第7話:兄妹、負ける
いつまでも罪悪感を覚えているわけにもいかない。
俺は顔に塗りたくった化粧を落とすべく、手洗い場に向かった。
手洗い場といってもまあ井戸なんだが。
中世ヨーロッパ風の世界に蛇口なんてない。
スール付きのメイドになってからは自分と妹用の水を汲む時しか使わなくなった井戸の端につくと、塗りたくった白粉を落とし始めた。
「……落ちねえ!」
塗りすぎだぞ妹!
石鹸なんて上等なものは俺の立場だと使えないのもあるが(お貴族のルクスリア家でも妹や奥方の分しかない。それくらい高級品なのだ。さすが中世ヨーロッパ風)、それにしたってべたべたが落ちない。
鏡もないからどれだけ落ちたか目で確かめることもできないので、余計に難航していた。
あゝ、素晴らしきかな洗面台。
あれは画期的なものだったんだなと今はなき文明を懐かしみながら手を動かす。
「うう、水冷たい……」
井戸水なので、いつでもひんやりしている。
夏は大変ありがたいが、スイートポテトが作れる秋にはちと厳しい。冷水が氷水にレベルアップする冬に比べたら遥かにマシだが、それでも指の先が少しじんじんとした。
……ええい、もういいか!
まだべたべたしているけど、残りは無理やり布で拭ってしまおう。
水の冷たさに音を上げた俺は、手探りで手ぬぐいを探し始めた。
目は閉じたままである。水が目に入るの嫌だよね。
「んっ、んー、んー」
咳払いみたいに唸りながら、手をばたばたと動かす。
タオルかけみたいに場所がわかりきっているならすぐなのだが、適当に置いてしまったのでなかなか手が当たらない。
もうスカートで拭いたろか。
「…おっ」
業を煮やしかけたところで、やっと指先が布地に触れた。
見つけたそれを逃すまいとひっつかみ、顔の水滴をごしごしと拭った。
……ん?
手ぬぐいにしては小さくない?これ。
首を傾げながら目を開けた俺は、そのままぴしりと固まった。
「よお」
「…………」
どえらいイケメンが、目の前にはいた(二回目)。
――――いやいやいや!
アサシンなんでいるの!?
「お、おかえりになったのでは?」
濡れた布を握りしめながら、驚きと疑問を言葉にする。
なんとか女の子口調に変換できた自分を褒めたい。偉いぞ俺、さすがお兄ちゃんだ俺。兄であることは関係ないが気にするな俺。
いやほんと、なんでこんなところにいるんだよこいつ。
忙しいからお帰りになったはずだろお前!
不満を押し隠して、アサシンもといジャン=クリストフ王子を見やる。
一方、アサシン王子。
こちらは不満を隠しもせず、露骨に不機嫌オーラを出していらっしゃる。
……イケメンが凄むと迫力やばい。
気圧されそうになったところで、アサシンが口を開いた。
「一年前。俺と会ったのはお前だろう」
妹と接していた時に比べて、だいぶフランクな口調でそう言われる。
断言するような言い方に顔が引きつりそうになる。表情が変わりそうになるのを堪えながら、俺は平然を装って返事をした。
「……お初にお目にかかります」
「さっき会っただろうが」
うっ。
「……二度目にお目にかかります」
「言い直すな」
「今日ガ初対面デスシ」
「嘘をつくのが下手すぎるだろ。さっきも言い方がわざとらしかったし、目も盛大に泳いでいた」
そんな馬鹿な!
本家のアカデミー賞とは行かないまでも日本アカデミー賞の助演男優賞ばりの演技だったのに!いや今の俺だと助演女優賞?ってそんな細かいことはどうでもよくて。
俺の迫真の演技を見破るとは、こいつ……。
ただのイケメンじゃないのは知っていたけど(妹のゲーム情報だけじゃなく、下女仲間からもリサーチ済みだ)、観察眼まで一流とは。ただものではないイケメンだ。
「……」
なんだかアサシンの俺を見る目が変わった気がする。なぜだ。
いや気にするな俺、そして負けるな俺。
相手がただものではないイケメンでも、ここで俺が折れてはいけない。というか折れたら妹に後で怒られる。下手したら泣かれる。
妹の笑顔を守るため、今日がはじめましてだと押し通すしかない。
それにフレール度百%の時にスールにいじめられまくっていた記憶があるせいで、妹に怒られると心臓に悪いからな!
