第32話 Good luck,boy.

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 何もない、僕たち以外は何も存在しない、真っ白で殺風景な空間だった。ここが天国なのか、地獄なのか、それとも文字通りの無なのか。

「私は一応この地球の管理を受け持ってる神なんだけれど、神様って言っても暇なもんでねえ。農作物の種を撒く人間のような役割でしかないんだ。ただ、君たちが生育しやすいような環境づくりは何一つ行わない。君たちがどういう方向に育っていこうと知らない。結果として君たちが滅ぶことになろうとも、世界が滅ぶことになろうとも、私は知らんぷりで次の種を撒く。何でも出来るけど何にもしない。その結果、綿雪ちゃんが消えた後の記憶補充とかをサボっちゃって、心の喪失感とやらを誰よりも感じていた君がここに来ちゃったわけなんだが」

 そう語る目の前の少女は浮いている。身長は僕より三頭身ほど低い。とても幼く、黒い長髪に白いワンピース。ただ一つ似つかわしくないのは、目つきが全てを見透かしているかのように皮肉げだということだ。

「というわけで初めまして。神の世界へようこそ、日浅朝日くん。よく来たね」

 よく来たっていうか私が呼んだんだけどね、と彼女は自分の台詞に自分でツッコミを入れた。

「僕軽トラに撥ねられたはずなんですけど……死んではいないんですか?」

「ああ、死んじゃいない。〔死の危機に魂を晒せ〕とあの本に書いてたろう? 人の魂を生かしてこっちに持ってくるには、死の瞬間とかの精神ショックがないと難しいんだ。体の方はグチャグチャにならないよう私が守っておいたから大丈夫」

「ってことは、儀式は一応うまくいったんですね」

「お疲れ様。シチューも超美味かったしね。もう合格も合格、大合格。でも綿雪ちゃんの方が美味しかったって言っちゃうと、少し無粋なのかな」

「綿雪さんも……ここに来たんですか?」

「ああ。二回ね」

 神様を名乗る少女は、ふわふわと中を舞いながら僕の質問に答えた。

「記憶は一旦返してある。夏休み以前の綿雪ちゃんとの記憶も、今なら思い出せるはずだ」

 僕を指差す神様に言われるがままに、僕は何も覚えていなかったはずの今年の夏休みに思いを馳せる。すると、ぽっかりと空いてしまった心にあったものが、鮮明に脳裏に浮かんだ。

 蛍池の水中で繋いだ細くしなやかな手も。

 シチューを作っているとき、僕を慰めてくれていた綿雪さんの涙も。

 咄嗟に彼女が僕の手を掴んでいた時の、助けを求めるような目も。

 押し倒してしまった華奢な体も。

 屋上で告げられた「ばいばい」も。

 全部――今は僕の記憶として思い出せる。

「――はい、全部、はっきりと」

「ばっちりだね」 

 何もない空間にまるでソファに座るように、何かに背中を任せた神さまが、手を揉むようにすり合わせた。

「さてと、そろそろ本題に入りたい。心の準備は良いかな? とは言っても、少なからず色々ショックを受けるとは思うけど」

 心の準備。そう言われると栓をしていた緊張の蓋が開いてしまったように、嫌な不安がどっと僕の中に溢れてくる。僕は右の掌で口を拭うようにした後、一つ息を吐いた。

「……はい」

「では、日浅朝日くん、君の願いを聞こう」

 高い声音が、ずしりと僕にのしかかるのを感じた。

 臆してはいけない。僕は、この瞬間のために儀式をしてきたのだから。

「……綿雪さんを、生き返らせてください」

「まあ、そう言うんだろうとは思ってたけどね」

 微笑んだ神さまは、かざした右の掌から光の玉を出した。次の瞬間には光が弾けて、現れたのは水色の布カバーが付けられたノートだった。

「それって……」

「見ての通り、君と綿雪ちゃんが交換日記として使っていたものだ。そして、君と綿雪ちゃんが繋がっていたという、たった一つの証明でもある」

 綿雪さんは死んだというよりは、存在すらしていなかったかのようになってしまっていた。

 その綿雪さんと、僕を、この日記帳が結び付けてくれた。

「綿雪ちゃんの契約に関すること、そして彼女が契約の末に至った結末は、儀式に携わっていた君ならある程度知っているはずだ」

「綿雪さんの……存在が消えること、ですか」

「その通り。彼女はその魂をもってして世界を救った。……だが、さっきも言ったように君が知っているのは綿雪ちゃんの契約の一部、だけだ」

 一部、という言葉をやけに強調する神様。首を傾げながら僕はノートを受け取る。

「すいません、言ってる意味が分かりません」

「疑問を持った事はなかったのかい? ずーっと昔、ノストラダムスが予言を現実化した世界の崩壊が、何故今頃になって起きようとしているのか。そんな昔のじいさんの尻拭いを、何故彼女が命を賭してまでしようとしたのか。そもそも儀式の存在をどんな風にして信じるに至ったのか。彼女は何故喋れないのか」

