体をそらし空を仰ぎ見た。


「結局、僕に足りないものは何だったの?」

「それを聞くのは男として潔くないなぁ」

「そうかぁ。じゃあ、自分で探すかぁ」


 予想通りの反応に、あたしはふふふと小さく笑みをこぼした。


「そういうところだと思うよ?」

「どういうところ?」

「感情より理性を優先しちゃうところ」


 あたしだって世界中の女子の気持ちを代弁できるわけではない。恋愛経験だって多い方ではないし、何より自分の好みはひねくれていると思っている。ただ、さっきはっきりした事実が一つあった。


「あたしは、学校で見る優しくてクールなタカヒロくんにも、あたしのところに勇気を出して告白に来たタカヒロくんにも惹かれなかったけれど」


 隣でタカヒロくんがこちらを向いたのが分かった。

 あたしは気付かないふりをしてそのまま続ける。


「さっきあたしに断られて、男泣きするタカヒロくんは、ちょっとだけときめくものがあった」

「――」


 ぽしゅっと、顔を真っ赤にするタカヒロくん。

 きっと変に大人びたりしないで、好きなことを好き、嫌いなことを嫌い、楽しいことを楽しいといえる人が、魅力的な人だと思うんだ。


「少年よ、大志を抱け!」


 あたしはニッと笑って背中を叩く。

 先生ではなく一人の人生の先輩として、新しい門出を祝いたい気分だった。



 ※※※



 タカヒロくんを見送ったつむぎが、小走りでかけてくる。勢いよく扉に張り付くと、豪快に扉を開けて助手席に転がり込んできた。


「はぁあー……」

「お疲れ」


 用意していた缶コーヒーをつむぎに渡す。ホットを用意していたはずなのに、すっかり冷めきってしまっていた。


「いい顔になったな。なんの話をしていたんだ?」

「んー、内緒」


 受け取った缶コーヒーを開け、おいしそうに喉を鳴らすつむぎ。

 内緒というのがやや引っかかるが、清々しい表情に変わったつむぎを見れば、作戦は十分成功したといえるだろう。


「やー、あたしが言うのもなんだけどさ。彼、いい男になるよ。将来の超有望株!」

「そんな逸材を手放してしまって本当に良かったのかよ」

「そりゃいいに決まってるよ」


 口元から缶を離して、フロントガラスの向こうに移る電車を眺め言う。


「もし付き合っちゃったら、NNDの活動ができなくなっちゃうもん!」


 真剣な顔で宣言するつむぎがおかしくて、思わず笑みが漏れた。

 太陽は天頂を過ぎて傾き始めている。私たちに赦された貴重な休日も、もう半分になってしまっていた。


「なら仕方ないな。同盟の時間をこれ以上減らさないように、家に戻ろうか」

「ぜひとも!」


 サイドブレーキを解除してギアをドライブに入れる。ゆっくりと走り出す車に揺られるつむぎの横顔は、いつにも増して生き生きしていた。

 私はたまらずお決まりになったやり取りをしたくなった。


「で、一応聞いてやるが、今日は何するんだ?」


 つむぎの答えも、決まっている。


「もちろん、今日もなんにもしないよ!」

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