第25話 腹の底

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 その二日後、僕は何事もなかったように学校にいた。二日前の苦しさなんてもう頭の片隅にも残っていなかった。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とやらだ。

 今日家に帰ってこなす分の教科書や参考書だけを鞄に放り込み、残りは全部机の中にしまっておく。準備が終わった僕は席を立って、右肩に鞄を担いだ。

 だけれど、その歩みは二歩で止まった。目の前に大きな壁のような体があったからだ。

「……よっす」

 十分な声量が出せてなくて、態度に反して小さな挨拶が僕の口からころりと零れた。

「久々に、一緒に帰ろうぜ」と、図体の割に僕と似たような自信なさげな声。

 戸惑いを抱えているのは正広も同じらしかった。


 十月下旬で少し冷え込んでいるとはいえ、昼下がりの公園は日差しのおかげで割と暖かかった。以前見た子供達が、以前と同じように砂場の穴掘りに精を出していた。

 どうして僕はこのトラウマスポットに毎度毎度足を運んでしまうのだろうか。この公園で起きた出来事が原因で泣かせたり泣いたりしているというのに。

「もう何日ぐらい会ってなかったかなあ」

 正広の口調はどこか余所余所しい。僕達はベンチに二人で座った。僕が左で、正広が右。

「さあ……多分三ヶ月くらい、じゃね? 七月末にお前と喧嘩気味に喋って、それ以来だろ」

 八月に一度見かけたことは、もちろん言わない。

 僕の口調も自分で分かるくらいにぎこちなかった。駄目だ、今僕はあんまり喋ったり出来そうにない。そう思ったので、とっさに正広のことに話題を移そうとした。

「春葉とは仲良くやれてる?」

「ん、んー……」

「え、嘘だろ」

 びっくりして僕は正広の方を見る。

「仲良くない……訳じゃねーと思う。でも、今の関係がカップルっぽいかって言われると、多分そうじゃない」

「……なんで」

 お前らキスまでしてたじゃん、と洩らしそうになった自分に気付いて心の中で大慌てになる。

「なんつったらいいのかな……春葉がこう、心ここにあらず、って感じでさ。うん」

 正広は右頬を左手の人差し指で掻きながら、焦点の定まっていないような表情で公園の風景を眺めている。

「付き合って三ヶ月くらい経つけど、春葉は多分俺のこと好きになれないんじゃねーかなって、最近思い出したんだ」

「すごいネガティブだな……大丈夫か正広」

「……俺はさ、春葉が多分、朝日の事好きなんじゃねーかなって思うんだよ」

 話題に意表を突かれて心臓が少し跳ねた気がした。ただ、こんな言葉が正広から出てくるという事は、正広が今の状態に相当に参っている証拠でもあった。

「なんでまた? 正広が春葉と付き合ってるんじゃないか。少なくとも僕より脈あるだろ」

「どうだろうなあ……あんまり人の心とか読むの得意じゃねーんだけどさ、なんかこう、春葉は朝日と笑ってたときの方が明るく笑ってた気がすんだよ」

「マジでネガティブだな。大丈夫か、らしくないぞ」

「わかんね」

 僕が視線を泳がせてる間に、正広が次の台詞を投げてくる。

「実はさ、こないだ、春葉とキスしたんだ」

「……ああ」

 知ってる。

 急に自分の心の中を見透かされたみたいな気になって、冷や汗が止まらなくなる。

「――ちょっと、強引過ぎた、みたいでさ。春葉がちょっと、俺から距離置こうとしてる感じあるんだ」

 思わなかった形で蓋が開いた。それを目の前にして僕はもっと頭の中が絡まる。

 ただ、言わなきゃと思った。

「僕、見たぞ」

「何を?」

「正広と春葉がキスしてるとこ。八月三日の、夕方六時くらいにこの公園にいただろ」

「……うわあ」

