第44話 大橋の虹(後)

 メグは、大食いの割には痩せている。身長百五十一センチで、いわゆるモデル体重である。最初から最後まで弱音を吐きつつ、このブルベを完走できたのは、体重が軽い分、消費エネルギーが少なくて済み、レースのように瞬発的なパワーも必要なかったという要素が大きい。

「分かってるよ、シホさん、ミドリちゃん。二人の願い、わたしがちゃんと抱えていくから、心配しないで」

 メグの申し出が冗談でもなく、シホとミドリをバカにしているのでもないことは、その表情から明らかだった。ミドリがハンドルバーから、シルバーとブラックのバーエンドを引き抜き、メグに託す。

「これに陽と陰の気がたまっているはずだから、わたしたちの御朱印帳と一緒に、神殿で奉納して。わたしたち、JRと阪神電車ですぐに追いかけるから、神社で待ってて」

 ツーリングチーム緋雷の初代連絡係であった平井のマシンは、緋色の稲妻ステッカーを貼った、千七百八十三CCのVツイン。ドラッグモンスター、ブルバード。コーナリングは不得手で、六甲の下りやコンテナ倉庫の周回などではスーパースポーツに譲るものの、高速の直線でこいつに後塵を浴びせるのはまず不可能だ。

 久しぶりに、飛来する緋雷と呼ばれたおれの勇姿、魅せてやる。スロットルをひねれば、大地をゆるがす重低音のビートが、鼓動と共鳴する。名神だったら、ポルシェだろうがフェラーリだろうが、おれの敵じゃないぜ。

「祐二、何でそんなに生き急いでたんだ。公道で、おれより速いのはお前だけだった。ひとりだけ勝ち逃げなんて、ずるいじゃねえか」

           *

 ヴェントエンジェルの三人から遅れること二十メートル、最速店長ズはほとんど団子状態でゴールした。脇本が体一つ分、抜けた。

 最後に庭島がふらついたから、四郎を置き去りにして、そのまま右からパスしてやった。やっぱりおれの方が速かったな。でも、まだ終わりとちゃう。

「米プラザに一着じゃなかったけど、それはしゃあない。ここは何着でも一緒や。その分、西宮神社で挽回するわ。はい、そこで本日の秘密兵器の登場です。ホッケンハイムサーキット最速記録を持つスペシャルエディション。コンパクトスーパーカーの最高峰、ロータスエリーゼ2シーターミッドシップ。全幅は細身やし、コーナーは自由落下とおなじ1Gの遠心力で曲がれる。どこでもなんぼでも飛ばせるで。

 あの元プロ野球選手かて、ごっついベントレーで渋滞の路肩走っとったしな。まあ、おれは薬物はやらへんけどな、カフェインだけやし、かわいいもんやろ。ほな、庭島さん、四郎さん、一日お疲れさんでした。京都駅まで、うちのもんに車で送らせます。すんませんな、この車、二人乗りなんで。

 じゃあ、岩田、あとは頼んだで。一番に神社まで着いたら、うちの店が、お前ん所のミニコミ誌のスポンサーなったるわ。

 あっ、しもた。靴履き替えるん忘れとったわ。ビンディングシューズなんかで参道走られへん。おい、岩田、足何センチや。神社に着いたら、お前の靴、貸してくれ」

          *

 琵琶湖大橋からよくみえる比叡山が、夕日を浴びて朱色にけぶっている。湖東にかけて、天空には大きな虹がかかった。ハチケンは、改めて君世にあいさつする。

「ぼくも今から陽子さんと追いかけますけど、君世さんはどうされますか?」

「もちろん、仮説の検証のためにも、西宮神社にお伴します。よく見えなかったけれど、亜弓ちゃん、一着で間違いないんでしょ?わくわくしますね、何が起きるか」

          *

 もともとは、祐二に勝つためにチューンした、ハヤブサ千五百ターボ。今から思えば、お前に勝つためには、いくら馬力を上げても無駄だった。マシンの咆哮とシンクロするのはいい。その後だ。マシンに言うことを聞かせるんじゃなくて、自分を捨てて、おれがマシンの一部にならないと、あの切れ味鋭い走りに敵うわけがなかった。

 祐二は最初から、自分のちまちました欲望とか打算とかを捨てていた。それがおれと、あいつとの一番の差だったんだ。でも、今なら勝負できる。周りの車なんか全部、おれの人生と交わることもないままに、過去という名の地平に散らばった石ころに過ぎない。

「見えるぜ、おれの前を走る祐二の奴が。カタナの甲高いエキゾーストが、おれのハヤブサとハモってるのが聞こえる。いつまでもお前の背中ばっか見てると思うな。今からお前の影を追い抜く」

 スロットルに連動し、心拍がレッドゾーンに上がった時、風切り音に混じって、メットのインカムから亜弓の声が届き、閃太郎は少しだけ、我を取り戻した。

「さっき言ってた、祐二が言い残したことって、何?」

「もしタケチアユミって女が現れて、その時におれが居なかったら、彼女が自分で前に向かって進めるようになるまで、離れて見ててやってくれないかって。それ以上の手助けは大人に対して失礼だから、余計なことはするなって。・・・それから、ありがとうって伝えてくれと」

 背中越しに伝わるぬくもり。オイルと、なめした皮と、ディスクパッドの焦げたにおい。回転計が右に振り切れて、エキゾーストノートが二オクターブ上がり、全身の毛が逆立つ。

 大きな背に遮られて、前を見ることはできない。少しでも横に顔を覗かせたら、風のハンマーで首が折れてしまう。このまま力一杯しがみついていないと、澱んだ世界に置き去りにされてしまう。終わらない加速感に身を委ねなければ、不完全燃焼の今という時の中へ振り落とされる。コーナリングのたびに世界が傾き、今を生きる命みたいに、タイヤがアスファルトに削られて、遠心力で逆流する体中の血。

 祐二のことばが祐二の声で、何度も何度も頭の中に繰り返し響く。祐二のいのちが、わたしとシンクロする。今、この瞬間が、永遠になる。頬を伝わる涙を拭うことはできない。だったら、このまま、止まらないで。フルフェイスのメットで閉じ込められたわたしを、解き放って。風より速く、もっと速く、あなたの居るところまで連れて行って。

「祐二。一度も言えなかったけれど、好きだよ。ずっと」

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