 神様の口調は更に強くなっていく。

「綿雪ちゃんの個人的なこともあるし、私の口から全てを語ることは出来ない。ただ、契約を行う前に一つだけ、君に知っておいて欲しい事がある」

「……何ですか?」

 弾みで出たその言葉とは裏腹に、続きを聞くことが着実に嫌になっている僕がいた。

 握り締めた両手の手汗がひどい。

 僕の心情なんて知るはずもなく、神様は告げる。

「世界を滅ぼそうとしたのは、ノストラダムスではなく綿雪ちゃんだ」

 ノストラダムスが世界を滅ぼすだなんて全部嘘だった。

 僕が綿雪さんの事を何も知らなかったのだと痛感するには、その台詞だけで十分だった。

 分かろうとしていたつもりだった。歩み寄ろうとしていた気でいた。

 でも、もしも彼女が僕に理解されることを望んでいなかったのだとしたら、僕はどうするべきだったのだろうか。


「なんで――綿雪さんが世界を滅ぼすんですか」

「そりゃ世界が嫌いだったからじゃない?」

「なんで世界を滅ぼせるんですか」

「儀式で私と契約すればすぐさ。まあ実際には実行まで半年の猶予があったけどね」

「なんで……」

「頭回らないだろ。コーヒーでも飲む?」

 首を横に振って、神様の提案を拒む。ひょうきんな神様とは対照的に、受け取った事実の大きさに耐えられない僕。動き回ってもないのに息が切れ切れになる。

 君は世界の全てが嫌いだからって、世界を滅ぼそうとしたのか?

 その問いに答えるべき少女は、ここにはいない。

「要は私が君に伝えておきたいのは、綿雪ちゃんがあの世界に戻ったところで生きることを望んでいるとは限らないってことだ。彼女にとってはこの世もあの世も地獄かもしれないってことだ。僕が綿雪ちゃんに言葉を一旦返したあの屋上で……君は強い拒絶を彼女から受けているはずだ。それでも――君は綿雪ちゃんに生きてもらうことを望むのかい?」

「……それは」

 僕が綿雪さんを助けることは、彼女を地獄で生かすことに他ならない。そう言われているようなものだった。

「綿雪ちゃんの古い本、あれはほんの気まぐれで私が作ってあげたものさ。現にあの五十の儀式は全て、小学校の頃に綿雪ちゃん自身が考え出したものだ。それに私が効力を持たせた」

 正広が「小学生が遊びで作ったみたいな儀式だ」と言っていたのを思いだす。

「ま、後は好きなだけ悩んでみてくれ」とだけ言って、神様はいつの間にか右手で握っていたコーヒーカップの中身を口元に傾ける。

 僕は俯いたまま立ち尽くしていて、顔を上げることが出来なくなっていた。

 僕の心の穴を埋めたい。そう思って色んな人の力を借りてここまで来た。でも、生きることが綿雪さんの望まないことなのだとすれば、綿雪さんを生き返らせようとする事は僕が彼女の意思を邪魔する事になる。彼女は生きたくないのだろうか。なら、僕がすべき事なんて何も無いんじゃないか。彼女の事を忘れて、残りの人生を生きていけば良いんじゃないか。

 垂れ下げたままの両手が震えるのを感じた。歯を痛いほど噛み締めた。瞼を強く閉じた。

 これが、彼女の望んだ結末なのか?

