第31話 米プラザ(前)

 滋賀県の名産品としてまず米を挙げる人は、関西でも、そう多くはない気がするが、道の駅びわ湖大橋米プラザの正面入り口の両脇には、米粒をデザインしたイメージキャラ、おうみくんが二体、訪れた客を出迎える。当然ながら売店では自慢の近江米を販売している。全体としてはコシヒカリの売り上げが多いものの、日本晴など、やや小粒で硬質な天日乾燥米は、酢の乗りが良く、寿司米に最適と言われる。

 商業施設からやや外れた第二駐車場の端にセレナを停め、亜弓は陽子と一緒にストレッチを行っていた。道の駅あわじから車に乗り込み、串に刺した焼き穴子を食べていたはずだが、気が付けば琵琶湖のほとりに着いていた。

 明石大橋のたもとで感じた、懐かしく、切ない記憶の断片。あの時、自分は誰と一緒に居たのだろう。母ではない。陽子でもない。まして父でもない。多分、陽子に尋ねれば、何か教えてくれるだろう。でもそれは、人に聞いて思い出すのではダメな気がする。陽子のあの時の様子からすると、わたしにとって、とても大切な人なんだろう。それを一向に思い出せないというのは、いったい自分に何が、いや、その人に何があったのだろう。

 思い出すのがこわい。それは隠さなくてもはっきりしている。でも、陽子は、私にそれを思い出させようとしている。それはわたしのために違いない。ならば、これからビワイチを完走すれば、思い出せるはず。大丈夫、陽子は絶対わたしを見捨てたりしない。どんなに過酷な状況に陥っても。むしろ、陽子のために、今わたしができることは、走ることしかない。

 時刻は十二時十二分。スマホの検索に拠れば、米プラザから西宮神社まで八十三キロ、一時間十六分。日没に間に合うためには、十八時までに戻ってくればいい。ハチケンが言うにば、他にもシークレット・ブルベの参加者らしきサイクリストを何人か見かけたらしい。一着になれればいいけれど、陽子には一着になってほしいけれど、仮にそうでなくても、走った事実は何かを残してくれるはず。

「ううん、大丈夫じゃない。体中痛くて、へろへろだけど、でも走るよ。ここでリタイヤしても何も変わらないし、何も得られない。自由に近づけるかどうかなんて分からないけど、自転車は前にしか進めないからね」

           *

 JRは時刻通りに堅田駅に着いた。ヴェントエンジェルの三人は、輪行袋を抱えて改札に急ぐ。ここは一秒を争う。コインロッカーに荷物をしまってなどいられない。シホの殺気を察してか、ミドリはシホが何も言わなくても自分のマシンに両輪を装着した。着替えや化粧品、おやつや靴などの入ったバッグは、盗まれようが構わない。改札横の待合室の隅に放置した。

 堅田駅から米プラザまでは二キロ、ロードバイクで四分。駅を出発したのが十二時四十分、十八時に米プラザまで戻るのは不可能ではない。と、先頭を行くミドリが振り向きもせず加速し、メグとシホを置き去りにする。シホが大声を上げて追いつこうとするが、ミドリの背中は小さくなっていく。

「ごめん、シホさん、メグ。何も言い訳はしない。わたしは、こうするしかなかったの」

           *

 大型オートバイを運転していた青年は、神戸からソロツーリングに来ていたと述べた。脇本らの乗ったハイエースを追い越した途端、ネコが飛び出してきて、急ブレーキを掛けてしまったと言って、しきりに頭を下げる。脇本たちは無論のこと、車を運転していた脇本のチームの若手も誰一人、ネコなんか見なかった。ただ、初対面の腰の低い青年は当たり屋には見えず、車のバンパーよりむしろ彼のオートバイのマフラーが傷んでいるのは事実なので、感情的に責める者はいない。猛井四郎などは、「ネコなんだから仕方ねえよ」と、必要以上に同情的になっている。

 庭島栄司は、不審な感情を抑えるのに苦労していた。この青年、確証はないが、早朝の道の駅あわじ駐車場に居たのではないか。だとすれば、目的はひとつ、ビワイチのスタートを遅らせること。ということは、他のシークレット・ブルベ参加者の一味に違いない。簡単には口を割りそうもないし、警察のいる前で手荒なまねもできない。何よりも、時間がもったいない。交通課の事情聴取が一段落したら、このまま出発するしかないだろう。

 脇本優は,西側の道を見やりながら、時計を気にしていた。取り調べが済む前でも出発はできるはず。それまでにあの子が間に合わないと、作戦が狂う。時刻は十二時四十三分、四郎と庭島の三人で仲良く協調できれば、十八時までに戻ってくるのは楽勝だ。ただ、四郎のおっさんと一緒に居るとロクなことがない。もっと乗せやすい単細胞だとナメていたが、妙に勘が働いたりする。庭島も、ばか正直な脳みそ筋肉クンだと思っていたが、御朱印のこととか、油断のならない野郎だ。こいつらと一緒に走れば、むしろおれの方が先頭交代とかで利用されてしまう。ここはやはり、あの子を巻き込むのが正解や。おっ、やっと来たか。待ってたで。

「じゃあ、四郎さん、庭島さん。ぼくはこの先、ソロで行かせてもらいますんで、申し訳ないけど、お先に」

 庭島はあっけにとられながら、道路にチョークを引いて距離を測定している警察官を見やったが、別段止めるふうでもない。もう運転手以外は用はないんだな。脇本の考えはよく分からんが、一人で逃げたところで、湖北辺りで捉まえられすはず。泳がせておけばいい。傍らの四郎を見ると、案の定、鼻で笑っている。

「脇本の脚質は平坦型パンチャーだからな。琵琶湖は速くて当たり前。三分、二キロまでは泳がせても大丈夫だろ。じゃ、おれらも、そろそろ行くか」

 ミドリは背中のポケットからハンドタオルを引き出し、アイウェアの隙間からあふれる涙を拭っていた。気が付くと背後にピンクのジャージの男が、ミドリを風除けにして、ぴったりと張り付き、機嫌の良さそうな声が届いた。

「よう来てくれたな。おおきに。女の子同士でちんたら走ったところで、どうあがいても、あのクソ速いおっさんらには勝たれへんしな。ここはぼくとペアランが正解やで。よしよし、ちゃんとバーエンドも付け替えてあるな。これがオーブっちゅうて、気を溜める特製アイテムなんや。

 じゃ、最初だけ前曳いてくれ。彦根あたりまででええわ。そこから交代しよ。もちろん、ゴール前は真剣勝負や、手加減抜きやで。まあ、あんたが負けても完走したら何かおごったるわ。鮒寿司茶漬けでええか?」

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