 正広が頭を抱えるのを横目で見た。僕も頭を抱えたくなったけれど、衝動を必死に抑えて、自分なりの真顔で公園に視線を戻す。

 ここまでお互いに明かしてしまえば、もう引き下がれない。

 正広の抱える不安と、僕の抱える劣等に、向き合わなきゃいけない。

「でもさ、春葉は正広の告白受けてくれたんだろ?」

「キープみたいな感じかもしれねーじゃん」

 春葉がそんな感じの女子だとは考えたくない。けど有り得るのかなあ……。そう思うと途端に嫌な気分になった。

「でも、キスはしてくれたんだろ?」

「その後が本当に気まずくて仕方なかったけどな。つーか見てたんじゃねえの?」

「僕見つけた直後に逃げ帰ったよ。あ、これ見たら駄目なヤツだ、って思ってさ」

「お、おおう、そうか……」

「丁度、キスしたタイミングだけ見た」

「そんなことあんのかよ? すっげー低い確率だぞそれ」

 一周回って面白くなってきたのか、正広がヘラヘラと笑い出す。それに僕もつられて笑う。

「でも間違い無いだろ。場所日時シチュエーション全部言えるんだぞ僕」

「やめてくれ、全身が痒くなってくる」

 正広がいひひ、なんて似合わない声で笑い出したのを皮切りに、僕達は大声で笑い合った。腹がよじ切れそうでしばらく言葉を吐き出せなかった。まだこんなに笑えるんだな、と心の片隅で思った。息が出来なくて苦しくなってきたのと、子供達が興味津々でこっちを見つめていることに気付いて、僕はようやく少し冷静になった。

 後は、僕が無責任に突き飛ばしてしまった正広の背中を、もう一度しっかり押そう。

「大丈夫だよ。まだ付き合ってくれてるなら、春葉はちゃんと正広の事を見てくれる。それでも合わないならそれはもう割り切るしかないけどな」

「……だなあ。朝日の言ってることが正論だ」

 うっし、と呟いた正広の表情は、何か期待を抱いているようにも見えた。

「朝日、俺、悩むわ。春葉がどうすれば喜ぶか考えて、俺が俺なりに出来る精一杯のやり方で、春葉に好きになってもらえるよう頑張る」

「いい表情だな」

「朝日もな」

 正広は快活な笑みをこっちに向ける。

「やっぱり、朝日は笑ってる方がいいぜ。仏頂面なんかより、ずっといい」

「なんだよそれ?」

 曖昧な正広の言葉に、僕は首を傾げる。

「俺達が喧嘩したあの日から何回かさ、朝日と一緒に帰ろうと思ってたんだよ。教室の前まで来て。でもそしたら朝日めちゃくちゃ険しい表情してて、さすがに俺も話しかけられなくてさ」

「……それは」

 あまり突かれて嬉しくない所を突かれてしまった。

 でも正広は。

「ごめんな。もっと早く、朝日のとこに謝りに来れたら良かったんだけど」

 なんてしょげ気味の顔で地面を見つめて言うもんだから。

 違うよ、正広が悪いんじゃない。拗ねた僕が悪いんじゃないか。

 僕の抱えていた嫉妬やら劣等やらが一気に膨らんで、僕の心を締め付けている。

「――正広」

「ん?」

「僕を殴ってくれ」

「意味分かんねえからヤダ」

 即答だった。

「……頼むよ。僕はお前に謝らなきゃいけない」

「ヤダよ。謝らなきゃいけねーってんなら、殴れとかなんとか拗ねてないで俺に全部言え。それ全部受け止めた上で、全部許してやる」

「事前に許すって言っちゃうのかよ」

「だって俺、朝日と仲直りするために今日お前に会いに来たんだぞ? 許さなきゃギクシャクしたまんまじゃん」

「ええ……」

「さあ来い。なんだって許してやるぜ」

「その意気込みの良さは何なんだよ……」

 さっきのしょげ気味の顔はどこにいったのやら。

 なんだか釈然としない状況になってしまったが、それでも僕は僕の抱えた嫌な感情を正広に話さなきゃ前には進めない。だから僕は、僕自身の悪いところを正広に押し付けてしまっていたこととか、正広に嫉妬してたこととか、正広を避けてたこととか、全部を話した。