「……ちなみに私の話はまだ終わってないんだけど」

 神様がぽつりと呟くので、僕は右手の甲で涙を拭って顔を上げた。

「綿雪ちゃんは確かに世界を一度滅ぼそうと、私と契約まで交わした。しかしその一方で、その後半年の間に必死で儀式をまたこなして、契約を上書きした。自分で滅ぼそうとした世界をわざわざ自分で取り戻そうとした。その意味はなんだと思う?」

「分かりませんよ、そんなの」

「君を助けるためさ。……多分だけどね」

「……え?」

 僕が声をあげると、神様は可笑しそうに笑う。

「君は告白もしてもらったはずだから、彼女が君の事を好きだったのは知っているはずだ。……私には人間の感情が何一つ分からないけれど、君が好きだったから、あれほど憎んだ世界に対して何か思うところがあったんじゃないかな。――というのが私の意見だ」

 すいと差し込まれた神様の言葉を、僕は必死に噛み砕いて飲み込む。

「整理はつきそうかい?」

「……僕は」

 どうして、君を助けてあげられなかったんだと思った。

 あの日の夕暮れ、僕に馬乗りになった時。

 シチューを煮込んで、僕の話を聞いてくれていた時。

 夏休み、職員室に行こうとする僕の手を掴んだ時。

 押し倒してしまって、恐怖に震える目で僕を見ていた時。

 僕に「ばいばい」と言って、屋上から消えた時。

 君は――泣いていたというのに。

「じゃあ最初の質問に戻ろう。日浅朝日くん、君の願いは何だい?」

 もう一度だけ、チャンスが欲しい。君に、笑ってもらうチャンスが。

「――綿雪さんを生き返らせてください」

「決まりだね」

 神様はひょいと立ち上がり、僕の方に歩み寄って右手を突き出した。すると、神様の掌から赤くて丸い謎のもよもよした光が現れた。

「じゃあ、私の出したこの赤い光にどっちでもいいから手をかざしてくれ。君との契約を行う上での対価――君の一番大切なものが何なのかを見せてもらう」

「……分かりました」

 僕は言われるがままに、右手を赤い光の上にかざす。……すると、赤い光が青色に変わって、神様の右掌へとまた戻っていった。

「……へえ。そうなんだ。それで対価が徐々に失われる事は無かったんだね。そりゃありもしないものは奪えないか」

 意味深な笑いを浮かべる神様は、疑問ありげに見えたのだろう僕に向かって言った。

「本来儀式を進めるにつれて契約者の大切なものは徐々に失われていく。……君は綿雪ちゃんが徐々にその存在を失っていってたのを覚えてるかい? 誰かに忘れられたりだとか」

 僕が綿雪さんとの記憶を完全な消失の前から失いつつあったのは、どうやらそれが原因だったらしい。僕は頷く。

「でも、君がここに来るための儀式では徐々に失っている物が何も無かったんだ。どうも不思議だなあと思ってたんだけど……やっと合点がいったよ」

 神様は僕に告げる。

「契約が済めば対価として君の大切なもの――綿雪華に関する君の記憶を奪わせてもらう」

「そう、ですか……」

 僕と綿雪さんを結びつけるものが、全て失われてしまう。

 全ての記憶が失われれば、元の世界に戻った後も彼女と関わる事はないかもしれない。

「――構いません」

「随分と早い返答だね。本当に良いの?」

 辛くないわけがない。でも、僕の揺らぐ時間はもう終わった。

 僕の表情を見て納得したのか、神様はにこりと僕に笑いかけた。

「よろしい。では契約成――」

「待ってくださいその代わりに! ……一つだけお願いがあるんですけど、いいですか?」

「突然大声出さないの、神様怒るよ? ……お願いは内容によるかな」

「えっと……」

 考えていることを僕は神様に伝えた。ある未来に関してのことだ。

「……まあいいよ。特別サービスしちゃおう」

「ありがとうございます……何か軽くないですか?」

「私は気まぐれだって言ったろ? たまたまだよ。たーまーたーま」

 忘れてなきゃいいけどねえ。なんて言いながら、神様はわざとらしく手をひらひらとさせる。

「とにもかくにも、これで契約成立だ。言い残した事、訊き残した事はないかい? 無いなら綿雪ちゃんを呼んで僕はオサラバするけど」

 この人が地球の神様でなければ、きっと、僕は綿雪さんを助ける事ができなかっただろう。そう思って僕は、「色々と、ありがとうございました」と、深くお辞儀をした。

「……私は一応神様だから、ある程度の神様らしい事はできる。でも綿雪ちゃんを幸せにするとしたら、それは人の心を理解しない私にはできない。だから君が――記憶でなく心で彼女の事を大切に思っていた君が、彼女を幸せにしてやってくれ」

 何もしない種まきではあっても、やっぱり伸び伸びと幸せに生きては欲しいもんなんだよ。

 神様は気づけば目の前から消えていて、残響のようにその台詞が残されていた。

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