慈愛の心で許していたが、許したからといって傷ついていないわけではないのである。ぶっちゃけ軽いトラウマなんだよな……十代のハートには刺激が強い。
そのせいで妹の与太に付き合っているわけではないが。断じてないが。
「人違いではないでしょうか?」
嘘をつくとまたばれそうなので、今度はアサシンの勘違い説で攻めてみることにした。
偉い人の言うことに疑いをかけるとか本来なら処罰ものだろうが、二人きりならお互いしか言質のとりようがないので大胆にいく。わざわざリンゴとハンカチの恩を返しに来るくらい義理人情に厚いんだから、これくらいじゃあ怒らんだろうという打算も込みだ。
予想通り、アサシンは俺の不遜さを気にした感じはなく、俺の言い分の方に反応した。
「人違い、か」
「一年も前のことなのでしょう?」
俺だってハンカチの話が出るまで、綺麗サッパリ忘れていたからな。
あの後激動だったのが想像に難くないアサシンの記憶に、ミスがあっても自然ではない。実際ミスはなかったんだけどそういうことにする。
「確かにお前の言う通りだ」
アサシンは肯定するように口を開いた。
「あの日のできごとを忘れたことはないし、記憶の美化はないと俺自身は確信している。だが、あくまでも俺視点の話だ。忘れていることがあるかもしれないし、無意識のうちに美化や改ざんをしているかもしれない」
だろー!?
さらっと重いこと言われた気がするけど、それは精神衛生上聞かなかったことにする。その調子で自分の記憶を疑ってくれ。
「だが」
接続詞やめて。
「下手くそな嘘や厚化粧を強要してまであのお嬢様がお前を隠そうとしているのを見て、俺を助けてくれたのはお前だと確信した」
……んんん?
「えっと、それはどういうことでしょう?」
「無理にとぼける必要はない。そのために帰ったふりをしてお前が一人になるのを待ったんだからな」
何やら不穏な台詞を口にするイケメンは、イケボでかっこよく言った。
「スール・ルクスリアに言われたんだろう?お前が俺の探し人だとばれないようにしろと」
…………あー!
思わず声を上げそうになって、とっさに手のひらで口を押さえた。
そっか!俺がメイドで妹が主なんだから、俺が厚化粧なんかしていたらそりゃあ主である妹もといスールが先導したんだって思うよな!
いや別に何一つ間違ってないんだけど!
これはまずい。
何がまずいってこれ、アサシン視点だと妹が悪役になっている。
「甘やかされて育つ者が多いせいか、貴族の息女は気位が異様に高かったり虚栄心ばかりが強かったりと、性格に難がある者が多いことは正直否めない」
そうですね。
妹がインストールされる前のスールを思い出し、声に出して同意しそうになる。
「使用人達にそれとなく聞いてみた限りでは、スール・ルクスリアは身分が低い者にも別け隔てなく接する善良な人間だと感じていたんだが」
善良です。間違っていません。
少なくとも今のスールは良い子だ。なぜなら俺の妹なのだから。
そう主張したいが、アサシンのソローな顔が言葉を挟ませてくれない。おかしい、なぜシリアスな空気になっているんだ。さっきまでコメディだったじゃん。
「……ルクスリア公は案内中、やたらと息女のことばかり話していた。異性の友人が欲しいと言っていたから、よければ話し相手になってほしいと」
当主様ぁ!
なんで黙って余計なことするの!
「そういうことならと、探し人が見つからなくても少しは長居するつもりだったが……友人が欲しいというのは口実だったようだな」
当主様に対して内心憤慨する俺を後目に、はあ、とアサシンは溜息をついた。
「仮にも自分のメイドだろうに、醜く仕立て上げて……。見苦しい」
「……」
確かにアサシン視点では、自分の関心を引きたいスールが邪魔者になるフレールを姑息な手段で排除しているように見えるだろう。
だから、険があるのも仕方がない。仕方がない……んだろうけど。
「……おいこら」
俺はキレた。
アサシンの胸ぐらを掴み、勢いよく引き寄せる。
そして、そのまま額に思いきり頭突きをかましてやった。
ごちん!