 すると「……なんだよ、余裕で許せるわそんなもん」と、適当にあしらわれてしまった。

「予想してた反応と違いすぎてどうすればいいか分からないんだけど僕」

 そんな風に戸惑う僕を、正広は気にも留めない。

「朝日はさ、いっつも考え込みすぎるんだ。自分の抱える感情とか、相手のこととか。でもお前は優しい。だから俺が許す。――全部一人で抱えなくて、大丈夫だ」

 あんまり馬鹿正直になんでもかんでも言われるとこっちが困るわ。と正広は付け足した後、いつの間にやら鞄から取り出していた水筒の中身を一気に飲み干した。

 決して褒められるようなことではないのに、許してくれた。

「お前はむしろ俺の背中を押してくれたんじゃねーか。むしろ、俺が色々感謝しなきゃいけないんだよ、朝日に」

 正広は僕の嫌な部分を、全部拾い上げて笑ってくれるもんだから。

「――サンキュ、正広」

 僕は笑うことが出来たんだ。


 仲直りが一通り済んだ後、雑談はまだまだ続く。

「ところで朝日最近何してんの? なんか今まで見たこと無いくらいに滅茶苦茶勉強してるっつー話聞いたんだけど」

「まあもう公立の入試まで半年無いしなあ……ってか誰情報だよそれ」

「朝日の母ちゃんと俺の母ちゃんがスーパーではち合わせたらしくてさ。お前も勉強しろよって怒られちまった」と言う正広が、絵に描いたような渋い顔をする。

「恐ろしいな母親ネットワーク……正広は勉強してないのか?」

「俺は働きたいって散々言ったんだけど……母ちゃんは高校行きながらバイトしてくれりゃそれでいい、って言って聞かないんだよ。だからまあ、そろそろ真面目に勉強し始めるとは思う」

「ふうん……大変そうだな」

「下にまだ三人いるからな。長男坊の俺で家の金使い果たしてたらヤバイだろ」

「そりゃなあ」

 なんて具合に、会話は途切れ途切れで続いた。沈黙の間は、公園の少年達の無邪気な笑い声が公園にこだまする。僕はそれをぼんやりと聞いていた。

 するとそれは、突然会話の中心にやってきた。

「そう言えば朝日、ウチの学校から行方不明者が出たっつー噂、聞いたことあるか? あのー、女子の……」

「――綿雪さん?」

「そう、綿雪だ! 確か朝日のクラスだったろ?」

 急に現実に引き戻されたような感覚だった。

 でも、正広が都市伝説のように話すそれは、まぎれもなく今僕が向き合ってる現実だ。

 それでさ……と噂話の続きを話そうとする正広の声を、僕の声が遮る。

「――丁度、始業式の日から、あの子、いないんだ」

「……どうした、朝日?」

 下を向く僕の顔を覗き込むように、正広が僕の表情を伺っている。

 話してみるべきなんだろうか。――いや、迷うなら話そう。そう決心した瞬間、心臓がぶわりと毛羽立ったような気がした。信じてもらえるのだろうか。信じてもらえなかったらどうしようか。渦巻く不安が膨らみきる前に、僕は口を開いた。

「正広、僕、今から無茶苦茶なこと話すんだけど……とりあえず聞いてもらっていいか?」

「どうしたんだよ改まって」

 僕の言葉が、少し喉につっかえだしたのを感じた。口が渇くから、ベンチに置いていたペットボトルのお茶をいくらか口に含んでから飲み込んだ。

「綿雪さんは死んだ――かもしれないんだ」

「ん、そりゃもう二ヶ月近くどこにいるのか分かんねーのは確かだけど、幾らなんでもまだ予想が早すぎじゃねえの?」

「で、頑張れば綿雪さんは生き返るかもしれない」

「……ちょっと待てお前今生き返るっつったか?」

「綿雪さんは、八月の終わりに消えて、僕たちは綿雪さんと関わった記憶を全部失ってるんだ」

「朝日、お前どうしたんだよなんか変――」

「証拠があるんだ」

 何かに焦ってるのが自分でも分かる。

「ウチに来てくれないか」

 言葉を次いだ僕の呼吸は乱れきっていて、正広はそんな僕を見つめた後、頷いてくれた。


 この日記を正広に見せることに、抵抗が無かったわけじゃない。だけれど、とにかく綿雪さんが存在していたことを知ってもらいたかった。

 一人で儀式をひたすらに進めていると、本当に自分がおかしくなったんじゃないかと思う事があった。日記や、ロウバイや、皆の反応を見ると、僕は綿雪さんがさも本当に存在していたかのように思いこんでいるだけなのではないか、と。

