第27話 アワイチ・走破(前)

 二年前の最速店長選手権では、ゴール前スプリントで脇本優との一騎打ちを制して優勝した庭島栄司であるが、昨年はダークホースと思われていた猛井四郎の積極果敢なアタックに対応しきれず、ゴール前の集団から抜け出せずに惜敗した。あの悔しさは忘れない。今年リベンジするために、市民ロードレースだけでなく、ヒルクライム大会や、グランフォンド、シクロクロスなど、あらゆるレースやイベントに出て、実戦で鍛えてきた。

 戦況を読む。まずそこからだ。確認できたシークレット・ブルベの参加者は、自分を含めて十人。アワイチの順位は重要ではない。最終的に脅威となるのは先行した脇本と四郎の二人だけ。多分、彼らは、おれが岩屋までに追いつかなければ、見捨てて車を出すだろう。

 仮にそうなったらどうする。道の駅あわじにタクシーを呼ぶか。淡路ICからバスに乗り込むか。舞子発十時三一分の電車に乗れば、十二時四分に、米プラザ近くの堅田駅に着ける。タクシーで大津に行くより時間的には確実だが、大きな袋を調達しなければならず、自転車の分解、組み立てで時間を食う。やはりこのまま追いつく方が分かりやすい。

 女の子を連れた中年おやじは、あれは多分美津根さんだ。千キロを超えるブルベなら持久力で勝てないが、三百キロなら、巡航速度で優るこちらの敵ではない。残りの女子たちはペダリングもフォームも付け焼き刃で、いくら高性能マシンを駆っても話にならない。ほかに後を追って来る者もいないし、仮にいたとしても、今からじゃタイムオーバーだ。だとすれば、おれが今、やるべきことは、一刻も早くあの二人を捕まえること。最速店長の称号を取り戻して、息子と奥さんに笑顔を届けるために。

 パンク時のチューブ交換をいかに素早く済ませるかは、結果に直結する大問題である。庭島は毎日、自分の店で客のホイールを整備しているので、チューブ交換は歯磨きと同じくらいに手慣れた作業に過ぎない。

 タイヤ外周のビードをつまんで、リム中央部の凹みに落としてやれば、たいていはタイヤレバーを使わず、素手でタイヤを外せる。サドルバッグから極薄ラテックス製のスペアチューブを取り出し、素早く取り替える。ラテックスチューブは踏み込みが軽くパンクに強いが、熱に弱く、熱伝導率の高いカーボンリムの場合はディスクブレーキでないと危険だ。それに空気の抜けが早い。今回は、長い下りもないし、空気抜けも、あと半日程度は支障ない。ハンディポンプをフレームのホルダーから外し、チューブのバルブに挿す。

 少し空気を入れ、チューブをタイヤが咬みこんでいないのを確認してから、タイヤをはめ込む。そこから先のポンピングは腕力勝負。六気圧まで入れるのに、全力で三百回以上は押し込まねばならないが、それこそ日頃鍛えている庭島の真骨頂である。CO2ボンベを使えば一瞬で済むが、ラテックスチューブと二酸化炭素の相性が悪く、半日で空気が抜け、ぺしゃんこになってしまう。作業終了まで五分、ちょっともたついた。

 庭島のマシンは、エアロダイナミクスと剛性、応答性のバランスに優れたイタリアンバイク、白地にブルーが鮮やかなエラクル。シャープで攻撃的なデザインの割に、ロングライドの快適性も併せ持つ。大きく息を吸い込み、ペダルをバチンとはめ込む。下ハンドルを引きつけ前傾姿勢を深めながら思い切り踏み込み加速する。ヘルメットの風切音で集中力が高まり、雑念を背後に置き去りにしてくれる。体が温まった頃に、前方で大きく両手を振っている女性が見える。止まれと合図している。これは脇本のトラップではなさそうだ。

「ここ、通れるんですね。ありがとうございます。強行突破するつもりでした。岩樟神社ですか、はい、分かってます。手ぶらで回るなんてバカなことしませんよ。ほかに蝦夷を祀ってる万福寺かなと迷ったんですけど、あっちはなんとか天皇の霊を鎮めるためのものですよね。調べました。だから、岩樟神社が本当のスタート地点だろうと思って、日の出前に神主さんに無理言って御朱印もらってきてます」

          *

 アワイチはアマチュア時代に五時間で回ったことがある。でも、なんでいつも向かい風なんだろう。岩屋から洲本へ南下する二八号線も、島の南部を西進する七六号線も、そしてサンセットラインを北上する三一号線も、全部向かい風だ。あり得ないけど、これが現実なのか。世間の風当たりってのは、いつもこんなのだっけ。わたしがそう思っているだけなのか。

 荻原真理子のギヤクランクには、楕円リングを装着している。踏み込みトルクがかかる角度でアールが緩くなり、速度が出る。クランクの下死点と上死点ではアールを小さくして、すばやく踏み抜けられる。クリスチャン・ブルームも愛用する楕円リングは、チェーン脱落のおそれや変速性能低下というデメリットはあるが、少しでも速く、誰よりも速く、前に進もうとする乗り手の意志を具現化するためのアイテムである。

 道の駅うずしおを抜ければ、もう大きな起伏はない。あとは風を斬りながら、一気に岩屋まで戻るのみ。心拍を百七十まで上げずに、西海岸を四十キロ超で巡航できれば、ビワイチの前半で追いつける。ん?工事、通行止め。どうする、行くか。

「真理ちゃん、真理ちゃん!待ってたのよ」

 君世の夫である田中洋輔選手は、全日本ロード選手権で優勝したトップレーサーであるが、ヨーヨーが得意なことから、友人達からは八王子のヨーヨー王子と呼ばれ親しまれている。荻原真理子は一歳年上の田中選手を兄のように慕っており、十歳年上の君世とも親しかった。

「なんで君ちゃんがこんなとこにいるの?わー、赤ちゃん、抱っこさせてもらっていい?あ、だめだ。そんなことしてる場合じゃない。早く行かなくちゃ。ここ、通っても大丈夫だよね」

 君世はバッグから小さな冊子のようなものを取り出した。真理子の事情はすべて分かっているふうである。右上に朱で恵比寿誕生地と書かれた御朱印であった。あとは岩樟神社の名と印、今日の日付だけを、細い楷書で記されたシンプルなものである。一方で、西宮神社の御朱印には、社紋である三つ葉柏の朱印が押されている。あの模様は、メビウス・ロードの秘密を解く鍵の一つに違いないが、確証がない。

「これ、持って行って。一つしかないから、どうしようかと思ってたんだけど。真理ちゃんで最後だよね、多分。だったら、持って行って。折っても大丈夫。さっきお参りしてもらってきたの。美津根さんたちは、今そこに向かってるから」

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