痛そうな音が高らかに響く。
痛みと驚きで見開かれた目を、俺は強く睨みつけた。
「人の妹捕まえて、言うに事欠いて見苦しいだ?王子様がどれだけ偉いか知らないけど、憶測だけでこれ以上侮辱するようならそのお高い鼻が曲がることになるぞ」
「――――」
呆気にとられた目が、俺を見つめ返した。
……。
…………。
いや俺も痛えなこれ!当たり前なんだけど!
怒りで忘れていた痛みが、遅れてやってくる。じんじんと痛い。
その痛みはついでに、短気な俺の理性を復活させた。
…………あ、俺死ぬのでは?
大事な妹を侮辱されたことに対する報復なので後悔は欠片もないが、それにしたって一国の王子に頭突きからのメンチ切りはさすがに蛮勇すぎるんじゃないですかね数分前の俺。お前の蛮勇の後始末をするのは今の俺なんだぞ。
繰り返すが後悔はない。ないが、冷や汗は流れ始めた。
っていうか黙ってないでなんか言ってくれよアサシン!沈黙が怖いわ!
「……なんか喋れよ」
沈黙に耐えきれず、つい催促してしまう。
それでもしばらく黙っていたアサシンは、やがてぽつりと一言。
「……妹?」
「あっ」
しまった。つい勢いで。
「ひ、人の妹みたいな存在を捕まえて」
「いや、言い直すなよ……くくっ」
呆れたように言った後、アサシンは堪えきれないとばかりに笑い声を零した。
ひとしきり笑ってから、そっと胸ぐらを掴む手をほどかせる。完全に俺から離すタイミングを逸していたのでありがたいが、壊れ物を触るような手つきはやめてくれ。
「まったくもって、お前の言う通りだ。苛立ちに任せて愚かな言葉を吐いてしまった。お前の主人を侮辱してしまったこと、深くお詫びしたい」
そう言って、アサシンは深々と頭を下げた。
「……わ、わかればいいんだよ。わかれば。なので顔を上げてくださいお願いします」
謝れとは思ったけど、そんな腰を九十℃近く曲げられても困る。
訴えれば、またしても笑い声を零しながらアサシンは顔を上げた。
「だが、なら何を思ってスール・ルクスリアはお前にあんな真似をさせたんだ?」
……話がふりだしに戻った!
「……実は定期的に厚化粧しないと死ぬ病気を患っていて」
「この期に及んで人違いを押し通すつもりなら無駄だぞ。男みたいな口調で喋るキレやすい娘がお前以外にもいてたまるか」
「いるかもしれないじゃん!」
偏見で世界を狭めるのはよくないぞアサシン。そんな可愛らしくない女の子がいてたまるかっていうのには激しく同意するけど。
てか、しれっと人のことをキレやすいとか言ったなこいつ。
「急に怒鳴り声を上げて、人の口に食べ物を突っ込んでくる品位のない娘が他にいると?」
「あれはお前がリンゴ食べないのが悪いんだろ!」
自分の意地っ張りを棚に上げて、俺の品位がないとはどういう了見だ。
もう一度頭突きをお見舞いしてやろうかと思っていると、アサシンがまた笑った。
「おかしいな。俺はルクスリア公にさえ、恩人がリンゴを食べさせてくれたとは一言も言っていないんだが?」
「…………」
あーっ!!
失言をした口を押さえるが、完全に手遅れである。
こ、こいつ、誘導尋問とは卑怯な……!
「さすがにこんなのには引っかからないだろうと思ったんだが……チョロくないか?」
「はっ倒すぞ」
「すっかり化けの皮が剥がれてるなお前」
「はっ倒しますわよ」
「だから言い直すなって」
面白いやつだな、と。
呆れと笑いを混ぜたような顔でそう言われた。
もしやこのイケメン、性格が悪いのでは?
そんなことを思いながら、悔しいので意趣返しを試みる。
「お……私が名乗るのが嫌で、お嬢様にお願いしたんです。人として当然のことをしたまでのこと。そんなことを大げさに感謝され、王族と繋がりができたと当主様を舞い上がらせてしまうのは忍びなかったので」
どうだ!
わざわざお礼に来られても迷惑ですと暗にアピールしつつ、メイドの無理難題を聞く寛大なお嬢様として妹の顔を立てる。あれ、これ完璧では?