 でも、信じるフリを止めてしまえば、この胸の空洞のようなものが嘘っぱちになってしまいそうだった。それが僕はたまらなく恐ろしかった。

「……これ、俺なんかが読んでよかったのか」

 皆の記憶の話や叶絵さんの話は、既に終えてある。読み終わった水色のノートを僕の学習机に静かに置いた正広は、重い声でそう言った。

「綿雪さんのこととか考えたらあんまり見せるべきじゃなかったと思う。ただ、それだけが綿雪さんと僕の関わりがあったことの、唯一の証拠なんだ」

 僕が自分のベッドに腰を落とすと、年の割に体重の無い体がびよんと跳ねた。

「――じゃあ、綿雪は本当に消えちまったんだとして、朝日はどうやってその死んじまった綿雪を生き返らせるんだ?」

「日記にも書いてあった、同じ儀式を繰り返すんだよ。それで、契約の上書きができるらしい」

「……この上なく胡散臭い話だな」

「だろうな」

 眉間を右手で押さえる正広の面持ちは神妙だった。しばらく唸って、正広は僕に告げた。

「悪い。多分俺はこの話信じられねえ」

 順当な答えだ。綿雪さんが消えた、儀式が必要だ、なんてそんな事を急に言っても信じてもらえるわけが無い。

「仕方ないよ。色々話が突飛すぎるもんな」

「でも、儀式っつーのは手伝わせろ」

「は?」

 脈絡が意味不明すぎて、目を見開いて聞き返した。

「お前、しんどいんだろ? 二日前も倒れてたらしいし」

「……まあ、うん」

「さっきも言っただろ。全部、一人で抱えるから悪いんだよ。二人でやれば倍のスピードで色々進められるだろ」

「いや、だって正広僕の話信じられないって……」

「信じるかどうかと、友達助けるかどうかは別だろ。お前がそれを全力でこなさなきゃって感じてるんなら、そんで俺でもそれが手伝えるっつーんなら、俺は手伝うよ」

 正広は白い歯を見せる。その笑顔はいつもの馬鹿な正広だった。

「……正広ってすごいよ。将来、絶対大物になる」

「褒めたって何も出ねえぞ」

「本心だよ。――今日は一旦解散しよう。また今度、やることは伝えるよ」

 僕はベッドから腰を上げた僕は、正広より先に部屋の出口へ向かった。泣きそうな顔を見られたくなかった。

 玄関まで見送った時、去り際に僕は正広に伝えた。

「ありがとう。本当に」

 月並みにそんな言葉しか言えなかった。すると正広はこちらも見ないで適当にひらひらと手を振って、何も答えなかった。

 無言で閉じられたドアを、僕はしばらくぼんやりと眺めていた。

 本当に、いい友達を持ったと思う。こんな僕を、僕の妄想かもしれない現状を、正広は受け入れて認めてくれた。

 ――だけど。

「ゴメン、正広」

 既に去ってしまったアイツに、僕の懺悔は聞こえなかった。

 もう、友達ではいられないかもしれないな。


      *


 母さん、父さんへ

 こんな形で伝えることになって本当にすみません。面と向かって話そうとすればきっと止められてしまうと思ったので、無断で家を出ることにしました。一ヶ月ぐらいで戻ります。

 受験勉強をしている中で、どうしてもやりたいことができたのですが、それをやりきるためにはどうしても時間が必要です。今の力を持たない僕がこのワガママを通すためには、こうするしかありませんでした。

 戻れば、必ずまた勉強します。公立の高校にもちゃんと通ってみせます。

 だから、この一ヶ月だけは本当にごめんなさい。行ってきます。

 朝日


      *


 正広へ

 僕のことですごく心配と迷惑掛けてるな、ごめん。色々と僕の事を聞いて、分かろうとしてくれたこと、凄く嬉しかったよ。でも、ちょっと旅に出てくる。一ヵ月くらいで戻る。

 もしこんなことをしてもまだ友達で居てくれるなら、また一緒に勉強でもしようぜ。

 朝日

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