渾身の意趣返しに自画自賛もはかどる。
いやでも、これ大正論だろう。感謝の言葉を伝えに来たのに当の本人がどう思うか考えていなかったのかって、我ながら言葉のナイフの切れ味が抜群だ。
お前の感謝は!ひとりよがり!
……俺がアサシンの立場なら、こんな言葉で刺されたくないな。
「剥がれた化けの皮を被り直す必要はあるのか?」
「せっかく被り直したものを剥ごうとするのやめてくんない?」
コントみたいなやりとりをした後、アサシンは一際真面目な顔になった。
「なるほど。俺の来訪がお前にとって喜ばしくないものだったのはわかった」
想像ほど俺の言葉が堪えた様子はないが、正しく意図は汲み取ってもらえたらしい。
内心ガッツポーズをしていると、だが、と不穏な接続詞がアサシンの口から出た。
「それは、俺がお前に直接礼を言いたいことの妨げになるのか?」
…………ホワイ?
「一年。義母をこの手で放逐し、父や義弟とともに内政を整えて俺の立ち位置が盤石になり、自分で礼を言いにいけるようになるまでに一年かかった」
俺様発言にぽかんとする俺を後目に、アサシンは熱を入れて話し始める。
「一年だぞ?事情を話せば使者が送られてそこで終わるのがわかっていたし、かといって話さずに城を出ようとすれば捕まるしで無駄にフラストレーションがたまっていた。その一年間を思えば、今さら本人に嫌がられるくらいで引きはしない!」
「そこ一番無視しちゃいけないところじゃ!?」
「まあ、お前が一国の姫だったらさすがに引くがな。外交問題にもなる。だが、的外れな使用人の謙遜を鵜呑みにするほど俺も馬鹿じゃない。スール・ルクスリアにもこの件に関しては後で忠言しないといけないな」
「的外れって……」
「王族との繋がりを独断で蹴るなど、露見すれば娘であろうと勘当されかねないぞ?」
そんなこと常識だろうという顔で言われ、しばらく理解できなかった。
数分経って、俺と妹は根本的なミスをしていたことに気づいた。
俺達が今いるのは貴族コミュニティーなのだから、そこから逸脱するような行動をとれば変に思われる。ばれないようにという試みはかえってアサシンの注意を引いただけで、要するに全部裏目に出ていたのだ。
骨折り損のくたびれ儲け。
脳裏にそのことわざがよぎった瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。
「事の重大さがようやくわかったようだな」
そんな俺の頭上に、呆れた声が降ってくる。
いやまあ、間違っちゃいないんだけど。俺とお前の認識は違うっていうか。
「心配せずとも、ルクスリア公に言いはしない」
「アリガトウゴザイマス……」
片言でお礼を言いながら、ふと握りしめたままだった布を見る。
ルクスリア家の紋章が刺繍されたハンカチだ。多分俺が一年前に渡したやつだろう。……これを素直に受け取っていれば、余計な苦労しなくてもすんだんだろうなあ。
後の祭りであるが。
このことを妹に報告する憂鬱も考えると、余計に頭が沈んだ。
「……本当に面白い女だな、お前は」
頭の上に、再びアサシンの声が降ってくる。
今度は呆れた声ではなく、こう、あれだ。
新しいおもちゃをもらってはしゃいでいる子供みたいな……ん?なんか既視感あるな?
嫌な予感がして、バッと勢いよく顔を上げる。
大変楽しそうな顔をしていらっしゃるイケメンと、目が合った。
「正直なところ、ハンカチを返してあの時言いつけを破ってしまった弁明をしたら、それで済ますつもりだった。話したいことは多いが、お互いの立場を考えるとな」
なぜそれを過去形で言うんですかアサシンさん。
「だが、気が変わった。お前、面白すぎだ。俺に頭突きする気概も気に入った」
「と、言いますと……」
嫌な予感が右肩上がりするのを感じながら、恐る恐る問いかける。
アサシン――ジャン=クリストフ・スペルビアは、満面の笑みで返事をした。
「また会いに来るぞ、フレール」
男の俺すら見惚れてしまいそうな笑顔を見て、俺は既視感の正体に気づく。
面白い女だなお前という言葉。妹の部屋にある少女漫画で、貴方のことが好きになりましたの同義語で使われていたやつだこれ。
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